08.反逆②
周囲が開けた。外に出たようだった。
中庭だろうか、広い場所だ。中央にある大きな噴水が、月明かりを煌めかせて激しい飛沫を上げている。
どこからともなく不快な、それでいて恐怖心を煽られる警笛の音が聞こえた。リンファにとっては初めて聞いた耳障りな音だったが、その音が何を示しているのかは大体察しがついた。
「ねえ」
リンファは自分を担ぐ男に話しかけた。返事はない。男は少しだけ息が上がっていた。
「どこに逃げるつもりなの?」
聞きたいことは色々あるが、ひとまずどこに向かっているのかだけ尋ねることにした。この男も、無鉄砲に逃げているわけではないだろう。
「……とりあえず、兵団の外だ。その後は……一応当てがある」
「当て?」
「ああ」
男が不愛想な返事と共に頷く。
「アーガルズの中心の――ファナケルの泉の畔に目的の場所がある」
「そこに何かあるの?」
「ああ」
男は再び、可愛げのない相槌をした。
後方から、鉄靴が石畳を踏み鳴らす音が聞こえた。追手が来ているようだった。リンファは自分を担ぐ男の顔を見上げる。彼も追手が動き出していることは分かっているのだろう。その顔には少しだけ、焦りの色が見えていた。
それ以降、男は口を開かなくなった。気づけば周囲からは人工物が消え、目の前には闇夜と共に青々とした草原が広がっていた。アーガルズ兵団の敷地の外に出たのだ。右手の方にはポツリポツリと星を落としたように街灯りが輝いて見えた。
恐らく男にも余裕がなくなってきたのだろう。リンファを抱えたままでの全力疾走、おまけに後ろからは二人を追いかけるように、鉄靴の音が不揃いなく正確な速度で鳴り響いていた。リンファでさえ、その音に追い詰められていると感じたほどだ。
この男も、そうなのだろう。
体力も随分と消耗し、後ろからは尋常でないほどの圧力を掛けられる。精神的に追い詰められても無理はないだろう。
「ねえ」
リンファは男に呼びかける。返事はない。
「私を置いてあなた一人で逃げたらどう?」
ぴたりと男の足が止まった。リンファはそのまま続ける。
「私には逃げる理由がないし、あなたはあなたで私を脱走させた罪に問われるでしょう? このまま捕まったら二人そろって断頭台送りよ。だから、あなただけでも逃げたらどう?」
風が一撫で、リンファの頬を掠めた。
草が身を寄せ合って擦り合わせる音色と、規則正しい足音が少しずつ近づいてくる。
「それは、できない」
男は静かに答えた。
「あらそう。でも、私をずっと抱えきりっていうのも疲れたでしょう?」
「疲れていない」
「嘘おっしゃい」
リンファは男の頬をべちんと叩き、足をバタつかせた。するとどうだ、あれほどにまでリンファに膂力で勝っていた男の腕から、ずるりとリンファの身体が滑り落ちた。
「実は結構疲れているんじゃないの?」
「疲れていない」
「強がるのも大概にしなさい。少しずつ歩速も落ちて、後ろから迫る追手との距離が縮まっていることぐらい、あなただって分かっているでしょう」
リンファが諭そうとすると、男は顔を俯かせ、歯を食いしばった。
「俺だけ逃げることは、できない」
その固く食いしばった歯は、そんな決意の固さの表れだった。
「そう。だったら私はこの場所から一歩も動かないわ。追手が追いついたら、私はたちまち殺されるでしょうね。でも、それでいいの」
ちらりと視線を横にやる。音しか聞こえなかった追手の足音が揺れとして既に体感できるほどに迫っていた。数はいくらぐらい居るだろうか。十や二十は下らないだろう。
目に見えるその集団は揃いも揃って鎧を着こんでいた。手には剣やら槍やら弓やら。彼らの歩みが止まる。風が凪ぐ。こちらの姿を認識したらしかった。隊長と思われる人物が後方の数人、弓を持つ兵士に何か指示を出した。兵士が矢を番え、月のある方向に真っ直ぐに向けた。
引き絞られた矢が一斉に放たれる。凪いだ夜に、幾本もの矢が空気を切り裂く音が鼓膜を震わせた。鏃が月明かりを跳ね返し、宵の空に無数の流星を作り出す。それらは弧を描き、真っ直ぐにリンファの元へ飛ぶ。
リンファは自分に向かってくる矢の一本を見つめた。矢との距離は人間一人分だろうか、もう間もなく、矢は彼女の胸元に穴をあける。彼女の着る白い衣服を赤く染める。そうすれば、自分が神々に仰せつかった役割は終わりだ。
人間に殺され、〈人神大戦〉で人を殲滅するための口実となることが、この瞬間に――やってこなかった。
いくら待っても矢はリンファの胸を穿たなかった。それどころか目前に迫っていた矢がいつの間にか視界から消えていた。周囲を見渡せば流星のように飛んできた他の矢も、どこにも見当たらない。何本かは確実にリンファの腕や足を掠めるかのごとき軌道を描いていたはずだ。だというのに、リンファは傷の一つも負っていなかった。地を見れば、半ばで斬られた矢の数々が力尽きたように転がっていた。
正面に向き直ると、一人の男の背が見えた。
「あなた、なにしてるの……?」
リンファの中に渦巻く驚愕、困惑がその背に問うた。
男は振り返らなかった。ただ一言「守る」と。男の見つめる先には追手の兵士が大勢、剣や槍を構えて突進してきていた。後方にいる弓兵たちも二の矢を番え、射角を上げている。
矢が放たれた。それを皮切りに兵士たちは雄叫びを上げ、一斉に男に突進していった。まるで踏み倒すかの勢いで。その一切を、男は手に持つ槍で薙ぎ払った。それは一瞬の出来事のようで、随分と長いことのようにリンファには思えた。
多勢に無勢、圧倒的に男は不利な状況だったはずだ。頼まれてもいないのに守る者を設定し、夜空から降り注ぐ矢を叩き落とし、同時に正面から向かってくる剣や槍を避けながら、それらを操る人間を確実に無力化していく。
「同胞を殺すの?」
男の背に問いかける。
「いいや」
帰ってきたのはそれだけの否定の言葉だった。
男の右前方から槍の一突きが繰り出される。男はそれを受け流すと、そのままの勢いで兵士の首元に自身が握る槍の柄を打ちつけ、気絶させた。地には既に十数名の兵士が倒れ伏していた。その誰もが血を流さずに気を失っていた。
魔法は使っていなかった。ただひたすらに槍を振るい、一つ、また一つと戦況を変えていく。気がつけば全てが終わっていたというと少々語弊があるが、予期せぬ一方的な攻防をただただ眺めているだけだった。
最後の一人が倒れ伏した。弓兵だった。矢を失い弓を捨て、腰に提げた剣を抜こうとしたとき、男の握る槍がぐるりと回り、穂先に代わって石突が兵士の鳩尾に命中、気絶した。
リンファの思いを裏切るような、そんな呆気ない終わりだった。