76.愛なんていらない
パチパチと木の燃える音が鼓膜を揺らした。焦げ臭さが鼻孔をくすぐる中で、リンファは自分の周囲を見渡した。先ほどまで見ていた光景とは打って変わり、僅かに火のついた朽ちかけの大樹の洞の中に佇んでいた。見上げた先には陽光を遮る灰色の雲が敷き詰められ、今にも降り出しそうな空模様だった。
「見事だよ、竜の魔女」
後ろで軽薄な声がした。振り向くと白髪白眼の邪神が一人拍手をしていた。その賞賛の送り先はきっと自分だろうと思い、リンファは「どうも」と声を出す。「竜の魔女」と呼ばれたことに関しては何も言わなかった。実際、既にリンファが守るべき竜は死に、彼女の存在意義自体もうこの世にはないのだ。今更魔女と侮蔑されたところで別段怒りを覚えることもなかった。
「これでよかったのよね、竜神ヨルムント」
小さく跳ね、木の根分ほど高くなっている洞から飛び降りながら言う。「もちろんだ」とヨルムントは頷いた。
「当初の計画に修正できたよ。本当にありがとう」
「感謝されても嬉しくないわ。問題は残るでしょう?」
フェンルに言われた、「この世から愛が無くなる」という言葉。その深い意味こそ分からないが、決して無視していい問題ではないはずだ。愛が無くなるということは、それが仮にもし自分に適用されているとするならば、シグルズに対するこの熱い想いすらも失われるということなのだ。
この気持ちは、感情は貴ばれるべきものなのだ。
「愛がこの世から無くなると聞いたわ」
「……それがどうした?」
「え?」
愛がこの世から消えるというのは大問題だと、そうリンファは考えていた。しかしどうだ、目の前の軽薄な邪神は頭に疑問符を浮かべたかのような顔をして不思議そうにリンファを見ていたのだ。
「何を驚いているんだ? 竜の魔女。元から僕の目的はそれなんだよ。愛をこの世からなくすことが目的だった。フェンルなら今際の際に気づくと思っていたけど、彼女から僕のことを何も聞かなかったのか?」
「……あ」
そういえば、地神フェンルはヨルムントのことについて何かを言っていた。竜神ヨルムントはフロティールを、リンファの母を愛していたと。それ故に愛を恨み、憎んだのだと。竜神ヨルムントは愛を嫌っていた、と。
だとすれば、竜神ヨルムントは現状をどうにかするつもりはない。世界樹から愛が消えたまま、世界樹の存続を続けるつもりなのだ。
無論、彼はリンファのことを殺すつもりだろう。もちろんシグルズも――。
「シグルズ?」
先ほどから、彼の声がしないことを不自然に思っていた。周囲を見渡す。彼の姿を見つける。目が合う。その目は、リンファの知る彼とはどこか少し違っていた。
「……忘れちゃったのね」
リンファは合った目を俯かせて呟く。
シグルズ・ブラッドがリンファに惹かれていることに彼女自身気づいていた。それに応えるようにリンファもシグルズに惹かれていた。ただ、互いの気持ちをわざわざ確認するようなことはしなかった。しかし一度だけ、リンファは自分の気持ちを彼に告げたことがある。「好きよ」と心中を吐露した。彼は答えになるようなことは言わなかった。それがリンファにとっては答えだと勝手に受け取っていた。
今になって思えば、無理やりにでも彼から「愛している」の言葉を引きずり出しておけば良かったのかもしれない。
彼がその言葉を発してくれることはもうないのだから。
「リンファ?」
彼の声がする。
「……どうして、俺から目を逸らすんだ?」
もう一度だけ、まるで確認するように自分の気持ちを伝えてみようと思った。彼の口から聞きたかった言葉をこちらから行ってみようと思った。
「愛しているわ、シグルズ」
きっと彼ならこの言葉に「どうした、急に」なんていう照れ隠しを言うだろう。いや、言ってほしかった。
「……すまない、その言葉の意味が今の俺には分からない。なにか、大事だった気がするんだ、リンファのことが。
……色々なことが分からないんだ。俺はこの男を、竜神ヨルムントを恨んでいる。その理由も分からない。親を殺されたからだとは思う。だがそれは、復讐する必要があるほどのことなのか。リンファのことも、どうして大事なのか分からない。どういう風に出会って何をして今までどうしてきたのかは覚えている。ただそこに絡む全ての感情が、すっぽりと抜け落ちているんだ。動機が何一つ分からない。どうして俺がリンファのために尽くしたのか思い出せない」
まるで力が抜けるようだった。愛の女神たるフェンルが死に、シグルズは愛を忘れてしまったのだ。リンファの開いた口は半開きのまま塞がらず、次の言葉を探している。嗚咽にも似た短い吐息だけが行き先を探すようにふらふらと零れる。
途端、背後で笑い声がした。なんといか、本当に楽しそうな笑い声だ。今見えているものが可笑しくて可笑しくてたまらない、腹の底から出している声だった。
「何がおかしいの?」
振り向き、笑い声の主をリンファは睨む。当の本人であるヨルムントは腹を抱えながら目元から伝う涙を拭いながら、それでもなお笑うことに耐えようとはせず感情をまき散らし続けていた。
ひとしきり笑ったのか、一度深呼吸して「ごめんごめん」とまるで謝る気のない謝罪の言葉を口にする。
「いやあ、あまりにも滑稽でね。これだよこれが見たかったんだよ。愛がなんだ。そんなものは出鱈目だ。親愛も友愛も家族愛も、全ての愛が馬鹿らしい。そんなものがあるから、知識をつけた命たちは無駄な争いをするんだ。知っているか? アーガルズでかつて起きた三国統一戦争も、元を辿れば一人の少年が敵国のお姫様に惚れてしまったことが原因なんだよ。そこに愛を感じてしまったから、あんな惨い争いが起きたんだ。淡く温かい感情の隣には常に凶暴性が眠っている。人間は、僕たち神々は、その可能性を孕んでいるんだ。
愛とは悪だ。人を滅ぼし世を滅ぼし、過ぎたる愛は水のやりすぎで新芽さえも枯らしてしまう。そんなもの、この世界樹には必要ないよ」
男の白眼は氷のように冷たく、そして褪めていた。愛の温かみなど知らぬように、鮮やかさから目を逸らすように。
空神ヘイルはヨルムントの心中を今になってようやく理解した。彼がリンファの母親であるフロティールを想っていたことを、ヘイルは知っていた。だがそれは、ヘイルの中では永い時の中の一瞬でしかなかった。それがヨルムントにとっては恨みで彼の時が止まるほど、大切な記憶だったのだ。
「……竜神ヨルムント、お主の言い分はよく分かった。それがフェンルを殺す理由であるならば、筋は通っておろう。しかしな坊主、お主の考える愛のない世界は、お主の瞳のように冷たく寒い世界じゃ。愛は時に人を助け、心を救う。かつてお主の存在がフロティールに彩を与えたように――」
「彼女の話はするな!!」
ヨルムントの怒号が響く。あまりのことにヘイルは動揺を隠しきれず一歩後ずさる。血相を変えたヨルムントはヘイルの胸倉を掴み上げ、その小さな体を地から遠ざけた。
「僕は彼女が大嫌いだ! 確かに僕は彼女を愛していた! けれど一方通行だったんだ! 片道の愛は所詮片道だ。向こうから帰ってくるわけでもない。そんな不便な感情、命に必要なものか。世界樹にはそんな感情が無くたって子孫を増やしている生き物はいる。人間も魔族も妖精も巨人も、皆そうなればいいんだ」
「それでは誰も他者を思いやれぬ惨い世界になってしまうぞ! 確かに愛は世に混沌をもたらし、破滅へ導くこともあろう。じゃが、全てがそうではないはずじゃ。逆もまたあり得るはずじゃ。愛があったから回避された争いだってあるはずじゃ!」
「そんなものはない! 僕は世界樹ができてからずっとその様子を観察してきた。第五階層の人間は古くから常に国という隔たりを作って対立し、争い続けていた。妖精もそれぞれ違う種族で他を見下し、貶め、いがみ合っていた。比較的温和な巨人たちでさえ、自分たちとは違う〝角〟を持った存在――目覚めを迎えた者を虐げ除け者にした。魔族に至っては他者から何かを奪うことが日常化している! 本当に愛があるというのなら、愛が世界を救ってくれるというのなら、いつになったらこの混沌とした世界を正してくれるんだ! 正してくれないのなら、争いの種でしかないのなら、愛なんてものは世界樹には必要ない!」
「……この分からずやの頑固者が!」
「言い返せないのか空神ヘイル。僕は正直、お前の存在も疑わしく思っているよ。自由と安らぎを司る? そのためにお前は何をした? 空間の造り手は、それ以降何をしていた? 何もしていないだろう? 神としての責務を果たそうとしたのか? いいや、お前は何もしなかった。お前は神出鬼没に時たま僕に顔を見せに来るぐらいで、それ以外のときはふらふらと彷徨っているだけじゃないか。この世界樹に住まう命の安らぎをお前は保証したのか? そのために何かしていたのか? 何かしていたのなら、この世界はここまで争いに満ちた世界にはならなかったはずだろう?」
「それ、は」
言葉に詰まる。図星だった。神というのは、地神フェンルがそうであったように〝いる〟というだけで自らが司るものがこの世に顕在するのだ。ともすれば空神ヘイルもそれに当てはまるのだが、実際世界樹に本当に安らぎはあったのか。なかったとして自分はそのために何かしたのか。
なにも、しなかったのだ。
「だから僕は決めたよ空神ヘイル。怠惰な神に変わって、僕が自由と安らぎを司ろう」
「……何をするつもりじゃ」
空神ヘイルは竜神ヨルムントが何かを企んでいることを察していた。自分に何かしらの危害を加えようとしていることに。だが、逃げようとはしなかった。ヨルムントは神の中でも一番に年下で、今の彼は相当に力を失っていた。逃げなくとも対処できると考えたのだ。
竜神ヨルムントの力ばかりを信じ、彼の持つ執念を全くもって信じていなかった。だから、行動が遅れたのだ。
「僕をバカにするからこうなるんだ」
ヨルムントがほくそ笑む。ヘイルは違和感のある腹部に視線を落とす。それは既に深々と突き刺さっていた。
「これ、は」
真紅にそまる炎姿の刀身。その内側から、肉を寄越せ力を寄越せと何かが、悪魔が迫っているような感覚をヘイルは覚えた。
「ニーズヘッグだよ。エルマの遺体付近から回収した。僕は本当に博打が好きみたいでね、今回も賭けだよ。ニーズヘッグが神を食らうかどうか賭けたんだ。根性比べと洒落込もうじゃないか、空神ヘイル、最古の神よ」
体の内側に何かが入って来る。蛇のようにうねり、中身を食らおうとしている。
「……小癪な、真似を」
意識が飛びそうになる。力が座れて力が抜けるような感覚がした。
耐えなければ、耐えなければ、耐えなければ。
そう思いながらもヘイルの瞼は徐々に下がり、視界に黒く厚い天蓋を巡らせた。
「空神ヘイルも、大したことない存在だったな」
その言葉が、ヘイルの鼓膜を震わせた最後の言葉だった。




