75.あなたは愛を忘れない
大木の中に入ったリンファは周囲を見渡した。どこまでも白い世界。天井のようなものもなければ壁のようなものも床のようなものもない。エルマ・ライオットとの戦闘の際に触れた死に際の暗闇の光景とは正反対の世界に思えた。そして肌に触れる空気はほんのり温かい。
見渡していると自分の正面、少し歩いたところに人影があるのが目に入った。淡い新緑色の長髪を蓄えた胸の大きな裸の女性。膝を抱え、背をリンファに向けている。
「リンファが来たんだね。シグルズくんが来てくれるのかと思ってた」
人影は、フェンルはどこか肩を落としたように振り向かずそう言った。
「ごめんなさいね、待ってる相手じゃなくて」
「ううん、いいの。きっと彼は優しすぎてあたしを葬るなんてできないから」
首をリンファに振り向かせる。その表情は悲しげで、リンファはフェンルのそんな表情をこれまでに見たことがなかった。「苦しそうね」と率直にその表情に対する感想を述べた。
「うん、苦しいよ。自分が信じていたものが急に崩れて、分からなくなって。リンファは分かる? あたしが司っていた〝愛〟が何なのか」
問われ、リンファは少し考え込む。
愛とはいったい何なのか。親愛、敬愛、家族愛、友愛、性愛と様々あるが、彼女が聞きたいのはそんな愛の種類が色々あるという単純かつ的外れなものではないだろう。
もっと根本的な、愛という概念そのものの存在を彼女は知りたがっている。
「……分からないの」
ぽつりとフェンルが零す。続く言葉にリンファは耳を傾けた。
「リンファもシグルズくんも〈混血〉で、それはきっとすごく素敵なことなんだ。種族を越えた愛の結晶。それなのにその血は神を滅ぼす猛毒だから、存在そのものはこの世の摂理に反している。つまり神は混血を否定しなくちゃいけなくなる。凄い矛盾だよね」
フェンルは悲しそうに笑みを向ける。
確かに矛盾だ。シグルズの存在も、リンファ自身の存在も、それこそ、第五階層を支配していたアーガルズ国王の存在も。本来祝福されるべき存在であるはずだ。種の壁を越えて子を成すことは本来素晴らしいことであるはずだ。これはリンファも同意できた。だが、それは知的生命体の持つ倫理観の上での話だ。
「……それは世界樹がそれぞれの種族を観察するための箱庭だから、他種族同士の交配を禁じている、ヨルムントからはそう聞いているわ」
「そうだね」とリンファの言葉にフェンルも頷く。
「だとしたら、どうして世界樹は〈混血〉の存在を許してしまったんだろうね」
それこそリンファには「知らない」と答える他ない疑問だ。なぜ世界樹が〈混血〉の存在を許しているのか。ヨルムントに聞けば答えを得られる可能性も考えられるが、今ここでフェンルに何かを示せるほどの時間はない。ヨルムントは「彼女に愛の何たるかを示せるのであれば殺さずに済むかもしれない」と言っていたが、リンファには到底無理な話だった。
自分にも分からないあやふやな概念を他人に説明できるはずもないのだ。
「あたしを、殺すんだよね」
まるで確かめるようにフェンルがリンファに問う。
「ええ、そのためにここに来たもの。ヨルムントも、あなたを殺すしかないって言っていた。私はあなたに愛を教えてあげられないから」
一歩ずつフェンルに歩み寄る。なぜか彼女の傍らには一振りの小さなナイフが落ちていた。それを拾い上げる。刃先に指先を掠めて刀身を僅かに赤く濡らす。
「……ここはあたしの心の中みたいなものだから、ナイフみたいなものを形作れるみたい。それをあなたの血で濡らして。そしてあたしを葬って」
フェンルは立ち上がると、ナイフを逆手に持ったリンファの手を両手で包み、ナイフの切先を胸元に突きつけさせた。
「リンファはあたしに『愛を教えられない』って言ったよね。でも、あなたはあたしの失ったものを持ってると思うんだ。だから私が――愛の女神が死んだら、後はよろしくね。リンファはきっと――愛を忘れない」
「愛を忘れない……?」
フェンルは頷くと、何かに気づいたように「あ」と声を漏らした。
「そっか、ヨルムントは愛が嫌いだったんだね。愛に生きようとした人は愛に溺れて息ができなくなるって、エルマちゃんも言ってたもんね。ヨルムントもそうだったんだ。フロティールのこと、心の底から愛していたんだ。だから愛を恨んだんだ、憎んだんだ。きっとすごく辛かったんだ」
そう言って、フェンルは静かに一筋の涙を流した。リンファの手を覆っていた手で今度は自分の顔を覆い、小さく嗚咽を漏らす。
「あたし、バカだなぁ。ヨルムントのこと何も分かってなかったんだ」
「……フェンル」
リンファはナイフを一度足元に置くと、咽び泣く彼女をそっと優しく自身の胸に抱き寄せた。
彼女が何に気づき、何に胸を痛めているのかはリンファには分からなかった。ただ彼女の様子は本当に寂しそうで悲しそうで、自然と彼女の背に腕を回していたのだ。
「あたしは今からリンファの血で死ぬ。そうしないと、世界樹そのものが枯れちゃう。でも、あたしが死ぬと、この世から愛が無くなっちゃうんだ」
「……それは、愛を司る女神が死んでしまうから?」
「うん、そう。だから、あたしの代わりをリンファにしてほしいんだ。リンファにはその資格がある。あたしみたいに誰も愛せない女神なんかよりよっぽど向いてるよ。あなたはそれを持っているし知っている」
それはつまり、リンファが神になるということだ。到底考えられない話だ。リンファは長命ではあるが、神とは違い限りある生命だ。神々のような概念ではなく、血の流れる生命体なのだ。そんな生身の存在に神を代行しろとこの女神は言っているのだ。
「私に務まるとはとてもじゃないけど思えないわ」
そもそもの話、果たして本当に彼女を殺す必要があるのかすら疑問に思える。今現在、リンファはこうしてフェンルと言葉を交わしている。意思疎通のできない化け物を相手にしているわけではないのだ。ともすれば、彼女を殺さなくてもいい方法はあるはずなのだ。
「あなたはとても理性的に見えるわ。本当に世界樹を枯らす存在になっているの?」
リンファの問いにフェンルは「うん」と短く返事をする。
「今私を覆っている木の幹は、すでにあたしの意思を離れてる。今リンファと話してるあたしは、愛を忘れたあたしの残りカスみたいなものなんだ。だからそのうち消えちゃうし、消えたら本当に手のつけようがなくなる。だから、殺すなら今しかないの」
そう言ってフェンルは微笑んだ。見れば、先ほどまで鮮明だったはずの彼女の姿が薄らいでいる。
時間は残されていないように思えた。別の手段を考えることもできそうにはなかった。
「……分かったわ」
リンファはその言葉と共に覚悟を決めると、足元に置いていたナイフを拾い上げ逆手に持ち、頭の上に振り上げた。
フェンルは、真っ直ぐにリンファの瞳を見つめていた。全てを受け入れたその目に穿たれてしまえば、リンファも覚悟を決めるしかなかった。
彼女の代わりをしてやろうではないか。
そう決意し、手を精一杯の力を込めて振り下ろした。切先は綺麗にフェンルの胸元中心を捉える。刃は思いの外すんなりと、それでいて何の手応えもなく突き刺さった。
刃が突き立った傷口からは血が流れることはなく、代わりに薄ら燃える真紅の炎がゆっくりと体をくねらせフェンルの身を焦がし始めた。
僅かにフェンルの表情が歪む。痛いのだろう、苦しいのだろう、熱いのだろう。混血の血は彼女にとっては存在を揺るがす毒に他ならない。
それでも彼女は、自らの苦痛を覆い隠すかのように小さく笑みを浮かべた。
「……大丈夫。苦しいのも辛いのも、きっとこれで最後だから」
言いながら、枯れ木が葉を散らすように彼女の存在は少しずつ崩れ去っていく。フェンルを燃やす炎はいつしか足元にも燃え広がり、それはまるで彼女を覆う樹そのものを焼いているように思えた。
いや、実際そうであることに相違はなかった。混血の血は神を、彼女の存在全てを焼き尽くすのだ。
§
「悪い芽が燃えている」
竜神ヨルムントは、火の粉を振りまき灰へと姿を変えていく大木を見上げて呟いた。それは静かに崩れるように燃えていく。少しずつ灰の山へと形を変えていく。
その頂きに佇むのは、空色の髪を靡かせた一人の少女だった。
§
世界樹第五階層〈アーガルズ〉。騎士団の兵舎の一室で、ソフィアという名の少女はただ一人の友の帰りを待っていた。
「エルマ」
呟く。ベッドに腰かけた正面には誰も居ない。主を失くした彼女の持ち物たちが、ソフィアの感じる寂しさを加速させていた。
だがそれは、唐突にどこかへ消えた。それはまるで大きな穴に感情が吸われたかのように。あるいは燭台に灯された火が何の前触れもなく萎むように。
「……まあ、別にいっか」
ソフィアの心から、親愛の火は失われた。
騎士団長バロック・ハーヴェストは弟のように慕った一人の騎士を信じていた。そして男は、誰よりも妹を愛していた、はずだったのだ。
瞬間、男は自分がなぜ騎士団長などやっているのかが分からなくなった。家族を守るための志の火は消えた。
バロック・ハーヴェストは家族愛を忘れたのだ。
世界樹第三階層〈魔族国サバト〉。謀りばかりが蔓延るこの階層にも、確かに愛は存在した。ある魔女は一人の魔女を友と感じていた。いや、こんな穢れた世界に友なんてものは存在しないはずだった。
しかしそんな世界でも、貪汚の魔女シアナ・ブラッドはウィノラを確実に信用していたのだ。その信用にこそ、ウィノラは友情を感じていたのだろう。
消えてしまった感情のことをウィノラは説明できない。もともと言葉にできない感情が消えてしまったのだ。説明も何もないだろう。
魔女ウィノラは、友愛を知らぬままに失くしたのだ。
彼らは理由を知らない。それが何だったのかも説明ができない。ただ世界樹に〝愛〟という感情は存在しない。
愛を司る地神フェンルは、この世から完全に消え去ったのだ。




