73.竜神の策①
リンファが二階に到着したとき、部屋の扉は跡形もなく壊れていた。急いで中に入ると、そこでは既にシグルズが槍を振るっていた。相対するものは、人の形をした木のような何か。
「シグルズ!」
叫ぶ。彼が両足で床を踏み立ち上がっているということは、彼が件の黄金の林檎を世界樹第二階層で口にしたということだ。正真正銘、彼が生き返ったということだ。
その胸に飛び込みたいと思った。彼が生き返ったことをめいっぱい喜びたかった。しかし事態はそんな甘ったれたことを考えている場合ではなかった。
一瞬、彼の視線がリンファの方を向いた。しかしそれだけだった。それ以上の余裕がシグルズにはないように思えた。その僅かな隙、人の形をした木は真っ直ぐにその腕をシグルズの脳天へ向けて空気を裂く。
「危ない!」
リンファが叫ぶ。聖剣フロティールを握りしめ、一足飛びにシグルズと木の腕の間に入るとフロティールを思い切り振り上げ、その軌道を逸らす。
「……すまない、助かった」
「……彼女がフェンルなの?」
シグルズの言葉に反応せずに、リンファは問いを投げかける。
「ああ、そうだ。俺が目覚めてから、彼女はああなってしまった。まるで世界樹に飲み込まれているかのように、あの枝が彼女の身体を覆ったんだ」
「そう……」
リンファは相対するフェンルを見つめる。
そこにいた者は既にリンファの知る地神フェンルではなかった。彼女の優しさも明るさも、温かみすらも感じない。無感情で硬く冷たい樹木だ。
ヨルムントの話によると、彼女を止めるには彼女を殺すしかないらしい。彼女を生かしておくことがこの世界樹を枯らすであろうことは、リンファにも容易に想像がついた。
「彼女は今どうなっているんだ」
シグルズが問う。リンファは「愛を忘れたそうよ」と簡潔に答えた。
「全部ヨルムントのせい。あの悪神があの子に必要のない刃を握らせた。その刃の意味と自分の司るものがあまりにも乖離していた。そうしてフェンルの心は壊れた。今の彼女が世界樹を枯らしかねないことは……シグルズも察しているでしょう?」
「ああ。彼女を止めるには?」
「殺すしかない、って」
答えると、シグルズは「そうか」とどこか寂し気に返事をした。
「悲しんでる暇はないわよ。この世界樹が枯れてしまえば、何もかもが無意味になるわ」
「……そもそも、竜神ヨルムントはなぜこんな真似をするんだ。世界樹が枯れることは奴にとっても良いことではないはずだ」
「知らないわよ。あれが何を考えているのかなんて誰も理解できないわ」
そう言ってリンファは剣の切先をフェンルに据えた。シグルズもそれに倣うように地震の握る槍――バルムンクの穂先を向ける。
二人分の殺意を感じ取ったのか、はたまたすでに心を失くしただぼんやりとしただけなのか、フェンルの動きが僅かに止まる。その様子はまるで二つの切先を見つめているかのようだった。
かと思えば、フェンルは両膝を床につき、手を床につき四つん這いになると耳を劈くような雄叫びをあげた。それは獣や人間があげるような生命的な雄叫びではなかった。木の虚で空気が震え響くような重低音だ。その音が、フェンルの顔――だった場所に開いている一つの虚から響いていた。少しずつ顔を持ち上げ、天を仰ぐ。床につけていた両手を真っ直ぐに上に伸ばす。
その枝は何かを求めていた。何かを探していた。伸ばした先で右往左往する枝先に、シグルズはそんな感想を抱いた。それは間違いではなかった。フェンルは探していた。それが、彼女自身が失ってしまった愛であればどれほど良かったことか。そうであればまだ、彼女は彼女として存在できただろう。
揺れる枝先がぴたりと止まる。かと思えばフェンルは猛烈な速さで、天井を打ち砕く勢いで腕を真上に伸ばした。勢いに負けて天井ががらがらと音を立てて崩れ落ちる。そこから陽光が指す。日の光がフェンルを照らし出した。
「まずい! 崩れるぞ!!」
シグルズは叫ぶとすぐにリンファを小脇に抱えて外に飛び出した。背後で崩壊する神殿に振り向いて視線を送る。
先ほどまでシグルズたちがいた場所から、一本の太い樹が天に向かって伸びていた。それはなおも伸び続ける。まるで太陽に届こうとしているかのように。
陽光を浴びるフェンルは少しずつ枝葉を増やし成長していく。陽光が遮られ、世界樹第九階層〈神域〉は闇に包まれる。
「……なんだ、これは」
それはシグルズが見てきたどんなものよりも、リンファが見てきたどんなものよりも大きかった。何かで例えることすら馬鹿らしく思えるほどに巨大なものだった。あえて表現するのならば、そう――。
「世界樹の上に世界樹があるみたいね」
そう言ったリンファの言葉が最も適切だろう。さすがに誇張表現ではあるのだが、シグルズたちの目の前で成長し続ける樹木は、比較対象が世界樹しかない程に大きく太く逞しく成長していた。
「……アレを倒せと言うのか」
足を地面の上で滑らせるようにして衝撃を軽くしながらシグルズが着地する。リンファを抱えるのとは反対の手に持つ槍を地面に突き立て制動をかける。
見上げる先にあるのは空を覆い尽くす枝葉だ。樹木とかしたフェンルが、まるで世界樹を飲み込もうとしているかのようにシグルズには思えた。
「そうだ、きみたちに彼女を倒してもらわなければならない」
背後からした声に振り替える。そこにいたのは少年とも少女ともとれる中性的な見た目の子どもを背負ったヨルムントだった。
「貴様のせいだろう」
シグルズは白髪白眼の飄々とした様子の男を睨みつける。相変わらず、男は軽薄な笑顔を浮かべて「それはそうなんだけど」などと呟く。
「彼女をこう仕向けたのは僕だ。ただ、ここまでの暴走を予期していなくてね。端的に言えば今の状況は完全に想定の範囲外だ。まあ、お前たち運命に背を向けた者共が彼女を止めてくれるのであれば、僕としては何ら問題ない」
「それではあなたの言いなりになれってことかしらね、竜神ヨルムント。あなたの手のひらの上で踊りに興じる趣味はないわ」
反論するリンファを、ヨルムントが鼻で笑う。
「じゃあ、どうするんだ? どこからどう見ても世界樹を枯らす存在であるフェンルを、お前は放置するのか? そうすれば全てが無くなってしまうよ。明日という未来を、隣にいる想い人と共に迎えられなくてもいいと? お前がそれでいいと言うのならばそうするといい、竜の魔女よ。ただ、それが愚かな選択だと分かっているのならば、今ぐらい僕の手のひらで踊ってみないか? いいや、それ以外にお前たちに残された選択肢はない。明日を迎えるためには、今目の前に聳える一つの脅威を排除しなければならない」
その言葉にリンファは押し黙った。シグルズも何一つ言い返せずにいた。全てヨルムントの言う通りなのだ。
明日を笑って迎えるならば目の前に聳える大樹を、地神フェンルを打倒しなければならない。
「わしからも頼む」
ヨルムントの背から少年のような声が言う。
「誰だ、あんたは」
シグルズの問いに少年は「空神ヘイル」と明快な回答を示した。
「わしもフェンルのあんな姿は望んどらん。もちろん、あの子が苦しむことも。しかしこうなってしまっては、あの子を殺すしかないのじゃ。そうすることでしか、あの子を開放してやれん。そしてそれができるのがお主ら混血の血なのじゃ。姿形は変われどフェンルは地神。混血の血が毒であることに変わりない」
だから頼む、と。空神ヘイルは深々と頭を下げた。
神の都合など知ったことかとシグルズは思う。そもそもの話、この状況を引き起こしたのも神々の側であるはずだ。それとも神々も一枚岩ではないとでもいうのだろうか。地神フェンルが竜神ヨルムントと異なった考えを持っていたように、空神ヘイルの意思とこの状況は無関係なのだろうか。
「ヘイルもこう言っているんだ。今はお前たちが頼みの綱なんだよ」
軽薄な竜神が両手を合わせ懇願する。その様はまるで焦りを感じていないようにシグルズには思えた。実に不快だった。
だが、彼の言っていることは概ね正しいのだろう。今は混血という存在しか使い物にならないと、ヨルムントの言葉からはそういった意味合いが汲み取れた。「それで」とリンファが口を開く。
「それで、私たちの血をどうやってあの大木に浴びせるのかしら? そもそも私たちの血を全て使ったとして、この樹は枯れるのかしら。たかだかちっぽけな命二人分の血を全て使ったとしても、その未来は訪れないと思うのだけれど。それとも、私たちの血を全部抜いて、混血という存在を消すのがあなたの狙いかしら、ヨルムント」
リンファが白髪白眼の男を睨む。男は少し悲しそうに「やだなぁ」と否定の意を顕わにする。
「そんなことは考えちゃいないさ。と、言っても信じてはもらえないだろうけど。でもね、お前たちの血を全て抜いてこの大樹に浴びせたところで、フェンルを殺す切り札が無くなるだけだよ。今もなおフェンルは少しずつだが成長し続ける。まるで世界樹に取って代わろうとしているかのようにね。そんな大敵に対して、お前たちの命を丸々差し出すのは愚策の中の愚策だ。さすがにそんな愚かな真似はしない」
「ではどうするんだ」
今度はシグルズが疑問を向ける。
「……シグルズ・ブラッド、お前はフェンルが樹に変わる瞬間を見ていたな?」
質問に質問で返され、困惑しながらも「ああ」と頷く。
「どんな様子だった?」
詰めるように問われ、シグルズは自分の見た光景を思い出す。思い出しながら、その光景を語る。
「床から蔦のようなものが生えてきて、それが地神フェンルに絡みついた。彼女を覆った蔦はやがて太さを増して表皮の硬い樹へと姿を変えた」
簡単にそう説明すると、ヨルムントは「やはりそうか」と何かに納得する様子を見せていた。
僅かに頬が吊り上がった。
「策を一つ講じた。今僕らの頭上を覆っている大木の中に入ってフェンルを殺してもらう」
そう言う竜神ヨルムントの表情は、どこか嬉しそうなものだった。




