72.要らない芽
「地神フェンルは〝愛〟を見失ったんだ」
竜神ヨルムントは淡々と現在の状況をリンファとヘイルに説明した。
「どういうことよ、今何が起きてるのよ……!」
リンファが揺れる床を踏みしめてヨルムントに歩む。胸ぐらを掴む。なおも冷静にヨルムントは説明を続ける。
「神というのは儚い存在だ。実態もなければ生命でもない。自分の司っているものが存在するための楔そのものだ。フェンルは今、そんな自分の楔である〝愛〟を見失ってしまったんだ。愛の女神であるはずが、愛の結晶であるシグルズ・ブラッドを殺さなければならないという矛盾によってね。フェンルはもはや、自我を失った邪神と成り果てた」
揺れに踊らされぬようにテーブルにしがみついているヘイルが「それが狙いじゃな」とヨルムントを睨む。
「狙い……ではあるけど、僕としても賭けだったよ。神は楔を失くすと少しずつ溶けるように消えるだけだ。だから本来こんな事象は起きない。だが、現状この不思議な現象が起きている。ヘイルならなぜだか分かるだろう?」
ヨルムントが小さく頬を吊る。鼻で笑う。
「……フェンルが最も世界樹に近い神だから。そうじゃな?」
ヘイルの言葉に頷く。
「ああ、そうだよ。空神ヘイルが空間を作り、地神フェンルが大地を作り世界樹の苗を植え、そして僕がその成長を観察した。つまるところ、創世で世界樹に触れたのはフェンルただ一柱だけなんだ。彼女が唯一世界樹に触れ、世界樹との繋がりを持った。彼女の強い感情は世界樹に反映される。それをかつて、フロティールの罪の元この目で見た。それと同じようなことが起きると思ったんだ。だからこれは賭けだった。狙ってはいたが半信半疑だった。僕としては思った通りのことが起きてくれてよかったよ」
そう言うヨルムントはその顔に笑みを浮かべていた。
「……ヨル坊、少しおいたが過ぎるぞ」
ヘイルが声を荒げる。その声音には怒りが混じっているようにリンファには思えた。
「僕を咎めている暇はないよ。今のフェンルはこの世界樹において異質な存在だ。それこそ、混血以上にね。彼女を放っておくことはつまり、世界樹を枯らすことに繋がる。あとは、言わなくても分かるね?」
宥めるようにヨルムントが言う。ヘイルはため息とともに「分かっておる」と言葉を吐いた。
「それで、どうするつもりじゃ」
「無論、彼女を殺すほか道はないよ」
明快にその答えを示す。
「もっとも、誰か彼女に〝愛〟の何たるかを示せるのであれば話は別だけどね。しかしそれは、この世の誰にも不可能だ。愛を司る女神でさえ、それが何なのか分からない。この世界樹で愛が何たるかを説く者がいるとすれば、それはただのペテン師だよ」
「……それもそうじゃな。分かった。心苦しいがあの子を殺すほかあるまいな」
ヘイルが重々しく頷く。その表情は険しかった。
「まって、神であるあの子を殺せるの?」
リンファが問う。ヨルムントが「ああ」と頷く。
「できるよ。混血を使えばどんな神でも殺せる。つまるところ、彼女を止める術を持つのは竜の魔女であるきみと、混血の騎士だけだ。さあ行け、この世界樹を守るために」
ああ、そうだろうなとリンファは思った。混血の血が神を殺す力を持っているのならば、彼らのその結論は真っ当なものだ。
「……分かったわ。あなたたちはどうするの?」
リンファが尋ねる。ヘイルが首を横に振った。
「わしは戦わぬ。わしは自由と安らぎを司る神じゃ。わしの選択はわしの自由に決めさせてもらう。安らぎと戦は相反するものじゃ」
「そう。ヨルムントは?」
「僕も戦いには不参加だね。元来僕が請け負った仕事は世界樹の観察だ。これも観察させてもらうとするよ。きみたちが勝って世界樹を救うのか、はたまた負けて世界樹が滅ぶのか、ね」
ヨルムントが頬を吊り上げて笑う。その様がリンファには不気味に思えた。
「……なにを企んでいるかは知らないけど、世界樹が枯れてしまえばみんな一緒に枯れるだけ。だからフェンルを止めに行く。決してあなたの行動を肯定しているわけでも、賛同しているわけでもないことは忘れないで」
「もちろん、お互いを嫌悪しているのだからそれぐらいは弁えるよ。これはただの利害の一致に過ぎない。彼女を止めるまで、僕はきみたちに危害を加えないことを約束しよう」
リンファは「そう」とだけ返事をして背を向けた。シグルズとフェンルがいるという二階への階段に向かう。彼の言いぶりからして、事が収まれば容赦はしないという意味が汲み取れる。実際、ヨルムントはそのつもりだろう。
「まあ、事が終わるまでは仲良くしましょう。悪巧みの得意な神様」
階段の一段目に足を掛けたところで歩みを止めて言う。反応を待たずに再び歩き出す。そして、リンファは聖剣フロティールを手に激しい音を立てている二階へと向かった。
§
リンファの背を見送ったヨルムントに、ヘイルが「どこまで企んでおる」と問うた。
「わしの反応も、リンファ嬢の反応も全て織り込み済みか?」
「まあ、概ね。ただ、ここから先はどうなるか分からない。混血という運命の謀反人が運命の主たる神に勝るかどうか。それこそ彼ら次第だ。結果を他人に委ねることは怖いが、こればかりは僕にはどうしようもないし、僕個人がフェンルと争いたくはない」
「意外じゃな。お主はフェンルの心など考えておらぬと思っておったが。そこまで彼女を思うならばなぜ、こうなるように仕向けた」
ヘイルが問うとヨルムントが立ち上がる。真剣な表情をヘイルに向ける。
「美しい命の樹を守るため、不要な芽を摘まなければならなかった。そのために必要なことだった。さあ、行こう。ヘイルも今回ばかりは観察者だ。彼らの戦いを見届けようじゃないか」
ヨルムントが神殿の出口を指さす。
「フェンル達がおるのは二階じゃろう」
「ああ。けれどこの神殿はもうすぐ崩れる。戦いの場は、この〈神域〉全体だ」
ヨルムントはヘイルの両腕を急いで掴むと、腰を落として背負う。やや走り気味に出口を目指す。顔に陽光が指したところで背後の神殿を振り返る。
その瞬間、白亜の神殿がガラガラと激しい音を立てて崩れ落ちた。粉塵が舞い、周囲に植えられた青々とした木々がなぎ倒される。
そして崩れた神殿から、真っ直ぐ点に何かが伸びる。
「……あれは」
ヘイルが目を丸くする。それは樹だった。まるで二本の蔦が絡み合うようにして天までまっすぐに伸び、枝葉をとてつもない速さで伸ばしていく。陽光が遮られ、〈神域〉が闇に包まれる。
「あれが今の地神フェンルだ。彼女には既に彼女の意思はない。世界樹という樹に芽吹いてしまった養分泥棒の悪い芽だよ」




