70.ありがとう、さようなら
翌日、エルマはシグルズ、シアナと共に件の木の元へ行く。そこにアンテロの姿はなかったが、エルマはそれをさほど気にしなかった。シアナの「アンテロは来ないのね」という言葉で存在に気づいたぐらいだった。
シグルズはというと、木の元に着くまで終始無言であった。緊張しているのか分からないが動きもいつもより固く思えた。
「待っていたよ」
木の麓、一人の少年が微笑む。新緑色の髪が特徴的な少年――ユグドラシルが指先を動かして手招きする。
「どっちが食べるか決まった?」
問われると、シグルズが一歩前に進み出て頷く。
「そうか、きみが」
そう言って、ユグドラシルは右手に持っていた黄金の林檎を突き出す。
「昔のように断られたらどうしようと思ったよ。受け取ってくれてありがとう」
「昔のように?」
不思議に思ったエルマが林檎を受け取るシグルズの横で聞き返す。
「そう、昔にも僕のお母さんが望んで一人生き返らせようとしたんだけど、本人に断られたんだ。フロティール、リンファの母親のことだよ」
「そうか、リンファが〈混血〉であるから、その母親もこの死者の国に来ていたのか」
咀嚼した林檎を飲み込んだシグルズがさらりとそんなことを言う。
「えっ、あの子〈混血〉なんですか?」
その事実にエルマは驚いた。
「言っていなかったな。彼女も俺と同じ咎人らしい。こうして縁を持つことが、運命に悪戯されているようで怖くなる」
「……そうなんですね」
話を聞いて、竜の守り人がシグルズのことを好いている理由が分かった気がした。この世にほとんどいない〈混血〉という存在。自分と同じ立場の者が現れただけでどれだけ心が救われるか。それにその相手が、自分を助けるために必死になってくれる。自分も同じ立場だったら竜の守り人と同じ気持ちを抱くだろう。
「混血であることが、生き返るための条件なのかしら? だとしたら、私やシグルズの父親――ハイエットも条件を満たすけれど」
後ろで話を聞いていたシアナがユグドラシルに問う。
「ああ、違うよ。条件とかそんな堅苦しいものじゃないよ。ただお母さんがきみたちを気に入っただけなんだ」
「……さっきから言っているその〈お母さん〉というのは誰なんだ? 俺もエルマも、お前の母親を知らない。気に入られる理由がないんだが」
シグルズの疑問に「あれ、気づいていなかったの?」と不思議そうにユグドラシルが首を傾げる。
「うーん、そうだなぁ。僕の髪とか瞳とか、見覚えない?」
そう言われ、エルマは彼の髪や瞳を観察する。抱いた感想は初めて彼を見たときと同じだった。誰かに似ている気がする。それはシグルズも同じだった。いや、間違えるはずがないのだ。神であるのにまるで人間の少女のような言動や行動をし、慈愛に満ちた心を持ち合わせている女神。ユグドラシルは彼女によく似ていた。
「地神フェンルか」
「ご名答だよ、混血の騎士。お母さんが、地神フェンルがきみたちを気に入ったから生き返る権利を与えたんだ」
「分からないな。それならなぜ一人だけなんだ? 俺とエルマが権利を与えられているならば、二人とも生き返らせてしまえばいいだろう?」
シグルズのその質問にはエルマも同意した。確かに、二人とも権利があるのであればそれはつまり、二人とも地神フェンルに気に入られているということだ。だというのに、実際生き返られる者は片方だけ。あまりにも不自然だ。
「それはその林檎がフロティールの時の余りものみたいなものだからだよ。そもそも死者を蘇らせるなんて奇跡、世界樹では起きてはならないことだ。例外的に僕がお母さんの望みを許諾しただけなんだ。一度ぐらいはと思ってね。奇跡という光がないと生命たちはその短い障害の中でさえも目的地を失い路頭に迷ってしまう。けれど、フロティールにはそれを断られた、というわけだ。だから林檎は一つだけだよ。誰かが一度口にする分しか用意できない」
「……そうなのか」
そう呟くと、シグルズは手元に三口分程度しか残っていない黄金の皮を持つ林檎を僅かばかり見る。輝き透きとおるような果汁を滴らせるそれを、大きな口を開けて一気に頬張った。
ゆっくりと丁寧に咀嚼し、飲み込む。
「……食べたぞ」
エルマの目にはそう口にするいつものシグルズが映っていた。林檎を食べたからといって、特別な変化が起きているようには思えない。
「……これでどうなるんですか?」
ユグドラシルに問う。
「変化ならほら、もう出てるよ」
そう言ってユグドラシルはシグルズの足元を指さす。それに釣られるようにシグルズもシアナも、そしてエルマも彼の足元に視線を向けた。
彼の足元はまるで幽霊のようにうっすらと透明になっていた。黄金色の粒子のようなものを発しながら、それを霧散させるようにして少しずつ足元から消えて行っている。
「もうあまり時間はないよ。何か言い残すことがあるなら言っておくといい」
「……ああ」
シグルズは自分の消えかけの下半身を確認すると、頷いてからシアナの方に向き直った。
「母さん」
「ええ」
「また会えてよかった。ずっと言いたかったことがあったんだ」
そう言ってシグルズはシアナに近寄る。腕を背に回し、優しく抱きしめる。
「産んでくれて、ありがとう。俺のことを思ってくれる上司や後輩、俺のことを好いてくれる女性に出会えた。母さんが生んでくれたから、俺は多くの人に囲まれていた。本当に、ありがとう」
その言葉に、シアナは涙ぐむ。顔を押さえて鼻をすする。
「あなたの方こそ、生まれてくれてありがとう。とても幸せな時間をありがとう。魔女のお母さんに、人を愛させてくれてありがとう」
シグルズが抱きしめる腕を緩める。エルマの方に振り向くと「エルマ」と優しく名を呼んだ。少しずつ近づいて右手をエルマの頭の上に置く。その手をゆっくりと左右に動かしてエルマの頭を撫でる。シグルズの身体は腹部あたりまで既に消えかけていた。
「ありがとう。お前のような心強い後輩を持てて、俺は幸せだった。お前が俺の背を押してくれた。お前が俺の腕を引っ張って立ち上がらせてくれた。お前には感謝してもしきれない。本当に、ありがとう」
撫でる手を後頭部に回し、そっと胸に抱き寄せる。その腕に、胸に、エルマは彼の確かな温もりを感じた。
死んでいるのだから、なんて風にも思えるものだが、それでも彼の腕の中は温かさを持っていたのだ。
「どんな時でも立ち上がる先輩に、私は惚れたんですよ。だから、立ち上がってもらわなきゃ私が困るんです。立ち上がって、生きて、生きて、生き抜いてください。それだけが、私の望みです」
「……ああ」
ふっ、とエルマを包む力が軽くなる。見れば、彼の胸も腕も、とうに光に飲まれて消えていた。
「先輩」
「どうした?」
シグルズが優しく微笑む。
我儘を言いたくなった。きっと、彼とこうして時を共にするのはこれで最後になるだろう。そうなれば、彼に合うことはもうない。最後に彼との記憶を、ずっと消えない口づけを交わしたいと思った。
「……なんでもないです。私の分も、生きてくださいね」
その言葉で自分の感情を押し殺した。シグルズが「ああ」と頷く。その言葉以上の時間は残っていなかった。
「時間だよ、混血の騎士。きみは消えた後、世界樹第九階層〈神域〉の神殿、その一室で目を覚ます。目を覚ました後どうするかはきみ自身で決めるといい。それじゃあ行っておいで、奇跡の体現者。奇跡の先にあるものを僕に、世界樹に見せてくれ」
ユグドラシルが言い終わったときには、シグルズの姿は世界樹第二階層〈死者の国ブラハ〉から消えていた。先ほど彼がいた場所を見つめて、エルマは「先輩」と呟く。
「良かったの? エルマさん」
シアナが突然そんなことを問う。何が、とはエルマは聞き返さなかった。彼女がエルマ自身の選択について尋ねていることに気づいていたからだ。きっと、いつの間にか頬を伝っていた涙を見られたのだろう。
「……いいんです、これで」
言葉を吐くと、何かが心の中で沸き上がった気がした。それと一緒に、目に涙が溜まる。視界が滲む。
「これで、いいんです。よかったはずなんです。なのに――」
涙が止まらない。呼吸が詰まりそうになり、口元を押さえる。自分の気持ちが、押し殺した本音が飛び出しそうになった。それをどうしてか、押さえきれなかった。
「……本当は、先輩とずっと一緒にいたかった。先輩も私もずっとこの場所で暮らして、先輩をずっと独り占めしたかった! 私のことだけを見て、私を愛してほしかった!!」
零れだした思いは止まらなかった。泊めていたはずの気持ちが、感情が際限なく溢れていた。
「ここにいれば先輩とずっと一緒にいられた、先輩のことを私のだけのものにできた。それなのに、どうして私は――どうして私はそうしなかったの! どうしてできなかったの!!」
蹲って、声を上げて泣く。自分のことを惨めだと思った。意地汚い女だとも思った。それでも、この未来を選んだのは自分だ。彼に立ち上がってほしいのも、彼に生きてほしいのも嘘じゃない。これも本当の気持ちだ。望んだものが多すぎた。その望みが相反していた。それだけのことだ。そこで一人の男のための選択をした。それだけのことなのだ。
「私って、バカな女ですね」
顔を上げる。シアナを見る。エルマが彼女に向けたその笑顔はどこか爽やかなものだった。
§
一人の男が目の前で横たわっている。愛を貫き、死んだ男だ。その横のベッドで、一人の少女が横たわっている。愛に溺れ。死んだ少女だ。
二人に生き返ってほしいと地神フェンルは切に願った。竜神ヨルムントによると、二人はどういうわけか生き返る可能性があるらしい。そして混血の騎士、シグルズ・ブラッドが生き返った場合は彼の持っていた忌殺しの剣で息の根を止めろと。
フェンルは膝の上に置いた一振りの短剣に目を落とす。彼が目を覚ませば、これを彼に振り下ろさなければならない。そんなことできるのだろうか。仮にできたとして、それは正しい行いだろうか。無償の愛の結晶たる彼を、愛を司る女神が殺すことは果たして間違いではないと言えるだろうか。
そしてもし、彼が生き返った場合エルマはどうなるのか。ヨルムントの話によると生き返るのはどちらか片方らしい。そんなの、あまりにも酷ではないか。どうして、そんな残酷なことを世界樹は彼らに強いるのか。二人とも生き返ってしまった方が、みんな幸せになれるはずなのに。
フェンルの心は揺れていた。神としてあるべきか、自分の自己中心的な気持ちを優先すべきか。何が正しくて何が間違っているのか、分からないのだ。
そんな風に心が迷う。
短剣からエルマに視線を向ける。それはあまりにも穏やかで死んでいるとは思えなかった。ただ、少しずつ彼女の掛ける布団が朱に染まっていくのが確認できた。
「……あ」
息が漏れる。どちらが生き返るのかを瞬間的に悟り、視線をシグルズに移す。そして、彼の瞼がゆっくりと持ち上がった。




