07.反逆①
「私の処遇は決まったかしら」
男の姿を見るなり、リンファはわざとらしい大きな声でそう呼びかけた。ちらりと鉄格子の向こうに佇む男を見やる。
「あら、随分と楽な格好をしているわね。あの堅苦しい服はどうしたの?」
男は普段の制服と思われる衣服を着ていなかった。恐らく私服なのだろう、全身黒色のコーデに身を包んでいる。上から羽織る外套のフードを、なぜか目深に被っていた。初めて見る格好だ。それに加え――。
「そんな物騒なもの、この狭い牢屋には似つかわないと思うのだけれど」
長大な槍を持っていた。男がリンファと戦闘状態に陥った際に手にしていた槍だ。男はその槍を固く握り込み、俯きがちに口を開いた。
「……お前の処遇が決まった」
「それはめでたいわね。それで、この私はこれから一体どうなるのかしら。死刑? それとも、捕虜としてこれからもこの薄汚い牢屋での生活を強いられるのかしら? 先に言っておくけど、拷問だけは嫌よ。苦しいのは嫌だもの」
男の反応はない。
様子がおかしいと思った。この男は事あるごとに自分を見下すような言動をとるし、基本的にお喋りな人間……だと、リンファは思っている。その男が口を堅く結び黙り込み、まるで何かを堪えているかのようだった。
「あなた……どうしたの?」
その様子が気になって、反射的に尋ねた。
その声に男はようやく顔を上げ、リンファの青藍色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……今、お前の看守をやっている四等兵には、地下牢へ立ち入るなと命令されている」
突然そんな話を切り出した男に、リンファは眉を顰める。
「お前の処遇が決まったからだ。俺が、お前を牢屋から出せと国王陛下は命令なさった」
「……だから、その処遇とやらを教えてはもらえないのかしら。心の準備ぐらいはしたいのだけれど」
男の、真意を汲み取り難い言動にリンファは苛立ちを覚える。
やはりリンファの言葉に男は答えず、自分のポケットから何かを取り出した。
鍵だ。
一つの輪に幾つもの鍵が繋げられている。恐らく、牢屋の鍵だろう。男はその中の一つを、何の迷いもなく選び取る。リンファを閉じ込めている牢屋に掛けられた錠前を手に取り、鍵穴にその鍵を差し込み、回した。
カチャリと鈍い音がして、鍵が開く。
「事情は後で話す。今は黙って俺についてきてくれ」
男はそう言い、リンファの細い手首を掴んだ。
リンファとて、勘が鈍いわけではなかった。男のこれまでの言動、行動で何となくの察しがついた。
腕を引かれ、牢屋から足を踏み出す。
「あなた、私を逃がそうとしているの?」
返事はなかった。返事がないことが、そうであることを示していた。だからリンファは、力尽くで男の手を振り払おうとした。
「ダメよ。そんなことしたら、あなたの立場がなくなるでしょう? ただでさえ〈混血〉は他者に疎まれる存在なのよ?」
そんな恰好だけの言葉を並べて、男のやろうとしていることに反抗した。
逃げることはリンファにはできない。ここで人間に殺されて、神々が掲げる正義の旗になるのだ。人間を粛正する口実になるのだ。人間が――果ては第五階層〈アーガルズ〉が無くなれば、そこに住まう人命以上の命は失われない。人間を生かすということは、長い目で見れば他の種族の命全てが奪われることと同義だ。
だから〈人神大戦〉が始まったし、リンファもそれに賛同した。いや、もしかしたらもっと個人的な理由だったのかもしれない。人間が守護竜ファフニールを殺すためだけに〈竜狩り騎士団〉を組織した。ファフニールを、リンファの友達を殺すためだけに組織した。そのことに対する怒りが、一番大きかったのかもしれない。
ともあれ、リンファはここで逃げ出すわけにはいかなかった。男は「殺すことはしない」「流れる血は少ない方がいい」と言っていた。そこでこの行動だ。たったそれだけの判断材料で、リンファは自分の処遇が死刑なのだと判断した。
民衆の前で首を斬られる? 火で炙られる? 水に沈められる? どれでもいい。残虐非道な人間の手でこの命が奪われるのであれば、それは神々にとって現状最良の結果だ。
だから何度も何度も、リンファは男の手を振り払おうとした。振り払えなかった。何の力も持たない少女に振り払えるものではなかった。
男の決意は固かった。その決意の固さが表れるかのように、男は固く結ぶように、決して放さぬように、リンファの手首を握っていた。
「今から少し走る。掴まっていてくれ」
男は手首を握る力を緩めた。かと思えば、右手をリンファの肩に、左手をリンファの腿に回してひょいと軽々しく持ち上げた。
さすがにこれにはリンファも驚き「ちょっと、何してんのよ!?」と声を荒げた。
「すまない、少しの間我慢してくれ」
そのまま男は走り出す。
「隠れろ」
男が使ったのは、他者の感覚器官に作用する陰魔法の一種だった。
魔力炉を持つ生物は、基本的に一種類の魔法しか扱えない。火、水、風、土の四種に加えて、陰と陽の二種類、計六種類のいずれか。リンファもこれは例外ではなく、水魔法を扱うことができた(現在は、自分を担ぐこの男に魔力炉を奪われているため、魔法を行使できないが)。
男が〈混血〉であることを鑑みるに、彼の扱う魔法は陰魔法ということなのだろう。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
現在男は、リンファを担いだまま長大な廊下を走っている。それはもう、堂々と。幾度となく、兵士や騎士と思われる人間とすれ違う。すれ違うというのに、誰一人として自分たちに気づかない。
「……初めて使った魔法だったが、意外と効果があるな」
そんなことを男は呑気に呟いている。そんな独り言も、どうやら周りの人間には聞こえていないらしい。
廊下の窓から外が見えた。数日ぶりの本物の空。日は沈み、目に映る東の空は既に闇が天幕を張っているかのようだった。
男はリンファを抱えたまま走り続ける。
「ねえ」
少しも息が上がっていない男に、リンファは声を掛けた。聞きたいことは山ほどあった。言いたいことも山ほどあった。怒りというか呆れというか、そんな感情が男に対して際限なく沸いている気がした。だが、それよりも今は――。
「魔法の効果が切れるわよ」
忠告をした。
人の感覚器官に作用する陰魔法は強力だ。目を欺き、耳を欺き、痛覚さえも研ぎ澄まさせることができる魔法。それ故、魔法の効果が長続きするものではない。
隠れろは術者の姿を消すわけではない。ただ他者の視覚に作用して、一時的に見えなくするだけ。術者そのものは、最初からずっとそこに居るのだ。魔法が解けるということはつまり、そこに居ることに周りの者が気づくだけだ。
兵団本部の長い大理石の廊下の上で、一人の男がどこからともなく姿を現す。いや、最初からそこに居たしずっと廊下を走っていた。大理石を軍靴やら鉄靴やらで踏み鳴らす人間たちが一斉に足を止め、突如現れそして駆け抜けていった男の方を唖然とした様子で眺めた。
男はリンファを抱えて走り続けた。
自分たちの方を何事だと言わんばかりの形相で見てくる人間たちが、リンファの青藍色の瞳に映る。
誰かが叫んだ。
「〈竜の守り人〉が脱走した!!」
声のした方にちらりと視線をやる。目に入ったのはリンファの入っていた牢の看守をしていた兵士だった。
リンファの顔を知る者は少ない。今現在彼女を抱える竜狩りの男と、看守の兵士が一人と、先日顔を出した老人。老人について、何者かをリンファは知る由もないが、何かをぶつぶつと呟いて帰っていった。
そんなわけで、リンファの顔を知る者は少ない。もしここで看守をやっていた兵士に遭遇しなければ、この男は強行突破でリンファを連れ出していただろう。
たった一人の兵士の叫び声で状況は一変した。端的に言うと囲まれた。数は五人。廊下の上で二人分の人数を囲むには十分な数だ。全員が一斉に腰に提げた剣の柄に手を掛ける。
「こんな子どもが〈竜の守り人〉……!?」
誰かがそんな驚きの声を漏らした。剣を抜こうとした手を止める。
二人を取り囲んでいる兵士たちはもちろんリンファの容姿を見たことがない。そもそもアーガルズ兵団や竜狩り騎士団を含む人間たちは、〈竜の守り人〉は人ならざる体躯の大男だと思っていた。そんな奴が牢屋に幽閉されたことで「人間サイズなのか」とか「別段化け物でもないらしい」とか、そんな噂話が広まったのは別に不思議なことではなかったが、誰も少女の姿だとは思わなかったはずだ。
だから誰もが、柄に手を掛けた剣を抜き払うまでには至らなかった。
一瞬の躊躇。しかしそれは、男が次の行動に出るには十分すぎる時間だった。
「霞め」
男が呪文を唱える。
水魔法、今は男の内にある、リンファの魔力炉に刻まれているものだ。たちまち辺りが白い霧に覆われ、霞み始める。
その瞬間、強行突破と言わんばかりの勢いで包囲網を一直線に裂いた。
「魔法……!? お前まさか、〈混血〉の騎士シグルズ!?」
霧の向こうからそんな声が聞こえた。声を無視して男は廊下を走り抜けた。