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竜の魔女と混血の騎士  作者: 与瀬啓一
第5章~命の林檎~
69/81

69.今度は私が

 足音と共に階段の軋む音が暗闇に響く。足音が止む。その少し後に「先輩」という自分の名を呼ぶ声に、シグルズ・ブラッドは顔を俯かせたまま「なんだ」と返事をする。


 再び足音が耳に届く。闇の中で俯く視線の先にエルマの足の甲が見えた。


「先輩、私を抱いてくれませんか?」


 エルマのその言葉に、シグルズは咄嗟に顔を上げた。


「何をバカなことを……」


 顔を上げた先、その黄金色の瞳が真剣な眼差しをシグルズに送っていた。不意に目を逸らし、再び俯こうとする。


「先輩!」


 俯こうとしたシグルズの頬を二つの温かくも柔らかな手が掴み、力強く俯くことを辞めさせた。無理やり顔を上げさせられたシグルズは、目の前でどこか怒った表情を浮かべるエルマから視線を外すように瞳を下に動かす。


「どうして目を伏せるんですか。どうして私から目を背けるんですか。どうして俯くんですか。どうして、前を見てくれないんですか。私を、私の目を見てください」


 言われ、僅かに覗くようにして彼女の顔を見た。


 真剣で真っ直ぐな眼差し。少し怒っているように見えて、それでいて彼女は瞳を濡らしていた。


「私は、先輩に生き返ってほしいんです」


「……またその話か」


 エルマの刺さるような視線を避けるようにしてまた、シグルズは視線を彼女から外した。


「何度も言っているだろう。俺はエルマに生き返ってほしいんだ」


「理由を教えてくださいよ。先輩が納得する理由を言うまで私、この手を離しませんから」


 エルマがシグルズの顔を挟むようにしてほんの少し力を強める。


 シグルズは一つため息をついてから、気だるげに口を開いた。


「俺みたいな半端ものが生き返ったところでどうにもならないからだ。俺には何もできない。神を殺すことも大切な存在を守ることも、たった一人の後輩を救うこともできなかった。そんな奴が生き返ったって何にもならないだろう? だがエルマは違う。エルマは邪竜を倒す力を持っているんだ。神だって討ち滅ぼせる。俺なんかが生き返るよりずっといい」


「つまらない理由ですね」


 シグルズの考えを、エルマはその一言で一蹴した。否定されたように感じたシグルズは、柄にもなくエルマに睨みを利かせる。どこか心の中も苛立ちでさざ波が立ち始めているようにも思えた。


「つまらないとはなんだ。真っ当な理由だろう」


「真っ当すぎるんです。私だってそれはもう考えました。その上で、私が先輩に生き返ってほしい理由を伝えます」


 エルマは一度深呼吸をして、目を閉じる。ほんの少しだけの肺の空気を短く吐き出すと、目を開いてその黄金色の双眸をシグルズに真っ直ぐに向けた。


「好きだからです。先輩のことが好きで好きでたまらないからです。馬鹿みたいですか? 私もそう思います。でも、止められないんですよ。抱いてほしいって本気で行ってしまうぐらい好きなんです。好きだから生きてほしいんです。死んでしまった私のことを、先輩が救えなかったと嘆く私のことをずっと一生死ぬまで抱えて生きてほしいんです」


 エルマのその考え方をシグルズは身勝手なものだと感じた。自分に好意を寄せてくれていることを理解した上で、そう感じた。


「生き返って何になる」


 小さく口を開く。小刻みに声が震える。


 きっとこの感情は彼女に対する怒りではないだろう。もちろん自分に対する怒りでもないだろう。それでもシグルズの声は少しずつ怒りのこもったように震え、声は少しずつ大きくなっていった。


「俺に生き返らせて、どうしろと言うんだ。俺の小さな手では何も掬えない。誰も救えない。全部零れ落ちる。俺が生き返る以上に無意味なことはない」


 そうだ、この震わせた声の奥にあるのは怒りなんてものではない。そんなもの、とうの昔に通り越していた。


 その言葉に込められていたのは、シグルズの自身に対する失望でしかなかった。


「……なんで」


 エルマが何か口を開いた。まだ何か自分を説得する言葉を吐くのだろうと、シグルズは耳を手で塞ぐ代わりに硬く瞳を閉ざした。


「なんで、分かってくれないんですか! なにかをして欲しいから生き返ってほしいんじゃないんです! ただ先輩に生きてほしいから!! 生き返ってほしいんです!!」


 ああ、ほら、そんなことだ。


「生きることが、そんなにいいことなのか?」


 その疑問はシグルズが初めて抱くものだった。エルマの訴えに感じた素朴な疑問だった。


「〈混血〉という普通ではない血を与えられ、神に因縁をつけられ、竜の守り人に情を抱いてしまった。アーガルズの国王を討った。シグルズ・ブラッドであれば神を討ってくれると誰かが言う。それに誰かが同調する。英雄になるべくして生まれたと誰もが思う。俺も、自分のことをそうだと思っていた。そうだと錯覚していた。違ったんだ。俺は何も特別じゃない。俺はただ、人間と魔族の間に生まれただけの小さな存在だった。神と渡り合えるわけでもなく、守ると誓ったものを守れるわけでもない。どこにでもある小さな命だった。

 使命に敗れたんだ。誰かに期待されるのも、自分に期待するのももう疲れたんだ。俺はもう、この〈人神大戦〉から退きたい」


 ずるりとエルマの手がシグルズの頬から滑り落ちた。


「……なん、で」


 彼女のすすり泣く声が聞こえた。そうだ、シグルズ・ブラッドと言う男は大切な後輩を泣かせてしまう碌でなしだ。彼女の涙を拭ってやる気力さえ起きない空っぽな男だ。


 シグルズ・ブラッドは、英雄になり損ねた男なのだ。


「……それでも、私は先輩に生きてほしいって言い続けます」


 エルマは自分の目元を腕で拭うと、嗚咽を飲み込んだ確かな声でそう言う。


「もうやめてくれ。俺に構わないでくれ」


「やめません。私は私の望みを諦めません」


「俺はもう諦めたんだ。棄却を選んだ者に対して、エルマは生きることを諦めるなと言うのか?」


「言います。先輩だから言うんです。ずっと諦めてこなかった先輩だから言うんです。自分の歩いた道を見てください。自分の救った人間を見てください。あなたを信じた人たちを見てください。私を、見てください」


 エルマは鼻をすすりながらもう一度、今度は優しくシグルズの頬に手を添えた。


「私は先輩に救われたんです。両親を失って荒んだ心を持ったまま騎士を目指した私に、全部に心を閉ざしていた私に、先輩は声を掛けてくれた。私を何度もご飯に連れて行ってくれた。鍛錬に付き合ってくれた。その全ての時間が、私を救ってくれたんです。

 先輩は竜の守り人を連れ出した。彼女のことは私も詳しく知りません。けれど、彼女が先輩を慕うのには理由があるはずです。私と同じように。先輩はアーガルズ国王を倒しました。きっとそれは、多くのアーガルズの人々を救うはずです。騎士団長閣下も、兵団長閣下も、先輩に救われているんです。そういうとき、人はある言葉を口にします。口裏を合わせたわけでもないのに、人は誰かに救われたときに必ず同じ言葉を言うんです。〝ありがとう〟って。先輩が、私に教えてくれたんですよ」


 そう言うとエルマはそっとシグルズを胸に抱き寄せる。後頭部に手を回してゆっくりと優しく撫でる。


「先輩に救われた人はたくさんいます。先輩は無力なんかじゃないです。誰かを救う力を持っているんです。誰かを救うことを諦めないで。先輩の帰りを待っている人がいるんです。先輩に生き返ってほしいと願う私がいるんです。先輩に諦めは似合いません。私が先輩に出会ったとき、先輩は諦めずに私に構ってくれました。だから今の私があるんです」


「……それでも俺は、生き返りたいとは思わない」


「先輩、可愛い後輩のお願いも聞いてくれないんですか? また昔みたいに我儘聞いてくださいよ」


「……しつこいな」


「先輩ほどじゃないです」


 昔のことを思い出したのか、エルマが小さく笑う。


 彼女のしつこさが昔の自分に重なって見えた。昔の自分も、エルマから見たらこれくらいしつこかっただろうか。


 そのしつこさにエルマは救われたという。


「……俺なんかの、どこがそんなにいいんだ? 一度敗北を知った程度で心の折れる男のどこをそんなに気に入ってくれたんだ?」


「先輩が私を救ってくれた、それだけじゃ理由になりませんか?」


「……そうか」


 こんな風に、自分を立ち上がらせようとしてくれる後輩がいる。自分のことを好きだと、こんな廃人が如き自分に構ってくれる後輩がいる。


 彼女の我儘を無視するのはつまり、また彼女の気持ちを無下にすることと同義だ。


「……生き返りたいとは、思わない」


 念を押すようにエルマに言う。シグルズの頭を撫でるエルマの手が静かに止まる。


「だが、エルマの望みは叶えたいと思う」


「先輩……」


「俺は俺が生き返っても意味がないと思っている。だが、エルマがそれを望むなら、それは叶えてやりたいとも思う。俺なんかのために怒ったり泣いたりしてくれる。それさえも突っぱねてしまうのなら、俺は本当にどうしようもない愚か者になってしまう。エルマが俺のことを信じて俺を奮い立たせてくれようとしているのは分かった。その信用を裏切りたくはない」


 少しずつ、凝り固まった心が溶けていく感じがした。まるでエルマの言葉が心に浸透していく感じがした。


 相変わらず生き返りたいとは思わない。生き返ったところで――という考え方があることも否定はしない。それでも彼女は「生きてほしいから」と至極単純な答えを述べた。自分に何かを成すことではなく、ただ生きることを求めた。


 混血として生まれ、神に復讐を誓い、アーガルズの国王を打ち倒し、竜の守り人に情を抱いた。まるで人々の英雄になるべきだと言われているかのような経歴を持つ自分に、ただ生きてほしいと。


 生き返った後、どうするべきなのかは分からない。ただそれでも、心は決まった。


「黄金の林檎は俺が食そう。それでいいか?」


 固めた決意を口にすると、エルマは涙ぐんだ声で「はい」と小さな声をあげた。


「……すまなかった。心配をかけた」


「いいえ、先輩が立ち上がってくれるだけで私は嬉しいんです」


 エルマがシグルズの首に回した腕を解くと少し離れたまま真っ直ぐにシグルズを見る。


「それで先輩、何かご褒美ありませんか?」


「……ご褒美?」


「そうです。先輩の背中を押した私にご褒美です。例えば、ほら」


 そう言うとエルマは突如、自身の纏う黒い装束をはだけさせる。暗闇の中でエルマの首筋から肩、胸元にかけての白い肌が浮かび上がる。


「私と一夜過ごしてくれるとか」


 突然のことに、シグルズは目を伏せる。


 まあ、そういう話の流れになるのは不思議ではないのかもしれない。そもそも彼女が二階から降りてきて開口二番に「抱いてくれるか」と言ったのだ。そう言うぐらいに好いてくれているとも。


 確かにエルマに背を押された。彼女がそれを望むのならば、一夜身体を預けることも考えてやるべきだろうか。


 そんな風に少しばかり思考を巡らせる。するとまるで我慢ならんというようにエルマが空気を漏らすように笑い出す。


「……さすがに冗談ですよ。私、今日もお母様の部屋で寝ますね。それじゃあ先輩、おやすみなさい」


 シグルズの返答を待たずに、エルマはぱたぱたと小さく手を振って駆け足で階段を上っていった。


 暗い部屋で一人、ぽつりと取り残される。明日のことを考える。


 明日、恐らくユグドラシルの元へ向かい黄金の林檎を食すのだろう。そうすると生き返るという話だが、なんとも想像できないものだ。そもそも、こうして死してなお意識があること自体が驚きなのだ。


「……寝るか」


 ベッドに横たわると布団に入る。瞼を閉じる。意識が微睡みに溶けていくのを感じた。そうしてシグルズは死者としての最後の眠りについた。



§



「言いたいことは言えたかしら?」


 シアナのその言葉にエルマは無言で頷いた。


「エルマさん、泣きそうな顔してるわよ」


「……そんなことないです。自分の気持ち、全部伝えてきましたから」


「……そう。エルマさんがそう言うならきっとそうなのね」


 シアナが小さく微笑む。エルマもそれに対して目元を拭い不格好ながらも微笑み返した。

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