68.エルマとシグルズ②
次の日の昼も、男はエルマに会いに鍛錬場に来ていた。「飯に行こう」と男が言う。
「二度と誘わないでって言ったでしょ。なんで誘うの」
木剣を振り下ろす手を止めずに問う。
「飯は誰かと一緒に食った方が美味いからだ。それ以上の理由はないよ」
「だったら別の人を誘えばいいでしょ。どうして私を誘うの、鬱陶しい」
「残念ながら混血の俺には一緒に飯を食ってくれる人が騎士団長閣下ぐらいしかいないんだ。閣下は今忙しくてね。誘っても断られるんだ」
「だったら、私も同じ理由で断る。私は忙しいから話しかけないで」
そう言って剣掛けに木剣を置くと、逃げるようにして鍛錬場を去ろうとした。
「では、こういうのはどうだろう」
男の声にエルマは振り返る。歩み寄ってくる男はエルマが剣を掛けた剣掛けの一つ下段に置かれた木剣を握り取ると、少し離れてその切っ先をエルマに向けた。
「手合わせ願おう。俺が勝ったら昼飯に付き合ってもらおう」
エルマは男の提案を無視した。壁に設けられた剣掛けから離れると、そのまま鍛錬場を去ろうとした。
「逃げるのか? 強くなることを目的とするものが、剣を向けた相手に背を向けるのか? それでは何も変わらないぞ」
男の言葉に足を止める。安い挑発だと思った。その挑発にわざわざ乗る必要はなかった。ただ、エルマはこの男に対して強い不快感を抱いていた。今すぐにでも殴り飛ばしてやりたいと思った。
「私が勝ったら?」
「二度と関わらないことにする。それでいいか」
なんといいことだろうとエルマは思った。この男に絡まれなくなるのであればちょうどいいことだ。エルマは誰とも関りを持ちたくはないのだ。関わりを持とうとしてくる相手とは距離を置き、自分から突き放すべきだ。
「いいよ」
エルマは返事をすると先ほど置いたばかりの木剣を再び手に取る。正面に構え、切先を男に向けた。
互いに見合ったまま、静かな時が流れる。静寂を先に破ったのはエルマだった。大きく一歩踏み込み、剣を大きく振り上げる。
先手必勝。エルマが上段から振り下ろした木剣は男の眉間を捉えていた。全身全霊を込めた全力の一撃、本気で男の頭蓋骨を砕いてやろうかという勢いと速さで振り下ろした渾身の一撃。
その速さにも、重さにもエルマは自信があった。実際、同級の者との打ち合いでは男相手にだって後れを取ったことはない。この男に対しても努力の証明ができると思っていた。
振り下ろしたそのとき、木剣同士のぶつかり合う音が鈍く響く。エルマの木剣がくるくると回りながら空中で弧を描いた。
木剣を取り溢した右手が、それを追いかけるように空へ伸びる。その視線の中心、自身の眉間を捉えるように男の木剣が軽く額に触れていた。
「俺の勝ちだな。太刀筋は悪くないし力も早さも十分だ。もっと鍛錬に励むことだな。さて、飯に行くぞ」
男が剣先で軽く触るようにエルマの額を叩く。その仕草にエルマは、まるで馬鹿にされたかのような腹立たしさを覚えた。自分の努力が不十分だと言われた気がした。それとも、この男の言った通りなのだろうか。強くなることを目的として木剣を振り続けても、強く離れないと。
「……もう一回」
そんなもの、エルマが認められるはずがなかった。床に力なく転がっている木剣を拾い上げると、再び正面に構えて剣の切先を男に向ける。
エルマのその様子を見て、男はにやりと笑った。
「いいだろう。何度でも相手してやる」
同じように構える男に、エルマは再び飛びかかった。
結果は何度やっても変わらなかった。完膚なきまでの全戦全敗。自分が努力と信じてきたものをことごとく打ち砕かれたエルマは、男の行きつけらしい例の定食屋で不貞腐れた顔を浮かべながら前日と同じ定食をつついていた。
「最後の一撃はヒヤッとさせられたぞ。危うく一本取られるところだった」
「結局勝ったくせに、嫌味?」
男の言い草にイライラしたエルマは笑って話す男を睨む。
「そんなつもりはない。むしろ褒めているんだ」
「褒めてる? どこが?」
問うと男はフォークとナイフを置いて、まるで先ほどの笑い顔が嘘だったかのように真剣な顔をする。
「最初の手合わせの時よりも強くなっていたということだ。なぜ強くなったか分かるか?」
男の言葉にエルマは僅かばかり思考を巡らせた。「分からない」と答える。
「負けたとき、悔しくはなかったか?」
「それは、まあ……」
当然だろうと思う。自分の努力をまるで否定されたかのような気がして何度も立ち上がり、その度にエルマの鍛えた剣は打ち砕かれたのだ。悔しく思って当然だ。
「それだよ」
男が言う。
「それ?」
「ああ、その悔しさだ。何故悔しいか、負けたからだ。なぜ負けたら悔しいか、勝ちたいからだ。それが強くなる目的だ。強くなることはあくまで目的達成のための手段でしかない。守りたい者がいるから、譲れない誇りがあるから、成したいことがあるから、人は強くなれる」
男のその言葉の意味がエルマにはよく分かった。なるほど確かに、今回は負けたことの悔しさが影響しているように思えた。男に打ちのめされるたびに、次こそはと立ち上がり剣を握る。負けるまいと意思を強める。
納得はした。いや、納得せざるをえないと思った。だがそれは、今回に限った話だ。
「それじゃあ私は、何のために強くなればいいの?」
手を止め、俯いた。珍しく弱気でいると自分でも思った。自分自身が弱いことを知り、強くなれないことを悟った。強くなる目的がないのだ。
男は落ち込んだ様子を見せるエルマを見て「ふむ」と顎に手を当てる。少し考え込んでから、何かを思いついたかのように口を開く。
「それだったら、これから毎日俺と手合わせしてもらおう。俺に勝つ。そのために強くなればいい。その中で、エルマが真に強くなる目的を見つければいい」
男は微笑んでそう言った。
顔を上げ、エルマは男に問う。
「あなたは、何のために強くなるの?」
すると男は微笑んだ表情を崩さぬまま口を開く。
「復讐だ。両親を殺した神々への。俺は邪竜ファフニールを打ち、神をも討ち滅ぼすために木剣を振り続けている」
それからしばらくの間、エルマはその男――シグルズ・ブラッドと連日木剣をぶつかり合わせていた。
ある日の剣の打ち合いでは、シグルズが「こんなものか」とエルマを挑発する。「まだまだ」と、エルマは男に猛攻を仕掛ける。結果は残念ながら敗北だった。
またある日には、全くもって太刀打ちできぬままエルマが一本取られて終わる。その日に初めて、シグルズが手を抜いてくれていたことを悟った。
また別の日には、鍔迫り合う木剣の向こう側でシグルズが焦りの表情を一瞬見せた。エルマはさらに一歩踏み込み、剣をシグルズの方へと押し込む。力任せにしすぎたのか、その日はエルマの剣を受け流されて一本取られた。自分に技というものが足りていないことを知った。
次の日も、そのまた次の日もシグルズとの鍛錬の日々が続いた。昼食は決まってあの安い定食屋だった。エルマはいつの間にかシグルズのことを「先輩」と呼び慕うようになっていた。訓練校の教官以上に自分にとっての師であり、兄であり、上官でもあり、目標でもあった。彼の横に立てる自分になりたいと思った。
冬のある日のことだ。冷たい空気が肌を刺す早朝、エルマは鍛錬場でシグルズと対峙していた。
「先輩、今日こそは一本取りますよ」
そう宣言して木剣を構えた。短く息を吐いて呼吸を整える。見合ったまま互いに動くことはない。先に動けばその瞬間が決定的な隙になる。
シグルズの剣は速く、重い。彼の剣を受け止めることはエルマには難しいことだ。それを受けてしまえば腕に響くような痺れが走り、剣を取り溢す。そうなってしまっては負けだ。
だとすれば、剣を正面から受け止めるのではなく力を流さなければならない。
膠着状態が続く中、シグルズが大きく一歩前に踏み込んだ。緊張の糸が千切れるように、エルマも一歩踏み込む。
シグルズは上段からの振り下ろし、対するエルマは木剣を両手で持ち頭上で水平に構えていた。振り下ろされる剣を、エルマは自身の握る木剣の腹で受け流す。シグルズの剣の力の向きは鉛直だ。つまるところ、横からの力に弱い。エルマは受け流す最中シグルズの剣を払い除けるようにして剣を振った。
しかし相手がそう簡単に怯むはずもない。シグルズはエルマの行動に早急に対応した。柄をぎゅっと握り込み、エルマの振り払いに耐えて見せたのだ。そのまま剣の腹でエルマを彼女の剣ごと払おうと左に薙ぐ。
それを躱さんとするようにエルマは後方へ飛び退った。
「……いい動きをするようになったな。今までだったらさっきの俺の攻撃に反応できなかっただろう」
「……いつも、見てるので」
息を切らしながら言う。大切なのは戦いの中で冷静でいることだ。相手の動きを観察し、次の行動を予測する。足さばきから呼吸の仕方、剣先の僅かな揺れまで意を注いで観察する。力で敵わぬ相手にはそうするしか勝つ術がないのだ。
観察し、隙を見つけ、そこに打ち込む。
突然、シグルズが一足飛びに大きくエルマの懐に飛び込んだ。見上げるようにしてエルマを見るその眼光は鋭い。腕を弓矢のように後ろに強く引き絞っている。突き攻撃だ。視線から察するに、狙いは喉元。この打ち合いに決着をつけるつもりなのだとエルマは悟った。
だとすれば、身を捩って彼のがら空きの背後をとるのがもっとも勝利に近いだろう。
剣先は、エルマの想像通り喉元に届こうとしていた。それをすんでのところで身体を横にして躱す。背後に回り、すかさず剣を振り払った。木剣が、綺麗なまでにシグルズの後頭部を捉える。
ちょっと鈍い音がした。勝ちたいという思いが剣に乗ってしまったのだろう。エルマは柄を強く握りしめ、これでもかと言わんばかりに力を込めていた。その力のまま、シグルズの後頭部に木剣の斬撃を入れたのだ。
シグルズがまるで雷に打たれたかのようにその場にばたりとうつ伏せで倒れる。
エルマは彼に勝っただとかそんな事よりも、目の前の事象にひどく動揺した。自分ではそれほど力を込めているつもりはなかったのだ。
「先輩!? 大丈文ですか!?」
剣を落とし、シグルズの横でしゃがみ込む。彼の胸元に手を回して仰向けにすると、口に手をかざして呼吸があることを確かめる。息をしていることにほっと胸を撫で下ろす。
「……今のは効いたぞ。俺の、完敗だ」
そう言って、シグルズは嬉しそうに笑った。
その日の昼、いつもの定食屋でシグルズは「変わったな」とエルマに言った。エルマは食事の手を止めて「そうですか?」と不思議に思う。
エルマとしては自分自身に大きな変化があったようには思わなかった。強くはなれている気がした。だがそれまでだ。
「変わったよ。昔の刺々しさがなくなった。よく笑うようになった」
そうだろうかと少し自分を振り返る。確かに同室のソフィアには「雰囲気変わってきたね」と言われたことはある。彼女とも、よく言葉を交わすようになったとも思う。
同級の者に話しかけられることも増えた気がする。「もっと接しにくい人だと思ってた」と言われたこともある。
角が取れたというか、丸くなったのだろうか。エルマとしてはそんな風には思っていなかったが、確かに客観的に見ればそうなのだろう。
「……きっと先輩が変えてくれたんですよ。強くなれる理由を私に示してくれたんです。心を閉ざした私に構ってくれて、無理やり閉じた心をこじ開けてくれたんです。強くなれたのは全部先輩のおかげなんです。私きっと、先輩のためならどんなにでも強くなれるんです」
そんな風に何かを熱弁してしまっている自分に少し恥ずかしくなる。それでも、彼に対してどうしても抑えられない感情があったのだ。
「私今日、先輩に追いつきました。私、先輩の隣に立てていますか?」
シグルズが「ああ」と頷く。
「私、これからも先輩の隣に立ち続けたいんです。強くあり続けたいんです。先輩は神を討つために強くなると言いました。私も、考えたんです。何のために強くなるのか、強くあり続けるのか。
私、先輩とこうしてお昼ご飯を食べて毎日鍛錬して、すごく楽しかったんです。すごく平和だと思ったんです。この平和を守るために強くなりたいって、思ったんです。だから、これからは、先輩の隣で戦い続けたいんです。だからこれからも、先輩の隣に立たせてくれますか?」
愛の告白にも似た台詞だと思った。いや、そういう意味合いも多少なりと含んでいるかもしれない。エルマは自分の顔が紅潮していることに気づいていた。頬が熱く、なぜか心臓が大きく速く拍を刻んでいた。同室のソフィアがよく読んでいた恋愛小説にもあった事象だった。
シグルズはエルマの言葉に「もちろんだ」と答える。
「エルマ以上に頼れる後輩はいない。俺も俺の隣に立って一緒に戦ってほしい。それだけじゃない。俺が立ち止まったときは、俺の背を押すか、腕を引くかしてくれるとありがたい。近い将来、俺も何かに悩む日が来るかもしれない。そういうときに、エルマみたいな強気な子が傍に居てくれると助かる」
シグルズが微笑んだ。その笑みが、エルマには嬉しく思えた。嬉しさのあまり涙が出そうだった。けれどそれが恥ずかしく思えて、暑くなる瞳をぎゅっと閉じてそれを堪える。
「えと……こういうときなんて言えばいいんですかね。なんだか、愛の告白みたいになっちゃって……でも先輩が私を救ってくれたことがすごく嬉しくて……」
誤魔化すようにそう言う。自分の本心を伝えることはなぜかできなかった。
「そういうときは〝ありがとう〟でいいんだ。人は誰かに救われたとき、口裏を合わせたわけでもないのにそう言う。それでいいんだ。それだけでいいんだ」
ああ、そうか、そういう言葉があったなと思う。感謝を伝えるなんてほとんどしてこなかった。誰かに何かをされても、その言葉を言うのが嫌だった。その言葉は人との縁を強めてしまう言葉だ。誰かとの縁を強めることを恐れ、その言葉は吐かなかった。
だが今は違う。大切なものを失わないために、大切なものをつくるのだ。矛盾しているかもしれない。けれど人は守るものがあれば強くなれると尊敬する先輩は言った。強くなれば、きっと何かを取り溢すことはないだろう。全て、彼が教えてくれたことだ。
「……ありがとうございます、先輩」
エルマは朗らかに微笑む。それを見て、彼女の想い人も小さく微笑んだ。




