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竜の魔女と混血の騎士  作者: 与瀬啓一
第5章~命の林檎~
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65.命の島②

 水の抜けた湖は荒れた窪地に見えた。藻類の類は全くなく、棲み処を失い藻掻き跳ねる魚の姿も見えない。水底であったはずの足元は、今まで歩いてきた場所と同じように乾いた砂が広がっているだけだった。


 周囲や足元を眺めながらアンテロが走っていった後を追う。小島までの距離は思っていたよりも近く、気がつけば島の上にあるものが視認できる近さまで来ていた。


 島の上にあるものはたった一本の木。木の頭に蓄えられた広葉は、アンテロの松明の明かりを反射するほどの瑞々しさがあった。この枯れた大地にあるそれは、酷く異質なものに見えた。


 小島であったはずの小山の前で立ち止まっているアンテロに追いついたエルマとシグルズは、彼の少し後ろで立ち止まる。微動だにしないアンテロに対しシグルズが「どうかしたのか?」と問いを投げる。


 アンテロが振り返る。表情は険しかった。


「どうやら、問題は湖だけじゃなかったらしい」


 そう言って、アンテロは松明を持っていない方の手を島の方に伸ばした。そしてその手のひらがまるで何かに触れているかのようにピタリと止まる。


「……ここに、透明な壁があるんだ。何かに触れている感覚はない。空気の壁みたいな感じだ。どう頑張っても前に進めない。まるで僕を入れたくないかのようだ」


 アンテロはしきりに目には見えない壁を叩いたり押したりしている。その様はまるでどこかの大道芸人のように見えた。


 ひとしきり壁に向き合ったところで諦めたのか、アンテロはだらりと腕を下ろして振り向いた。その目が、シグルズたちに対しても自分と同じことをやれと言っているように見えた。


 シグルズとエルマは互いに顔を見合わせると、手を前に伸ばして恐る恐る歩みを進める。アンテロの横を通り過ぎ、件の透明な壁に手が触れるところまで歩を進める。彼が見守る中、二人は何の障害も感じることなく、小山を登る。それはもう、淡々と。小山を登り切り、振り向いた二人の目には先ほどの険しい表情のアンテロはおらず、気の抜けたような、呆けた顔のアンテロが見上げているだけだった。


「……なにも、無かったですけど」


 エルマが振り返り、眼下にいるアンテロに言う。その横でシグルズも彼女に同意するように首を縦に振る。


 するとアンテロは片手で顔を覆い、小さく俯く。悲しげに俯くように見えたが、顔を押さえる手の隙間からは吊り上がった口元が窺えた。


「なんてこった! これじゃあ僕がその場所に入ることを拒絶されているみたいじゃないか! あまりにも滑稽で笑えて来るよ! 神になろうとした僕を、拒もうというのか! 世界樹よ!!」


 アンテロの怒りの乗った言葉に返事をするように、無風だった死者の国に一際強い風が吹いた。僅かに砂埃が巻き上げられ、シグルズは片目を閉じて手をかざして風を避けるような素振りを見せた。エルマも自身の癖のある紅葉色の髪を押さえて両目を瞑った。


「別に、拒んでいるわけじゃないんだ。選ばれなかっただけだよ、ごめんね」


 突然に聞こえたその声に、誰もが声のした木の方に顔を向けた。木の麓には一つの人影が膝を抱えて座っている。松明で照らされた影になっているせいか、声の主の顔はエルマの位置からは確認できなかった。ただ、その声は草露のようにどこか儚げな少年の声だった。


「誰だ!」


 アンテロが叫ぶ。木の裏手にいる人影がゆらりと立ち上がり、松明に照らされた場所まで歩み出る。


 エルマも、そしてシグルズもなぜかその顔立ちに見覚えがあった。炎に照らされて黄金色に輝いているが、その髪は紛れもなく透き通るような新緑色。長さは短く、その声の通り少年であることは間違いなかった。長いまつ毛に大きな目、穢れのない肌艶で、さらには少女のような顔立ちである少年の顔貌は、まさしく美少年と言うに相応しいものだった。


「僕はユグドラシル。世界樹の根元、第一階層〈ユグドラシル〉そのものだよ」


「第一階層そのもの……?」


 ユグドラシルと名乗った少年にシグルズが聞き返す。


「そう。きみたちが世界樹の意思と呼んでいる存在だよ。世界そのものであり、始まりの生命。世界樹の苗木が植えられたときに芽生えた知的生命体としての自我。それが僕だ」


 そう言ってユグドラシルは口元に笑みを浮かべた。


「まずは、この場所に来てくれてありがとう、と言っておくよ。シグルズ・ブラッド、エルマ・ライオット。きみたち二人は選ばれたんだ」


「選ばれたって……誰に……?」


 エルマが疑問を口にすると、ユグドラシルは微かに鼻を鳴らした。


「僕の()()()()に」


 答えを告げると、三人の視線を誘導するかのようにわざとらしく木を見上げた。その視線の先には、鏡のように光沢を帯びた金の林檎があった。それは揺らめく炎の明かりを見事に反射し、その黄金を際立たせていた。


「きみたちの想像通り、この黄金の林檎は生き返るために必要なものだ。これを丸々一つ食べることで、生き返ることができる」


 ユグドラシルは林檎に手を伸ばすとそれを掴み、勢いよく引っ張った。木が枝葉をざわつかせながら、ユグドラシルの方に僅かに傾く。林檎が捥がれたのか、木は引っ張られたのとは反対の方向に勢いよく仰け反った。


「さて、どっちがこの林檎を食べるんだい?」


 ユグドラシルは手に握った林檎をシグルズとエルマの前に差し出すと、双方の顔を見る。それに釣られるように、二人は顔を見合わせた。


 エルマとシグルズの口が同時に開く。


「僕だ!」


 二人の声が発されようとしたそのときに、彼らの喉から飛びかけた言葉をアンテロの声が遮った。


「僕がその林檎を食べる!」


 アンテロがユグドラシルを見上げながら言う。ユグドラシルは「へえ」と返事をすると「別にいいよ」と快諾した。


 これにはアンテロも目を輝かせ、「だったらその林檎を僕に渡すんだ! 僕はここから先には進めない!」と訴えかける。


 ユグドラシルは手に握った林檎を一瞥すると、それをアンテロの方に向かって投げた。


「食べてもいいよ。食べられたらの話だけどね」


 林檎を放ったそのときのユグドラシルの言葉など、アンテロの耳には届いていなかった。林檎を受け止めるべく、両手を胸の前で構えて宙に弧を描く林檎を見つめていた。


 しかし、刹那の時も過ぎぬ間に、アンテロの表情が曇る。アンテロの目と鼻の先、手を伸ばせば届くその距離で、林檎が一瞬にして腐り爛れたのだ。


 ドロドロになった林檎は重力に従うまま、べとりと汚い音を立てて落下した。


「そん、な」


 アンテロが項垂れるようにして膝をつく。


「ごめんね、獣慾の魔人、アンテロ・バストロヴィーナ。その林檎を食べる権利をきみは持っていないんだ。それはこの場所で、この島で食べなくちゃいけいない。ここに入ることのできたシグルズとエルマだけが、この林檎を食べる権利を、生き返る権利を持っている」


 アンテロの方に注がれていた新緑色の瞳が、シグルズとエルマを見た。


「さあ、どっちが食べるか決めるんだ」


 その問いに、シグルズは間髪入れず「エルマが」と答えた。


「エルマが林檎を食べる。俺には既に必要ない。生き返るべきはエルマだ」


 真っ直ぐに、ユグドラシルの瞳を見つめ返す。ユグドラシルはまた「へえ」とだけ返事をして、一度瞼を下ろしてからエルマに視線を移した。


「エルマの意見も聞こう。きみが食べるか、彼に食べてもらうか」


 エルマはユグドラシルの瞳を真っ直ぐに見つめ返して口を開いた。答えは問われる前から決まっていた。


「私は食べません。先輩が食べます」


 自分の考えを示すと、ユグドラシルは「ふむ」と声を漏らして腕を組んだ。


 林檎を食べることを拒否したエルマに、シグルズは「何を言っているんだ」と彼女の方を向いて言う。


「俺には必要のない代物だ。既に死を受け入れている」


 念を押すように先ほどと同じような言葉を並べるシグルズに、エルマはすかさず反論を入れる。


「私だってこんなもの無用の長物です。それに私言いましたよね。今の状況に安堵してるって。死んだことに後悔もなにもないです。むしろ、先輩には死んでいる場合じゃない理由があると思うんですけど」


 するとシグルズは押し黙り、口を噤んだ。少し間を空けてから、「俺のような無力な人間が生き返って、何ができるというんだ」と項垂れた。


 彼のそんな姿にエルマはふと何かに気がついた。まるで抜け殻なのだ。少し前の自暴自棄な自分を見ているようだった。望んだものを手に入れられず、少しずつ無気力になっていく。前を見ることも億劫で、いつも下ばかりを眺めている。どうしようもない自己嫌悪に苛まれ、自分で自分の心を攻撃する。


 シグルズのその一言に、エルマは何も言い返せなかった。彼がやろうとしていたことは理解している。神を討つこと、エルマを救い出すこと、リンファを守り抜くこと。そのどれ一つをとっても、彼は達成する前にこんな場所まで堕ちてしまった。


 神に打ち負かされ、リンファを残して救うと誓った後輩共々死者の国に足をつけた。彼が自分を無力だと評する理由はエルマには理解できた。


 それらは後悔だ。後悔があるから自責の念に駆られる。後悔があるから過去を理由に希望を拒絶する。


 だったら生き返るべきは彼の方であると、エルマ自身は思っていた。ただ、シグルズ・ブラッドという抜け殻のようになってしまった男が、今の彼がそうであるように、ずっと下を向いている。自らが自らに課した使命に疲れ果てた彼に、また使命を背負わせるのか。


 それを瞬時に悟ったエルマは、「先輩が林檎を食べるべきです」と口を開きかけ、閉じた。


「決まりきらないみたいだね」


 訪れていた僅かな静寂をユグドラシルが破る。


「まあ、ゆっくり決めるといいよ。幸か不幸か、林檎は腐ってしまった。明日には新しく実がつくけれど、それまで待たなきゃいけないからね。僕はここで待っているよ。明日またここにおいで。今日はもうお帰り」


 ユグドラシルが微笑む。それを聞いたシグルズは一人背を向けて滑るようにして島を下りると、無言のままその場を離れた。


 どう見てもエルマの良く知る彼ではなかった。


「待ってください、先輩!」


 小島を滑り降りると、慌てて追いかける。追いつくと、彼の二歩ほど後ろをついて歩く。誰かがいないと思い、振り返る。


 未だに膝をつき、背を丸めたアンテロは僅かに動く気配もなく、ただ何かをぶつぶつと呟いていた。

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