64.命の島①
結局一睡もすることができなかったエルマは、湖へ向かう途中に前を歩くシグルズに「昨晩はすみませんでした」と申し訳なさそうに謝罪した。
「あ、ああ」
シグルズは何かを恥じるように顔を逸らし、ぎこちなく相槌を打った。恥ずかしいのは自分の方だと、エルマは少しだけ腹が立った。とはいえ、完全な自業自得である。勝手に夜這いして、勝手にバレた。ただそれだけではあるのだが――。
「……私の方が恥ずかしいですよ」
不意に文句が口から零れた。
「濡れ事でもしたのかい?」
アンテロの無神経な言葉が耳に届く。
「そこな騎士様が羨ましいよ。こんな可愛い子を抱けるなんて。どうだい、今夜は僕に抱かれてみないかい?」
非常に無遠慮な物言いである。事実無根であるというのに、まるでそうであることを疑わない言い草にエルマはため息を吐く。
「別に昨晩は先輩とは何もありませんでしたし、あなたのような配慮に欠ける人に抱かれたくもありません」
苛立ちを込めてアンテロにそう返した。昨日会ったばかりだというのに、エルマはこの男のことが嫌いだった。
「手厳しいね、冗談だよ」
「魔族の冗談が信じられるわけないじゃないですか」
目を細めて言う。少し前を歩くシグルズが「まったくだ」と同意した。アンテロは「そりゃそうだろうね」と言って笑っているだけだった。
「……エルマ、昔の調子に戻ったようだな」
シグルズが振り返りながら言う。
「そっ、そうですか?」
目を合わせるのがどこか気恥ずかしいせいか、エルマは声を上擦らせながら目を逸らす。
「ここ最近は――というか、再会してからはずっと心に何か抱えているように見えた。まあ、原因は俺にあったわけだが」
シグルズがぎこちなく笑う。その顔はどこか申し訳なさそうに見えた。
「ほんとですよ。女の子の気持ちを弄ぶなんて」
冗談のように笑いながら言う。自分の中で、何かが吹っ切れている気がした。ただ、ここまで堕ちた事実が変わるわけでもないし、現状の自分を哀れまれたいとも思っていない。
依然として浮かない顔をするシグルズに「そんな顔しないでくださいよ」と笑みを浮かべたまま言葉を顕わにする。
「別に、先輩が悪いわけじゃないんです。全部私が選んだことですから。先輩が気に病む必要はどこにもないですよ」
そうは言ってみたが、依然としてシグルズが「ああ……」と気のない返事を返すだけだった。
「着いたぞ。ここが第二階層の中心地、例の小島があるところだ」
アンテロが立ち止まり振り返る。会話しているせいで意識していなかったが、随分と歩いたらしい。一番後ろを歩いていたエルマが振り返ると、後方には際限のない暗闇が辺りを包んでいた。
首を前に向ける。アンテロの持つ松明の炎が照らす先で何かが反射した。足元だ。足元に何か光を反射するものがある。水だ。波のない凪いだ水面が鏡のように松明の明かりを反射しているのだ。その遥か先に、一つの影が鏡のような水面に影を伸ばしている。例の小島だろう。
「見ての通り、湖だ。いや、池と言う方が正しいかな。周囲に川のようなものもなければ背の高い山があるわけでもない」
言いながらアンテロが少し前に進むとしゃがむ。松明を置いて反射する水面に両手で椀を作って沈める。
「なんて事のないただの水だ」
それをシグルズとエルマに見せると、手で作った椀に隙間を作って水を流した。アンテロの説明は続く。
「この水のせいで足止めを食らっているんだ。泳いでみてもどういうわけか一向に進まない。橋を作ろうとしてもなぜか壊れる。凍らせることもどうしてかできない。舟を使おうともしたが、泳いだ時と結果は同じだった。完全に八方塞がりだ」
なるほどと頷きながらアンテロの言葉に耳を傾ける。
「……昨日言っていた〝混血のじじい〟というのは?」
ふとそんな疑問が浮かぶ。エルマの中では〈混血〉とシグルズ・ブラッドが完全に同じものとして結びついていた。混血と言えばシグルズ・ブラッドだし、シグルズ・ブラッドと言えば混血であると。
アンテロが言っていた〝混血のじじい〟というものには心当たりが――。
「アーガルズ国王か」
エルマの疑問に答えを示すかのようにシグルズが一人呟いた。
「ご名答。彼も今日この場所に呼んだんだけど、彼自身が申し出を断ってね。なんでも、自分を殺した騎士と顔を合わせたくはないと。自尊心の高いじじいだ。自分より若い男に負けて拗ねてるんだろう。まったく、子どもみたいだね」
アンテロがどこか楽しげに笑う。「まあ、そういうことで今日は僕ら三人だけだ」と付け加える。
「それで、俺たちにここで何をどうしろと言うんだ? 話を聞く限り何もできそうにないんだが」
シグルズがアンテロに問う。エルマは彼の言い分に小さく頷いた。確かに、アンテロの言葉から摩るに、もうどうにもならない状況にまで来てしまっているのだろう。できることはやり尽くした感じだ。そんな状態で、この第二階層に来たばかりの自分たちに何ができるというのか。
「とりあえず、僕が実施したことをやってもらおうと思ってるよ。泳いだり船を漕いだり」
何から始めようかとアンテロがシグルズに尋ねる。シグルズは自分の服の裾を掴むと上に持ち上げその鍛えられた肉体を晒した。その様子を見ていたエルマは咄嗟に顔を逸らす。
「まずは泳いでみようか」
エルマの恥じらいに気も留めず、シグルズは脱いだ服を地に放り投げた。
当のエルマはシグルズに背を向けるようにして水辺に膝を抱えてしゃがみ込んだ。正直な話、今回どうこうしたのは昨晩シグルズの母親であるシアナに言われたからで、自分自身が件の黄金の林檎に用事があるわけではない。
つまるところ、蚊帳の外であるエルマは少々退屈していたのだ。
水面を覗き込む。橙色の炎に照らされた自分の顔が写っていた。反射が激しく分かりづらかったが、水もかなり綺麗である。それこそ、第五階層のファナケルの泉を彷彿とさせる透明度だ。
なんとなく、アンテロがそうしたように手で椀を作って水を掬おうとする。シグルズが一つ深呼吸をして入水しようとしている横で、エルマの手の甲が水面に触れた。
「……なんだか、大地が揺れていないか?」
アンテロが、自分の足の裏に伝わる僅かな振動をまるで確かめるかのように口にする。これがアンテロの気のせいではないことは、シグルズもエルマも、分かっていることだった。
大地が微かに揺れている。凪いでいた水面が小さく波立ちはじめ、その鏡面を崩す。直後、大地を突き上げるかのようなひと際大きな揺れが一度訪れ、エルマ達の視界を揺らした。
「なんだ、何が起こっている」
アンテロが困惑の声を上げる。その困惑が目の前の事象に追いつくことはなく、気がつけば揺れも止み、異変は何事もなかったかのように終わっていた。
「これは一体……」
シグルズもアンテロと同様に困惑しながら獲物を探すかのような鋭い眼光で周囲を警戒する。エルマも騎士である頃を思い出すかのように、神経を尖らせて周囲の空気を肌で読もうとする。
しかしその時間は長くは続かなかった。一番に変化に気づいたのはエルマだった。
「……水が」
自分の前方を指さす。その先にアンテロとシグルズの視線が同時に注がれる。
エルマが指し示した先には何もなかった。正確に言うとあるはずのものが消えていた。
「水が消えた……!?」
アンテロが驚愕の声を上げて、シグルズとエルマを交互に見た。
「誰か何かしたのか!?」
その問いに、シグルズは黙って首を横に振った。彼の視線がエルマに注がれる。その視線をなぞるように、アンテロもエルマの瞳を見た。
二人の視線の先でエルマは「私が、水に触れました」と濡れている手の甲を見せた。
するとアンテロは嬉々とした表情でエルマに歩み寄り、その濡れた手を両手で握り込んだ。
「でかしたぞ! これであの島に行ける!!」
アンテロは脇目も振らずに島の方向へと駆け出す。いや、既に水はないのだから島と言うのはおこがましいだろう。湖であったはずの窪んだ地の中央にある突起状の場所、とでも表現すべきか。
ともあれ、どんどん小さくなるアンテロの背を見る限り、足止めを食らう、何らかの理由で進めなくなるということはなさそうだった。
「おーい! 来ないのか!?」
首だけ振り向かせてアンテロが叫ぶ。
シグルズとエルマは互いに顔を見合わせ、なぜ彼女が水に振れたことで進めるようになったのか分からぬまま、水の抜けた湖の底に足をつけた。




