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竜の魔女と混血の騎士  作者: 与瀬啓一
第5章~命の林檎~
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63.嘘の毒

 日が暮れた。いや、実際にこの第二階層に太陽なんてものは出ていないので本当に太陽が沈んだかは分からないが、横で眠りこけている騎士崩れの母親が「おやすみ」と言ったのだから、きっと今は夜なのだろうとエルマ・ライオットは騎士崩れを背にしながらベッドに横たわりながら思っていた。


 夕食のようなものをとると、シアナは食器を片付けるとすぐに屋根裏に上がってしまった。不思議なことに部屋の明かりは萎むように消え、古びた階段を上がるシアナが「あとは若い人二人でごゆっくり」と悪戯のように言葉を紡いでいた。


 はてさて二人きりになったはいいものの、エルマは騎士崩れと何を話していいのか分からなかった。顔も見たくないと拒絶した相手と、どんな言葉を交わしていいのかも分からなかった。それはきっと、騎士崩れとて同じだろう。


 一言も言葉を交わすことなく、二人して床に着いた。もちろん、エルマはこの状況で眠れるはずもなかった。


 拒絶したとはいえ、背後にいるのは自身の想い人だ。心臓は早鐘を打つし、全身は燃えるように熱かった。


 自分が書けている布団を捲り、上体を起こす。振り向き、騎士崩れの方を見た。彼は気持ちよさそうに小さな寝息を立てていた。実家と同じこの小屋に安心しているのか、エルマも見たことのない穏やかな、子どものような寝顔だった。


 このまま口づけの一つでもしてやろうかと思った。なんなら、そのままの勢いで既成事実でも作ってやろうと思った。死んでいる身なのだから、何をしてもどうにもならないだろうと。


 一体何を考えているんだと、頭を左右に振ってその悪巧みを振り落とす。そんなことを考えてしまう自分に対して小さくため息をついた。


 しかしながら、このまま彼の横で眠りこけることができるほどエルマの心は穏やかではなかった。変な気を起こさないとも言い切れなかった。


 エルマはベッドを出ると、その足を今にも壊れそうな階段に向かわせた。


 一歩目を段に乗せると、木と木が擦れ合うような軋んだ音がした。もう一歩、もう一歩と階段を上り、屋根裏へ向かう。


「眠れないのかしら?」


 階段を上る最中、そんな声が耳に届く。


「起きていらしてんですか」


 屋根裏に上がると、声の主にそう返事を返した。エルマのその返事に、シグルズの母親であるシアナ・ブラッドが小さく微笑む。柔らかく緩んだ頬が手燭の小さな炎に照らされる。


「エルマさんなら、ここに上がってくると思って」


 その言葉に言葉を返すことなく、星座を知れ何かの本を読んでいるシアナの横に膝を抱えて座る。


 横を見る。朱に照らされた穏やかな横顔が視界に映った。その目は自分が恋した騎士崩れによく似ていた。


 僅かばかりシアナが本を捲る、紙の擦れる音だけが鼓膜をつつく。静寂に耐えかねたエルマは口を開いた。


「……この家って、どうやって建てたんですか」


 別にそんな質問をしたかったわけじゃない。ただ、口を突いて出たのはそんな心のどこかで思ったありきたりな疑問だった。


 この階層には植物は本来存在しない。黄金の林檎がなるという木があるが、その一本きりだ。だとすれば、今しがたエルマの足元に打たれている木製の床はどうやって作られたのか。それに夕飯もだ。食物など、この不毛で不気味な第二階層の一体どこにあったというのか。


「建てたわけじゃないの。この階層にあるものは全て想像から発生するものよ。金の林檎は別だけどね」


「想像?」


「ええ。例えば私が今読んでいる本。生前愛読していたものよ。例えばさっき食べた夕飯。私が好んで食べた料理よ。つまるところ、この世界は想像できるものは生み出せてしまうの。家もそう。本来魂を取り込み、生活という概念すら存在しない第二階層で意識を保ち、死んでいながらも『生きる』という行為の奴隷となってしまった者に対して、世界樹が作った救済措置のようなものだと思うわ。でなければ、退屈過ぎて心が腐ってしまうもの」


 それを聞いて、エルマの中で合点がついた。


 特別興味を持っていた話題などではなく、言葉に詰まった挙句に問うた事柄だったが、この謎だらけの死者の国をについて知ることができたのはいいことだ。自分がここでこうして意識を保っている時点で、無関係ではない。


「次は、私からエルマさんに質問いいかしら」


 本をぱたりと閉じ、エルマの方に視線を向ける。


「シグルズのどこに惚れたのかしら?」


 シアナは悪戯でもする子どものような笑みでそう問うた。


「別に、惚れてなんか……」


 思いもよらぬ質問にエルマは咄嗟に赤くなった顔を隠すように、シアナから視線を逸らした。その様子が愛らしかったのか、シアナは自分の口元に手を添えて小さな声で笑った。


「エルマさんは嘘を吐くのが下手ね」


「……嘘じゃないんです、本当なんです。もう、大嫌いだって、顔も見たくないって本人に伝えたんです。だから私は先輩のことなんて好きでも何でもないんです」


 そう言って、さらに顔を隠すように俯いた。


 そうだ、自分が思いを寄せた騎士崩れにはそう伝えたのだ。自分の言葉で、自分の口で、面と向かって伝えた。それが嘘であるはずがないのだ。


「でも、それも嘘でしょう?」


 その言葉に、エルマは顔を上げる。その動きに呼応するように、頬を何かが伝った。


「女はね、本気で嫌いになった男の話をするとき、笑ってその話をするのよ。その男にされた嫌なこととかその男に対する愚痴とか、全部全部笑い話にするの。でもエルマさん、あなたは涙を流しているじゃないの」


 そう言われ、何かが伝った頬を押さえる。僅かに濡れたそこを伝うようにして目元を拭う。


「未練があるから笑えない。未練があるから自分を騙すために嘘を吐く。本当に嫌いなのは彼のことじゃなくて、どうしても彼を嫌いになれない自分自身。嘘は毒よ。自分や相手の心を麻痺させる。でもそれは、いつか心を蝕むものなの。嘘に殺された魔族(ひと)たちをたくさん見てきたから」


 優しく微笑む。その微笑みがどこかの女神さまと重なって見えた。


「……全部全部、大好きでした。優しいところも強いところもかっこいいところも、たまに抜けてるところも鈍感なところも。全部全部、好きだったんです。好きだったはずなんです」


 シアナの微笑みにいつの間にかエルマのついた嘘は解かされていた。毒の抜けたその心がエルマの奥底に根を張っている本心を引き抜き、その口に語らせる。


「……私、もう分からないんです。ずっとずっと好きだったはずなのに、先輩を傷つけようとしたり、突き放したり、自分でも何をしたいのか、どうなってほしいのか、分からないんです。死んでしまった今、私は先輩に対してどうあればいいのか、分からないんです」


 そう言って自嘲気味に笑う。本当に自分のことが滑稽でならなかったのだ。


「自分のことなんて、自分が一番分からないものよ」


 慰めるようにシアナが言う。


「明日、シグルズについて湖まで行ってみなさい」


「え?」


 シアナの突然の提案に、エルマは目をぱちくりさせる。


「彼を避けてばかりではエルマさんは自分自身を見失うわ。そうなったらお終い。この何もない無の世界で、ぼんやりと自我を失って過ごすことになる」


 真剣にシアナはそう述べる。しかしその言葉の真意はエルマには汲み取れなかった。


「それってどういう……」


「さ、エルマさんもそろそろおやすみ。疲れてるのに、夜更かししたらお肌に悪いわ」


 エルマの言葉を遮ると、シアナは彼女に一回に降りるように促した。


「でっ、でも、先輩の隣で寝るのは……」


「あら、襲っちゃってもいいのよ? お母さん、許します」


「揶揄わないでください!」


 エルマは顔を自分の髪と同じ色に染め上げて小声で叫ぶ。シアナは「うふふ」と悪戯のように笑った。


 少々拗ねてやけっぱちになったエルマはわざとらしく軋む階段を踏み鳴らして一階へ降りた。床を踏んだところでシグルズが熟睡していることを思い出し、差し足でゆっくりと歩く。


 室内は暗かったが、ベッドの縁に腰を下ろすころには目は闇に慣れていた。振り返ると、シグルズが小さく寝息を立てている。その様はあまりにも静かで穏やかで――少々悪戯をしてもバレはしないだろうと思わせるほどだった。その寝顔は、エルマにそう思わせたのだ。


 エルマは自分の異変に気付いていた。どういうわけか身体が火照っていた。呼吸も乱れ、心臓は激しく小刻みに脈打っていた。脳裏に先ほどのシアナの「襲っちゃってもいいのよ」という言葉が鮮明に繰り返される。エルマは無意識的にその言葉を免罪符にしようとしていたのだ。


 エルマはベッドに膝を乗せるとシグルズに覆いかぶさるように四つん這いになる。ベッドも階段同様古いのか、キシッ、木と木を擦れ合わすような鳴き声を上げた。


 このまま身体を重ねていいのかとエルマの中に残った僅かな理性が問いかける。小さく呼吸をする彼の口を、自分の唇で塞いでしまっていいのかと。彼の貞操を奪ってしまっていいのかと。自分の全てを彼に捧げてしまっていいのかと。伸ばしていた肘を少しずつ折り曲げ、顔を近づけるエルマの肩に理性が手を掛けていた。その理性の手が、するりと肩から外れる。


 少し乾いてしまった唇を僅かに舐めて潤わせる。湿った唇を、シグルズの口元に乗せようとした。


「エルマ?」


 その声に、エルマは動きを止める。それは、今しがたエルマが口づけをしようとしたところから発せられたものだった。シグルズの瞼がゆっくりと持ち上がる。目が合う。


 客観的に見ればエルマの行動は夜這い以外の何でもない。それ自体はエルマも十分に自覚しているし、かなり大胆な行為だということも理解している。


 だが、理性に押し負けたエルマは彼が事の前に目を覚ますことを想定していなかった。結果、どうしたか。


「なっ、ななななななっ……!」


 声にもならない声。震えたような、よく分からない発声。こんなおかしな喉の振るわせ方をしたのはエルマにとって初めてのことだった。


 かなり、いや、とんでもなく恥ずかしい所を見られた。死んでいる今の時間を人生に加算して良いものか分からないが、とにかくエルマの人生において一番恥ずかしい瞬間。夜這いがバレる瞬間。


 ベチンと、軽快な音が鳴る。エルマが降りぬいた平手は、綺麗にシグルズの頬を捉えていた。


「べべべ別に! 先輩を襲おうなんて、思っていませんから!!」


 耳まで紅潮させて、答えのような言い訳を口にする。その言葉を最後に、エルマは何事もなかったかのようにシアナのいる屋根裏へと逃げ帰った。


 一人取り残されたシグルズは、痛みの残る頬を押さえながらぽかんと口を開けて階段の方をぼんやりと眺めていた。直後、シグルズも聞いたことないようなシアナの愉快な笑い声が第二階層に響き渡った。

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