60.可能性
「あなたも辛そうな顔をするのね、竜神ヨルムント」
倒木に腰かけた横で、かつて愛した女性とよく似た少女がそう言う。
「……少し、昔のことを思い出していただけだよ」
視線を彼女の方に向けることなく、背の高い針葉樹を見上げてそう答えた。
少女と――リンファとこんな風にまともに会話をしたのは、彼女の母親が死んだ後に彼女を竜の守り人に仕立て上げたとき以来だろうか。
つまるところ、彼女を竜の守り人にしてからはヨルムントはしばらくの間、竜域の大地を踏んでいなかった。完全に竜域を孤立させていたのだ。幽閉にも近いだろう。見張りはファフニールがやってくれているようなものだった。彼女はよく働いてくれた。世の仕組みも分からぬ子どもに自分の立場を自覚させ、世界の在り方を教え、それぞれの神のことを教えた。そして決して、リンファを背に乗せて飛びまわるようなことはしなかった。同じ轍は踏むまいとするように。
「……あのとき、お母さんが死んだとき、私もファフニールも殺せばよかったのに、どうしてそうしなかったの?」
「なんだ、急に」
リンファからの突然の問いをヨルムントは不思議に思う。視線をそちらに向ける。膝を抱え、両頬を抱えた膝の上に乗せて俯きがちに青藍色の瞳だけをヨルムントに向けていた。
そんな彼女から視線を外し、天を仰ぐ。
「別に、ちょっと疑問に思っただけよ。今まで聞く機会がなかったから、聞いただけ」
「大した理由じゃないさ。ファフニールは僕の半身だ。力を分け与えた僕と同等の力がある。お前の母親に力を分け与えた僕が一対一で敵う相手じゃない。それに、お前を殺せば制約破りだ。そうすればファフニールと対峙しなくちゃいけない。だからあのとき僕は何もしなかった」
「でも、現実には殺してるじゃない。私の大切な……」
リンファがぐっと何かを堪えるように自分の服を握る手に力を入れる。膝に顔を埋めて目を伏せる。
「殺したのは僕じゃない。あくまで殺すと決めたのは、行動を起こしたのはエルマ・ライオットだ。僕はそれを手助けしただけ。彼女のために僕ができたのは、ファフニールの動きを僅かな時間止めることだけだ。それだけで精一杯。その程度の力しか僕には残っていない」
ヨルムントはそんな力を失った自分を鼻で笑った。自らの力の半分をファフニールに与え、残った力の半分をフロティールとリンファに与えた。更にその半分を魔剣ニーズヘッグの作成とエルマへの力の割譲に使った。空神ヘイルは「昔の四分の一の力も持たない」とヨルムントを称したが、これは正確な評価ではなかった。今のヨルムントの力はその半分にも満たない。
「……ああ、暗い気分になってしまったな。自己嫌悪でこんな風になるなんて、久方ぶりだよ」
「あら、神でも自己嫌悪するのね。人間みたい」
「まるっきり逆だよ。さて、気分を上げるために少し茶でもしようか」
立ち上がる。膝を抱えた少女に手を差し出す。
「……なに?」
少女が訝しむ。
「戦うなとヘイルに言われたら、僕たち恨む者同士やることがないだろ。少し茶を飲んで落ち着こうと言っているんだ」
言いながら、ヨルムントは差し出した自分の手を一瞥する。馬鹿らしいと思い、その手を引っ込めた。彼女の前を通り、少し歩く。歩いた先には紅葉色の髪の少女が横たわっていた。炎のようにうねった形の刃を墓標のように胸に突き立てたまま息絶えている。
剣を抜き、彼女の両腕を首に回すようにして背負いあげる。
「その子、どうするの?」
問いを投げかける。ヨルムントはこれを無視した。リンファは「まあ私には関係ないけど」と文句を垂れながら気だるげに立ち上がる。
「場所を移す。お前は椅子に座って待っていろ」
そう言うとヨルムントは指を軽く鳴らした。景色が一瞬にして切り替わる。陰鬱な針葉樹は消え、広がるのは白い壁と床。先ほどまで横にいたはずの白髪白眼の男の姿も消えていた。部屋の中央に机が置かれ、四つの椅子がそれを囲むように設けられていた。その一席に、子どもが一人座っている。
少年を思わせる風貌のその子どもの群青色の髪が白い神殿の景色に映えていた。目を閉ざしながら片手にティーカップを持ち、ゆらゆらとその中身を混ぜるように揺らしている。
閉ざされた瞼が持ち上がる。長いまつ毛が重そうに見えた。そこから覗いた夜のように黒い瞳がリンファを見た。
「そんなところに突っ立っておらんで座ったらどうじゃ」
そう手招かれたリンファは黙ったままヘイルの前に座る。
ヘイルは再び目を閉じ、ティーカップを口に近づけた。音を立てて啜り、「ふう」と一息つきながら両手で包むように持ちながらソーサーに戻した。
そうしてしばらく、無言の時間が続いた。ヘイルは瞳を開かず、まるで眠っているかのようにティーカップの中身を揺らして、飲んでを繰り返している。
正直なところ、リンファはこの状況に困っていた。ヨルムントが相手ならば嫌味の一つや二つぐらい言っておけばいいし、フェンルが相手ならば勝手に向こうから喋りかけてくる。しかしヘイルは違う。
そもそも、リンファは空神ヘイルに会ったことがなかった。存在はもちろん知っていた。世界樹そのものが存在している空間を作り上げた最古の神。しかし彼か彼女かも分からぬヘイルのことはその程度しか知らなかった。何を話していいのかも、相手が何を考えているのかも分からない。
「ねえ」
無言に耐えられず声を出す。
「ヨル坊が戻ってくるまでもうちと待たんか。話はそれからするでな」
そう言って、またティーカップに口をつけた。
現段階で言葉を交わすつもりはないらしかった。リンファは仕方なく黙って待つことにした。どこを眺めることもせず、なんとなく下を向く。特に意味もなく、自分の手を握ったり開いたりして見る。
「ほれ、もうじき来るぞ。問題児が」
ヘイルが鼻で笑った、気がした。
「あなた、つかみどころがないのね。ヨルムントやフェンルみたいに人間味がない」
「わしは一番古い神でな。わしが司るもの――自由と安らぎを人間どもが失いかけとるだけじゃよ。人間が一番に覚えておるのはヨルムントの司る強さと志だけじゃ。その次がフェンルの司る愛じゃが、これもそのうち忘れるのではないかと思うとる。つまるところ、そこな問題児が一番人間臭いということじゃな」
ヘイルは言葉を紡ぎながら夜を詰めた瞳を横に流す。
「問題児とはなんだ、問題児とは」
その夜の瞳を向けられたヨルムントはため息を吐いた。
「事実を述べたまでじゃ。ヨル坊はいつも問題を起こす」
「末っ子なんでね、好き勝手させてもらうよ」
ヨルムントはリンファの左斜め前に座ると、手を組んで肘をテーブルにつき顎を乗せた。
「それで、ヘイルが珍しくここに来ているということはなにか話すことがあったんだろう?」
ヘイルが頷く。
「エルマ嬢はどうしたんじゃ。埋めたのか?」
「いや」
「なら、お主も気づいておるか」
「……どういうこと?」
リンファは二人の話について行けず、顔を顰める。
「エルマも、もちろんシグルズも死んでいるが、死んでいないということだよ」
ヨルムントの答えにリンファは更に眉に皺を寄せた。
「矛盾しているじゃない」
「言葉足らずじゃな、ヨル坊は」
「ヘイルにだけは言われたくないな」
ヨルムントがぼやく。
ヘイルは一度咳払いをし、黒の双眸をリンファに向けた。
「シグルズ・ブラッドもエルマ・ライオットもこの世においてはすでに死んでおる。その心の蔵はすでに動くことを辞めておる。しかし妙なことに二人とも傷口からは血の一滴も流れておらん。まるで死んだ瞬間に時を止められたかのようにの」
「つまり、シグルズはどういう状況なの?」
リンファが問うと、今度はヨルムントが口を開いた。
「世界樹第二階層〈死者の国ブラハ〉を彷徨っている最中だということだよ。それだけならば、当たり前のことだ。けれど今回は状況が大きく違う」
「死者の国ブラハの中心の湖に中に小島があってな。一本だけ木が生えておる。生命の息吹がない死者の国に、植物があるのじゃ。世界樹は気まぐれで死者しかおらぬ世界に生命の可能性を生み出した。あまり頻繁に覗きには行けぬが、ついさっき見に行ってきた。そしたらどうじゃ、その木に実が一つなっておった。黄金の林檎がなっておったのじゃ」
「……つまり?」
リンファは問いを重ねる。いや、ここまで勿体ぶって言われればさすがのリンファにも対峙する神々が何を言おうとしているのかは分かる。分かっている上で、確認のために尋ねたのだ。
リンファが見つめる夜の瞳に瞼が下りる。一呼吸置いた後ゆっくりと瞼が持ち上がった。闇を映す瞳がヘイルの口に一つの可能性を語らせる。
「世界樹は、シグルズかエルマを生き返らせようとしておる。その黄金の林檎が、蘇るための鍵じゃ」




