06.決意
会議で一番に口を開いたのはアーガルズ国王だった。
「〈竜の守り人〉とやら、随分と見目麗しい娘ではないか」
楕円の長テーブルの上座に座り、蓄えた長い顎鬚を、その皺くちゃな手で撫でながら、同様に皺のよった口を動かした。
誰も反応を見せない。のしかかるような澱んだ空気。口を開いた者、異を唱えた者は斬ると言わんばかりの圧。アーガルズ国王は、見た目はただの老人だ。顔や手は皺だらけで腰は曲がり、長年剃らなかった髭が滝の如く真下に垂れている。
「あのような若い娘だとは、儂の腰が抜けてしまうと思ったわい」
誰も口を開かない。
「邪竜ファフニールを守護る者と聞いておったから、どんな大男か、はたまた化け物かと、殺し甲斐はあるのかと、思っておったが」
会議室に国王の話す音以外は無い。一切の静寂が会議室を包み込んでいる。
「〈竜の守り人〉を捕えた竜狩りの騎士はおるか。発言を赦す」
「はっ」
そしてようやく、国王以外の音が会議室に響いた。
「竜狩り騎士団所属、一等騎士シグルズにございます」
「うむ、存じておるぞ。お主は儂と同じ〈混血〉じゃからな。……してシグルズよ」
「はっ」
「あの娘は……強かったか?」
国王の表情はシグルズが座る位置からは窺えなかった。そもそも国王が、自分を見て喋っているのかどうかさえも、分からなかった。
「私と同等、それ以上の強さを誇る竜狩り騎士たち、総勢百二十七名が命を落としました。私も、自身の権能を使わなければ勝てませんでした。今は彼女の持つ魔力炉および魔法の記憶は、私の権能により我が内に存在します。しかし彼女は――〈竜の守り人〉は強敵でございまし」
「そうかそうか」
シグルズが話し終えるよりも早く、国王はそう言いながらうんうんと頷いた。
「あの娘の処遇を殺すか生かすかで揉めているそうじゃな。処刑派の筆頭は誰じゃ? 手を挙げよ」
アーガルズ兵団長ラウラサーがゆっくりと、しかし確かな勢いで真っ直ぐ上に手を挙げた。
「お主か、ラウラサー。発言を赦す。処刑する理由を述べよ」
「はっ」
ラウラサーは一つ咳払いをすると、椅子に座ったまま体ごと国王に向き直り小さく息を吸い込んで口を開いた。
「〈竜の守り人〉の処刑には二つの役割が存在いたします。一つは兵団の士気向上。低位ではありますが、〈竜の守り人〉は神性を纏う神に近しい存在でございます。それを討つことは神々の一柱を討つことと殆ど同義にございます。神を討ったとなれば、この〈人神大戦〉における兵団の士気はますます上がりましょう。
そして二つに、神々への牽制。神々も〈竜の守り人〉が捕らえられていることを把握しております。それを行ったのが混血の竜狩り騎士シグルズ殿であることも。彼の権能により奪った魔力炉は、元来の保持者が命を落としても消えることはありません。ともすれば、我々は〈竜の守り人〉と同等の戦力を騎士団の中に抱えていることとなります。先ほどシグルズ殿が申したように〈竜の守り人〉は強敵にございます。神々でもこの力は警戒するものと私は考えております。しばらく神々から手を出してくることは考えにくいでしょう」
「ふむ」
国王が頷く。
処刑派の意見は、シグルズから見てみれば火に油を注ぐ行為だ。士気の向上という点に関してはその通りかもしれないが、神々への牽制? 笑わせる。
〈竜の守り人〉は確かに強い。神性を帯び、低位の神と同等だという主張も理解できる。それがなぜ、他の神々を抑制する力になりえるというのか。〈竜の守り人〉は神々からすればただの駒に過ぎない。前提として神々を守っているのは〈竜の守り人〉が守護る邪竜ファフニールだ。神々への牽制云々の話をするのであれば、邪竜を倒してからだ。
と、シグルズが反論するまでもなく、処刑派の意見は敗れた。
「殺すのは可哀想ではないか?」
それが国王の意見、会議の結論だった。
「兵団長ラウラサーよ、お主は囚われた〈竜の守り人〉を見たことがあるか?」
「……いえ」
ラウラサーがどこか怯えるように下を向く。
「そうであろう。儂はわざわざ汚い地下牢まで行き、その様子を見てきた。いやはや、実に美しい女子だ。華奢な体つきに絹のような肌、空色の清流のような髪。そのどれもが美しい。確かに殺すのは良い案だ。あの小娘の泣き叫ぶ顔を見てみたい気持ちはある。しかし、あれを殺してお終いにするのは勿体ないことではないか?」
「そう、でございますね……」
反論はしない。反論すればどうなるか、ラウラサーも心得ているのだ。国王がどんなことを話しても、それを肯定するしかないのだ。
「そこで、だ。あの娘を、儂は飼おうと思うのじゃ」
国王の黄ばんだ歯が、不気味に口から覗いた。
会議室は依然として静寂が包んでいる。
「命は奪ってしまえば利用価値がないただの肉塊じゃ。だとすれば、生かしておいた方が使える駒は増えるであろう? しかしあの麗しい娘をあんな汚い場所に捕えておくのは儂の心が痛む。じゃから、儂が駒として動かすまで可愛がってやろうと思うのじゃ。年頃の娘じゃ、あんな場所では一人遊びも出来まいて。儂のほんの優しさじゃよ。異論があるやつはおるかの?」
国王が会議室を見渡す。全員が俯き、誰一人として手を挙げようと居ないどころか、身動き一つとらなかった。まるで呼吸さえも漏らさぬように。
「異論はないか。そうであろうそうであろう。儂の考えた名案じゃ。異論が出る方がおかしいからの。会議は終わりとする。みな、ご苦労であったな。竜狩り騎士シグルズよ、今宵、儂の元に〈竜の守り人〉を連れて来い。着替えさせる必要はない。牢屋にいたそのままの姿でじゃ。良いな?」
「……仰せのままに」
国王は立ち上がり、腰の曲がったその老体に似合わぬ確かな足取りで、会議室を出て行った。
こうして、国王一人のおかしな会議が幕を閉じた。
§
その会議を「おかしい」と思ったのはシグルズだけではなかった。
「狂っている」
一席だけ空きの出た会議室で、そう義憤の声を顕わにしたのは竜狩り騎士団長バロックだった。
「バロック殿に激しく同意だ」
アーガルズ兵団長ラウラサーが頷く。
誰もが険しい顔で頷いていた。あの国王には困ったものだ、と。
「まさか自分の欲望を満たすために……〈竜の守り人〉を飼うなど……」
「まさかとは思うがバロック殿、反乱を起こす気ではあるまいな」
「私とてそのような愚行を犯すほど馬鹿ではない。反乱を起こしたが最後、国王の持つ権能に消されるだけだ。私とて、大切な家族を置いて死にたくはない」
バロックが立ち上がり、ため息とともに会議室を後にする。
「全くその通りだ」
後を追うようにラウラサーも会議室を出ると、それに続いて一人、また一人と静かに席を立ち、ため息とともに部屋を出て行った。
一人残ったシグルズは、閑散とした室内で一人、椅子に座ったままだった。
無骨な会議室、楕円の長テーブルの一席。「そうか」と呟いた。なんて事のない、ただの決心だ。
アーガルズ国王は狂っている。それは敵味方関係なく、誰もが知ることだった。アーガルズ国王はイカレている。彼に統治を任せるのは正しくないと、誰もが理解している。アーガルズ国王は力ある者である。〈混血〉の半人半魔。武力も理力も彼に敵う者はいない。
――否。
ここにもう一人〈混血〉がいる。魔女の母を持ち、人の父を持った半人半魔。〈竜の守り人〉を捕えた一人の騎士。
シグルズは国王の判断は正しくないと思っている。いや、正しくないという言い回しは正確ではない。間違っている。
どうやらアーガルズ国王は〈竜の守り人〉を手中に収めたいようだ。手元に置き、嫌というほど可愛がる。いや、可愛がるなんて優しいものではないだろう。甚振り、嬲り、辱め、調教し、服従させる。〈飼う〉と口にした国王の、背筋が凍り吐き気を催すような不気味な笑みに、そんな支配欲が見え隠れしていた。
アーガルズ国王は覇王だ。武を持って天下を治めた半人半魔だ。しかし彼の心は、魔族に堕ちた。シグルズのように人間であろうとするより、魔族としての力を振るい、弱者を従わせることに愉悦を覚えていた。
その在り方を、シグルズの中の〈混血〉が否定した。独善的な考えかもしれない。バロックやラウラサーのように、不満を抱えても行動に移さないことが賢い選択かもしれない。だがそれが、自身の正しさと必ずしも重なるわけではないのだ。
男はもともと、混血である自分自身を生んでしまった両親を殺した神々に復讐してやろうと、アーガルズ兵団に入った。竜狩り騎士団の一員になり、騎士を目指した。男は一等騎士だ。邪竜討伐を果たせば、復讐にも一歩近づく。
そんな醜い感情が、一体なんだというのか。男の中の人間であろうとする心は、それを見過ごせなかった。助けたいと思うのは不思議なことではない、先輩らしい、と大切な後輩は言った。であればその自分らしさを貫いた方が後悔は少ない。罪悪感は残らない。
体制に背を向け、反旗を翻すなど、アーガルズ兵団として、竜狩りの騎士として失格だ。だが、騎士であることと一人の人間であることを天秤にかけたとき、男は人間であることに重りを乗せた。
会議室を出て真っ直ぐに自室に向かう。日は西に傾き始め、兵団宿舎から覗く町では東に伸びる長い影が走る子どもたちの手を引いていた。
鎧は着なかった。その鎧は騎士である証。それを纏う資格など、今の男にはない。手に持つは自らの得物。一振りの槍だった。それまで男は自身の得物の名前など気にしたことがなかった。斬れればいいと思っていた。そもそも誰かを傷つける道具なんかに名前が要るのだろうか、とさえ思った。
だがこれからその槍は――自分を、そして彼女を守る相棒となるだろう。だから男は槍を手にして初めて銘を呼んだ。
「行くぞ、バルムンク」
男は最小限の荷物を纏め、槍を担ぎ、真っ直ぐに地下牢へ向かった。
§
見覚えのある後姿が、エルマの黄金色の瞳に映った。
「先輩?」
錆色の短髪に、自分より頭一つ大きい身長。彼女が慕う先輩騎士シグルズだった。鎧は着ていない。制服ですらない、私服だ。だというのに物々しい槍を担ぎ、廊下を歩いている。
声を掛けようとした、が、そのときにはシグルズの姿は右に曲がる角の方に姿を消していた。これから夕食の時間だというのに、どこに向かうのだろう。
そんなことを思う。
「あとで聞けばいいかな」
どうせまた、あの天井染みだらけの汚い食堂で、一緒に夕飯を食べるのだろうなと考える。そして、二日後に迫る彼との外出のことを考えながら、
「明後日、楽しみだなぁ」
そんなことを、呟いた。