59.竜神の記憶③
その赤子――リンファの成長は速かった。まるで人間のようにすくすくと成長する彼女はめまぐるしく変化した。ある日、立ち上がった。ある日、言葉を話した。そうやって、彼女は一人の〝人間〟として成長していた。
ヨルムントは彼女を監視し続けた。彼女自身が危険を内包していないか、世界樹を枯らす要因にならないか、神々に対して危害を加えないか。
しかしヨルムントのそれらは杞憂に終わり、気がつけばリンファは五つの歳になっていた。フロティールとフェンル、そしてファフニールに育てられた彼女は存外真っ直ぐに育っているようにヨルムントには見えた。快活で危なっかしい所はあるが、世界樹に悪影響を及ぼすようにはとても思えなかった。
その日々は、フロティールの犯した罪を忘れさせるには十分すぎるほど穏やかな時間だった。しかし、その平穏は些細な出来事で崩れた。
リンファが怪我をした。転んだのだ。世界樹第七階層の大地は所々ぬかるみ、さらには滑りやすい腐葉土、苔むした木の根が広がっている。よくもまあそんなところで五年間、怪我をしなかったものだとヨルムントは思いながら、慌ててリンファの傷口を押さえるフェンルを眺めていた。
フェンルは大地の女神だった。世界樹を植えたのも彼女だった。つまるところ、命というものに対してフェンルは絶大な力を持っていた。傷を癒すなど造作もないことだった。
「……これでよし!」
フェンルがリンファの膝から手を離す。よほど派手にこけたのだろう、流れた血が滝のようにリンファの脛を真っ赤に染めていた。
「ありがと、フェンル!」
リンファは目に溜まっていた涙を拭うと、笑顔を浮かべてフェンルに礼を言った。不安そうに様子を見ていたフロティールも安堵の表情を浮かべる。
その直後だった。
「……あれ?」
フェンルの身体がぐらりと揺れた。そのまま横向きに大地に肩を付ける。
「フェンル?」
明らかに様子のおかしい彼女の元にヨルムントは駆けつけた。傍らではフロティールが心配そうに何度もフェンルの名を呼んでいた。リンファはわけも分からないといった様子で不安という感情をその童顔に貼り付けていた。
「フェンル、大丈夫か? フェンル!?」
フェンルの瞼が徐々に落ちる。呼吸は荒く、額を埋め尽くすように冷や汗が浮き出ていた。表情もどこか青ざめており、普段の快活さとはまるで正反対だった。
そして特筆すべき異常は彼女の腕にあった。
「……なんだ、これは!?」
リンファの傷口を押さえた方の手だ。手のひらについている血はすでに固まりかけていたが、そこから広がるようにして皮膚がどす黒く変色していた。その変色はまるでフェンルを蝕まんとする勢いで手首、腕、肘とその範囲を広げていく。
その光景とヨルムントの咄嗟の判断の間は一秒もなかっただろう。懐から取り出した短刀でフェンルの二の腕から先を思い切り斬り落とした。そうでもしなければどうにもならない状況だと、ヨルムントは直感的に悟っていた。
傷口から勢いよく鮮血が噴き出し、湿った大地に染み込んでいく。
落ちかけていたフェンルの瞼が突如開く。苦痛に悶える彼女の喉から、大地を震わすほどの叫び声が飛び出した。空気がびりびりと振動し、共鳴するように背の高い針葉樹たちがひしめき合ってその枝葉を互いに擦り合わせながらざわついた。
それはまるで、世界樹そのものが悲痛の叫びをあげているかのようにヨルムントには思えた。
「フェンル、落ち着け!」
風が荒れ始める。先ほどまで身をすり合わせていた枝葉はその風に流され振り落とされながら竜域を舞う。大地に落ちていた枯れ枝や乾いた枯葉が持ち上がり、フェンルを囲むように吹き荒れた。
足を暴れさせて大地をのたうつフェンルの両肩を押さえて叫ぶ。それでも泣き叫び続けるフェンルをヨルムントは優しく、そして強く抱きしめた。
「大丈夫だ、フェンル。僕がいる。だから落ち着いて、腕を直すんだ。力を少し失うかもしれないけれど、大丈夫だ」
そう優しく耳元で語りかけた。
少し落ち着きを取り戻したフェンルは左手を自身の欠けた右の二の腕に添えた。一度深呼吸をして、目を閉じる。
それを見ていたかのように、吹き荒れていた風が凪ぐ。まるで太陽に照らされているかのようにフェンルの右腕の傷口が淡く光り輝く。
息を止めながらギュッと目を瞑るフェンルは、右腕に全ての力を集中させんとするように、右腕に添える左手に力を入れた。
少しずつ傷口を覆う光が伸びる。光は腕の形を成していき、そうしてそこには何事もなかったかのようにフェンルの腕が再生していた。
フェンルが止めていた息を漏らす。呼吸は荒く、額は未だに汗に濡れて透きとおるほど綺麗な髪が乱雑に乱れて貼りついていた。
ヨルムントはそんな憔悴した状態の彼女の肩を抱えると、腿の裏に腕を回して抱き上げた。
「……フェンルを〈神域〉まで連れて行く。少しここで待っていろ」
言い残し、溶けるように竜域から姿を消した。
§
フェンルをベッドに寝かせ、布団を掛ける。幾分か顔色はよくなってはいるが、それでもまだ呼吸は荒く、苦悶の表情を浮かべている。
彼女の身に何が起きたのか、そんなこと考えずとも分かりきっていたことだった。
混血の子どもが怪我をした。フェンルが傷口を押さえて治療した。彼女の手に混血の血が付着した。その直後、彼女は苦しみ悶え始めた。原因は明らかだった。
「それが、世界樹の意思か」
ぼそりと呟く。
「ヨルムント」
自分の名を呼ぶ声を背で受ける。振り返ると、暗い顔をしたフロティールが立っていた。
「待っていろと言ったはずだ」
「ごめんなさい。でも、フェンルが心配で……」
胸の前で拳をキュッと握りしめる。そんな彼女にヨルムントは少しだけ微笑みかけた。
「大丈夫だ。今は少し苦しそうだけど直に良くなる」
答えるとフロティールの顔は安堵の色に変わった。しかしヨルムントには彼女のそんな安心した様子などどうでも良かった。「ところで」と付け加え、フェンルに向けた微笑みの彩度を落とす。白黒とも取れるような無表情を浮かべる。
「心配すべきは自分の身の方だろう、フロティール」
その声音に色はない。淡々と、無感情に彼女に対して言葉を顕わにした。フロティールの顔が少しだけ曇る。
「外に出ようか。ここだとフェンルの眠りを妨げる」
フロティールの腕を掴むと、引っ張るようにしてフェンルの部屋を後にした。無言のまま神殿を出て、庭を少し歩く。両脇の花壇では呑気に蝶が羽ばたいていた。
「フロティールは花が好きだったね。何の花が好き?」
「え……」
何の脈絡もないヨルムントの問いにフロティールは困惑しながらも、「ギトフテの花よ」と答える。
「あなたもよく知ってるでしょう? 私がその花を好きだってこと」
「ああ、もちろん知っているさ。ただまあ、墓前に供える花ぐらいは選ばせてやろうと思っただけだよ」
「やっぱり、私を殺すのね」
「そういう約束だろう。リンファの血が――混血という存在が危険であることの確認が取れた。あの子を殺すことはファフニールとの制約上しないことになってるけど、責任は付きまとうからね」
庭園の中央に設けられた噴水の前で立ち止まる。振り返り、フロティールの青藍色の瞳を見つめた。
「どう殺されたい? 選ばせてあげるよ」
「ヨルムントの好きなように殺して。これは私の罪だから。罰を受けるのは私だから、私に選ぶ権利なんて無いわ。花を選ばせてくれただけでも十分よ」
「そうか、それなら話は早い」
ヨルムントは空を仰ぐと「ファフニール!」と呼びかけた。
「いるんだろう!? 姿を隠していないで出てきてくれ!!」
叫び声に応じるように、世界樹第九階層に一際大きな影が落ちる。花壇の花を揺らしながら、翼を羽ばたかせるファフニールが降り立った。
「……私に、何をしろと言うのだ、ヨルムント」
ヨルムントの白眼を見つめる守護竜に目を細めて少し笑う。
「ファフニールも罰を欲していたよね。だからお前にも罰を与えるよ」
フロティールの腕を掴んでいた手を離し、守護竜の方に歩み寄る。振り向き、真っ直ぐ正面にいる青藍色の瞳に人差し指を向けた。
「お前が彼女を殺せ、ファフニール」
「なっ……」
背後で動揺する守護竜に僅かに首を振り向かせて睨み上げる。
「何を驚いている? これがお前の罰だよ。お前が欲しがっていた罰だ。ありがたく受け取れよ、なあ」
ファフニールは歯を食いしばった。確かに罰を欲した。少しでも彼女の受ける咎が軽くなればと、真に罰を受けるべきは彼女を第五階層に連れて行ってしまった自分だと。だが、ヨルムントが示した罰はあまりにも残酷で、ファフニールには実行しがたいものだった。
逃げ出すつもりは毛頭なかった。それでもファフニールの四足は、逃げるように一歩後ずさった。
「早く殺せよ」
「……それは」
「早く殺せよファフニール!! 全部お前のせいだろ!! お前が元凶だろ!! なにを躊躇う必要があるんだ!!」
怒声をあげたヨルムントに抵抗するようにファフニールも声を荒げる。
「私には出来ない! 彼女を殺すことなど、私には――」
「いいの、ファフニール」
抵抗の意を示そうとしたファフニールの言葉を、フロティールが遮る。
「いいのよ。私が悪いの。全部全部、私が身勝手なことをしたからこうなったの。だから、お願い、私を殺して。あなたの爪で、牙で、私を葬り去って」
そう言って、目を閉じた。まるで、訪れる死を待つかのように。その覚悟を見てファフニールも目を閉じた。幾つもの彼女との思い出が、笑顔が瞼に浮かぶ。
「……遺言を聞こう。我が友人よ」
ゆっくりと瞼を開き、空色の髪の女性を見つめた。彼女は、閉じた瞳から一筋の涙を流していた。
「あの子を――リンファを守ってあげて」
告げて、最期の笑みを浮かべた。
「ああ、分かった。誓おう。何があろうとリンファだけは守り抜こう。だからもう、おやすみ、我が友フロティールよ」
フロティールの首が前に傾き頷いた、ように見えた。実際はそうではなかった。首を前に傾け、頭の重さに体も引っ張られる。足元は身体を支える力を失い、そのまま前に倒れ伏した。
その様子を見ていたヨルムントは「粋な計らいだね」と零した。
「魔法を使って苦しまないように逝かせたのか。僕としては苦しんでくれた方が良かったんだけど」
守護竜を見上げる。しかし彼女はまるで石像にでもなったかのようにヨルムントの言葉に反応を見せなかった。
「あれ、僕の声聞こえてる?」
再度呼びかける。すると守護竜の目がぐるりと動き、ヨルムントを見下ろす。牙を剥き出しにして喉を唸らせる。言葉は聞こえているようだった。単純に無視されているのだ。いや、正確なことを言うのであれば無視とはまた違うだろう。
「思念による会話を遮断したのか。僕とは言葉を交わしたくないと。別にいいよ。僕だってお前と会話したいわけじゃない」
もう第七階層へ帰れよと付け加え、ヨルムントはその場を後にしようとした。
「……お母さん?」
か細い、擦れるような子どもの声がした。声のした方に振り向く。植木の裏に見覚えのある空色の髪が覗いていた。それは、その存在は神の天敵としてその力を発揮してしまった哀れな子、世界樹に生まれた癌、生きていてはならない忌むべき子。
「なんだ、見ていたのかい、リンファ。それは酷なことをしてしまったね」
植木の方に歩み寄る。リンファの前でしゃがみ込む。
背後でファフニールが咆哮を轟かせた。空気が揺れ、空が鉛のような重たさの雲を張り始める。雷鳴が鳴り響き、ぽつりぽつりと雨が降り始める。やがてそれは土砂降りに変わる。
ファフニールの怒りの表れだった。
「大丈夫だ、ファフニール。彼女に手を出すようなことはしない。彼女は僕に聞きたいことがあるだけだ、そうだろう?」
優しく問うと、リンファはこくりと頷いた。
「お母さん、寝ちゃったの?」
「そうだよ。お母さんは悪いことをしちゃってね、ずっと眠っていなくちゃならないんだ」
「それは私が……〈混血〉だから?」
リンファのその疑問にヨルムントは答えなかった。ただただ、笑みを彼女に向けた。ただ一言言葉を残すだけに留めた。
「すっきりしたよ。お前のお母さんが死んでくれて」
降りしきる雨の中立ち上がる。
「ファフニール、彼女を連れて竜域に帰れ。ここだと彼女は風邪を引く」
それだけ言い残し、ヨルムントはその場を離れることにした。そんな彼をファフニールが呼び止めることも、リンファが呼び止めることもなかった。
神域を打ちつける雨音の中、暫くしてからヨルムントの耳に届いたのはリンファの泣き叫ぶ声だけだった。




