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竜の魔女と混血の騎士  作者: 与瀬啓一
第5章~命の林檎~
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58.竜神の記憶②

 変化が起き始めたのは少ししてからだった。彼女は相変わらずファフニールの背に乗り、第五階層へ出向いているようだった。それどころか、帰ってこない日が増えていた。一日、三日、一週間と彼女が竜域を空ける日数は伸びていく。一週間ぶりに帰ってきた彼女に対してヨルムントは第五階層で何をしているのか尋ねた。


「……友達ができたの。とっても気が合って、一緒にいて楽しいの。あまり帰れなかったことはごめんなさい、謝るわ。でも大丈夫、ヨルムントが心配しているような危険なことはしていないから」


 いつになく真面目に、ちゃらける様子もないフロティールの姿にヨルムントは分かったと答えただけだった。彼女が嘘を吐くはずがないし、嘘が吐けるような性分でもないだろう。無条件に、ヨルムントは彼女に対して信頼を置いていた。たとえそこに嘘が見え隠れしていようとも、好きだから、信じようと自分すらも騙してしまう。何事もないと、何かあるはずがないと。


 そう信じて、疑おうとしなかった。疑いたくなかった。



 次の日、再び竜域を発ったフロティールは二度と帰ってこなかった。


 神にとって時間の流れは他の生物とは違う。悠久を一瞬に感じることもあれば、一瞬を悠久に感じることもある。


 フロティールが帰らなくなってから、気がつけば一年が経っていた。その一年はとてつもなく長かったような、瞬くほどに短い時間に思えた。


 ヨルムントは一人、第五階層を訪れた。彼女を拾ったときとは違い、健全に栄えているようだった。街並みは活気で溢れ、空の上で商店を営む人々の声が飛び交う。そのどれもがヨルムント自身の瞳や髪色のように無彩色で、味気のない、どれも同じ声に聞こえた。


 そんな交錯する人々の声の中に聞き覚えのある声が、一つだけ色のある声がした。振り返る。一日たりとも忘れたことのない空色の長髪が揺れているのが目に入った。


 青藍色の瞳がヨルムントを見る。見つめ返すように彼女の顔を凝視する。見紛うはずもなかった。その女性はどこからどう見ても、ヨルムントの良く知るフロティールだった。


 ただ一つ違う点があるとすれば、その背に一つの命を背負っていることぐらいだろう。


 ヨルムントは彼女が背を向け立ち去ろうとする前に一度指を鳴らした。軽く乾いた音が空気を震わす。周囲の景色が一瞬にして切り替わる。道を行き交う人々は消え、代わりに立ち並ぶのは背の高い針葉樹、道なんてものはそこになく、騒々しい街の賑わいも鳥のさえずりに変わっていた。


 そんな空間で、ヨルムントは恐る恐る振り向くフロティールをじっと見つめた。


 自分から何かを言おうとはしなかった。彼女の方から口を開くだろうと思ったのだ。


 ヨルムントは固く口を閉ざし、じっとフロティールの顔を見つめる。その背から、彼女と同じような空色の髪を頭から生やした赤子が不思議そうに指を咥えながら覗き込む。


 それに気づいた彼女は、我が子を隠すようにしながら「この子は……」とようやく口を開く。


「この子は、第五階層で出会った男性(ひと)との間に出来た子なの。その、黙っていてごめんなさい。ヨルムントに伝えようと思って何度か竜域に戻ろうとしたんだけど、お腹の赤ちゃんのことを考えたら無理はできないし、生まれてからはこの子の――リンファのお世話で忙しかったから」


 フロティールは少し項垂れながらヨルムントにそう説明した。


「人間に過干渉してはいけないと伝えていたはずだ。きみはもう人間じゃない。彼らと同じ時を過ごすことはできない。それに、世界樹はそれぞれの種族の歩みを観察する場所だ。過度な干渉は観察結果に大きな影響を与える。それもフロティールには伝えていたはずだ」


 ヨルムントはそう咎めながら唇を噛む。


 違うのだ。ヨルムントが言いたいのはそんなことではないのだ。確かに、世界樹の在り方として各々の種族の生活圏に触れないというのは大事だ。だが、今感じているものは、怒りは、己の利己的なものだ。それを噛み殺していた。自分は神だから、自分の愚かな恋情など目を瞑ってしまえばいいと。ただ冷徹に、彼女を戒めた。彼女が反省さえしてくれれば、それ以上咎めるつもりはなかった。


「それでも、好きになってしまったの。愛してしまったの」


 ぷつりと、ヨルムントの中で何かが切れた気がした。


 ふざけるな。誰のおかげでのうのうと子作りができたと思っている。誰のおかげで笑えるようになったと思っている。誰に名を与えられ、食事を与えられ、寝床を与えられ、心を与えられたと思っている。


「それは全部、僕のおかげだろう?」


 声を震わす。


 ヨルムントは一歩一歩、自身の怒りを確かめるようにゆっくりとフロティールに歩みを寄せる。迫る白髪白眼の神から逃げるようにフロティールが後ずさる。逃げようとする彼女の腕をヨルムントが掴んだ。


「全部僕のおかげだ! 僕のおかげできみは今こうして生きていられる! あのとき僕がきみを奴隷商人から買わなかったら、愛し愛を与えていなかったら、きみは人の親なんてものにはなれなかったはずだ!」


 怒鳴り声をあげる。感情は止まらなかった。


「僕はきみのことが好きだった。もしかしたら、薄汚い姿で虚ろな目をしているあのときに既に一目惚れしていたのかもしれない。だから僕は人間の男が愛する異性にそうするように身を案じ、優しくあろうとした。優しく接した。それなのにきみは! きみというヤツは!! 僕の方を見てくれはしない!!」


 ずっとずっと心に抱えていた(おもり)を吐き出す。あのときもこんな風に怒りを感じていただろうか。いや、全くそんなことはなかったはずだ。ただ彼女の笑顔が見れるなら、彼女が笑い続けられるなら、自分に想いを寄せてくれなくても構わない。ただそれは、彼女にとって自分しかいないという状況である場合に限った話だ。


 彼女は人間の男を好きになったという。彼女はよく第五階層に赴いていた。そのときに出会ってしまったのだろう。出会って、互いに恋に落ちて、命が芽生えるに至ったのだろう。


 では、今までの自分は、自分の行いは全て彼女にとって取るに足らないちっぽけなものだったのか。


「そんなことないわ!」


 ヨルムントの言葉に反発するようにフロティールが叫ぶ。


「私だって、あなたのことが大好きだった! あなたに買われて、救われて、笑顔と生きる勇気を与えられて――本当に感謝してるわ。あのときの私にとっては間違いなくあなたが私の全てだった。あなたとならずっと一緒にいられると思っていた。けど、違ったの。私じゃあ神であるあなたとは釣り合わないの。あなたの優しさに応えられない。

 それに、気づいてしまったの。私があなたに対して感じているのは恋心なんて淡いものじゃなかった。これはただの敬愛だったの。あなたの優しさだけではダメだった。私の身を案じたり、手を取って引っ張ってくれたりするだけじゃダメだった。私はそれにドキドキしなかった。胸が苦しくなって息ができなくなることはなかった。あなたと一緒にいても、恋の合図は一度も来てなかった……!」


 フロティールが瞳を涙で覆いながら叫ぶ。彼女の背の上で一つの命が、糸が切れたように大声を上げて泣き始めた。それはまるで、母親の代わりに気持ちを顕わにして泣いているようだった。


 その泣き叫ぶ声が耳に届いたのだろう。どこからともなく「何事!?」と慌てた様子で地神フェンルが息を切らしながら、新緑色の髪を揺らしながら駆け寄ってくる。


 涙目になっているフロティールと、その背で大声を出して泣きわめく赤子を見て事の重大さを理解したのだろう。彼女を守るようにして前に立つと、ヨルムントに困ったような顔をしながらも「怖い顔してるよ」と少し宥めるような声を上げる。


 ヨルムントは自分の顔を押さえた。瞼を一度下ろし、深呼吸する。


 頭に血が回りすぎていたのだ。怒りなのか失望なのか嫉妬なのか何かよく分からない――少なくとも正の感情ではないであろうモノが、ヨルムントの顔を酷く強張らせていた。


「……何があったの?」


 フェンルに問われ、ヨルムントは自分の顔を片手で覆ったまま、もう片方の腕を持ち上げて人差し指を真っ直ぐにフロティールに向けた。


「その女は裏切り者だ。〈神の禁忌〉に触れ、人間との間に子を成した」


 ヨルムントの言葉にフェンルは「えっ?」と驚きの声を上げながら振り向く。いつの間にか泣き止んでいた赤子と目が合う。フロティールとよく似た青藍色のつぶらな瞳がじっと彼女を見つめていた。そしてにこやかに笑った。


「……ヨルムントはこの子と、フロティールをどうするつもりなの?」


「無論、殺すつもりだ。僕は彼女を許すことができそうにもない」


 フェンルはヨルムントの殺気を肌で感じ取っていた。彼が本気なのは見るに明らかだった。何よりも、フロティールに対して庇護欲で満ちていた彼が彼女に対してこんな冷たい視線を送るはずがないのだ。


 フェンルの肌はとうに粟立っていた。彼の殺気に気圧されそうだった。それでも、返す言葉は既に決まっていた。


 一体何がどうなって、こんな事態になったのかは分からない。けれどフロティールの背の上で笑った赤子は、きっと愛の結晶だ。人間が子孫を残すのは、そこに愛が生まれたからだと知識では知っていた。ならば、愛の女神である自分はどうするべきなのか、何を言うべきなのか。そんなこと、間違うはずがない。


「それはあまりにも酷じゃない?」


 そう意見を告げるとヨルムントはさらに顔を強張らせた。目が血走り始める。


「フェンルもそいつの味方をするのか……!!」


 怒鳴り声。フェンルは五感の全てでヨルムントの憤りを感じ取っていた。けれど、フェンルは知っている。彼が本来、心優しい男であることを。彼が冷静沈着な性格であることを。ただ今は、頭に血が上っているだけなのだ。


「ちっ、違うの。えっと、その、なんていうのかな。フロティールがやったことは本当に良くないこと、なんだけど、生きてたら間違えることだってあるし……あっ! あたしだって今朝もお皿割っちゃったし、ケーキは焦がすし、ミルクも溢したよ。神様が間違えるんだから、フロティールだって間違えるよ。それに、見てよ、ヨルムント」


 フェンルが少し脇に退く。


 フロティールに背負われた赤子がヨルムントを見た。じっと見て、笑った。


「ほら、新しい命はこんなにも可愛い」


 その笑った幼子の顔を見て、ヨルムントはなぜだか肩から力が抜けた。頭に上っていた血が少しだけ引いた気がした。


「私からも頼みたい、竜神ヨルムント」


 空からした声にヨルムントは首を傾げる。ゆっくりとした速度で大地へ足をつけたのは、ヨルムントの半身でもある守護竜ファフニールだった。


「その子を――リンファを殺すのはやめてはくれないか。もともとは私がフロティールを第五階層に連れて行っていたのが良くなかった。非は私にある。罰を受けるのは私だけで十分だ」


「ダメだ」


 ヨルムントはファフニールの申し出に首を横に振った。


「〈混血〉が世界樹にどんな悪影響を与えるか分からない。早急に始末しなければ、世界樹が枯れる要因になる」


「まだそうだと決まったわけではなかろう? 様子を見るという選択肢はないのか?」


「そうだよヨルムント。まだ判断を下すには早すぎるよ! もうちょっと様子を見よ? えっと、そう、監視! 監視しておこう! そうしたらヨルムントも安心できるでしょ?」


 フェンルがファフニールの意見に同調する。


 場の流れは、完全にそういう方向に進んでいた。


 フロティールの背にいる赤子を生かす。ヨルムントの中でもそれを良しとする考えが芽生え始めていた。確かに、この赤ん坊が世界樹に仇なすとは言い切れない。まだ物心すらついていない子どもを殺すのは確かに気が引けた。


「……分かった、殺すのはやめにしよう」


 そう言うと、フェンルの顔は花が咲いたように明るくなる。ファフニールは安堵したように小さく息を吐き、フロティールはきょとんと呆けたような顔でヨルムントを見つめ、リンファと呼ばれた赤子はやはり笑っていた。


「その赤子――リンファは殺さないと約束しよう。ただし、その赤子が危険だと分かったときに誰が責任を取る? これを決めなければ僕の中で折り合いがつかない」


 言いながらファフニールを睨んだ。守護竜が口を開きかける。そのときだった。


「私が、責任を取るわ」


 フロティールがゆっくりと手を挙げた。


「お前が、どう責任を取るんだ?」


 ヨルムントが彼女を睨む。彼女は少し下を向いてから何かを決心したかのように首を持ち上げてヨルムントの白眼を見据えた。


「命をもって償うわ」


「待て、フロティール。それでは誰がこの子を……!」


「分かった。その条件を呑もう」


 ヨルムントは長い息を吐く。この場にいる全員に視線を配りながら「ただし」と付け加える。


「彼女の生育はこの階層――〈竜域〉で行うこと。他の階層との往来を完全に禁止する。それでいいな?」


 再び、視線を配る。フェンルは頷いた。ファフニールも頷いた。フロティールも、頷いていた。赤子は呑気に笑っていた。


「……決まりだ。フェンル、しばらくは彼女に付き添ってやれ。一人で子どもを育てるのは大変だろう? 申し訳ないが、僕は人の親を替われるほど性格が良くないみたいだ。だからフェンルに任せる。もちろん、僕も監視はするけれど、僕が本来やるべきことは世界樹の観察だ。あまり構ってはいられない」


 フェンルが頷く。それを確認するとヨルムントは「僕は少し疲れたから」と言い残し、世界樹第七階層を後にした。


 少しの静寂がフェンル達三人と一頭の間を流れ、まるで息を止めていたかのようにフェンルが「良かった~」と息を漏らした。


「良かった、ホント良かった」


 挙句、泣き始めた。


「フェンル、ごめんなさい、私……」


 申し訳なさそうにしているフロティールにフェンルは涙を拭いながら笑みを返す。


「いいのいいの。フロティールは何も悪くないよ。ヨルムントも分かってくれたし。あたしも色々手伝うからさ、一緒にがんばろ!」


 そう言って手を差し伸べて励ました。フロティールは目に涙を浮かべ、「ええ」と頷きながら差し出された手を取った。



§



 世界樹第五階層の夜は静かだった。昼間の喧騒がまるで嘘のように静寂に包まれ、生物の営みさえも感じさせないほどにヨルムントには思えた。


 歩く道の両側には多種多様な店が軒を連ねている。当然、夜なのだから暖簾は下りているわけだが。そんな静かな街を一人、ヨルムントは俯きがちに歩いていた。


 一体何がヨルムントをそこまで失意させているのか。怒りか、失望か、嫉妬か、はたまた別の何かか。


 これはフロティールに対してのものではないだろう。確かに事実を知ったときは酷く憤り、声を張り上げた。だが、彼女のことは許容することにした。起きてしまった事実は元には戻らない。生まれてしまった赤子には何の罪もない。いくらヨルムントでもそれは理解していた。それにフェンルは、フロティールも間違えることだってあると言った。


 果たして本当にそうだろうかと。


 ヨルムントの心の片隅には、未だにフロティールを信じたいと願う感情が焦げ付いたようにこびりついていた。確かに彼女には裏切られたも同然だ。けれど、そうなる要因は彼女自身にあったわけではないはずだ。


 彼女に恋を教えた。愛を教えた。そんな邪魔者が第五階層にいる。


 とある木造の一軒家の扉の前に立つ。ゆっくりと確かめるように、扉を三度叩いた。


「フロティール、やっと帰ってきて……」


 ヨルムントが叩いた家の扉の向こうから、その言葉と共に一人の男が出てきた。整った顔立ちの男だった。


「だっ、誰だよあんた」


 突然の見知らぬ客人に男が驚く。その様子には意も介さずヨルムントは「フロティールの夫か」と尋ねる。


「ああ、そうだが」


 男が答えた。


 この男が、フロティールを惑わしたのだ。躊躇う必要はどこにもなかった。この男は世界樹にとって、フロティールにとって危険極まりない存在だ。そしてヨルムントにとって、不快以外の何でもない男だ。


「〈神の禁忌〉に触れたお前の命を頂こう。世界樹第二階層で永遠に彷徨い続けろ」


 ヨルムントは懐から一振りの短刀を取り出すと、男の腹部に突き立てた。刃はまるで、そこに収まるのが自然であるかのように、当たり前であるかのようにすんなりと吸い込まれた。短刀で刺した箇所の衣服に赤い染みが広がり、男が口から勢いよく血を吐き出した。


 男の身体が軸を失くしたかのように揺れる。ヨルムントに縋りつくようにして倒れ、ずるずると重力に負けるようにして滑り落ちる。そんな男をヨルムントは勢いよく蹴り飛ばした。先ほどまで息をしていた男の亡骸は家の壁に飛ばされ、激しい衝突音を夜の静寂に響かせた。


「……ああ、すっきりした」


 無様に床に倒れ伏した男を見て、ヨルムントは一人言葉を零した。

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