57.竜神の記憶①
世界樹第七階層〈竜域〉。竜神ヨルムントは眼前の光景に唖然としていた。目の前で起きている出来事が想定と大いに異なっていたのだ。端的に言うと真逆だったのだ。
空色の髪の少女がエルマ・ライオットに覆いかぶさるようにして四つん這いになっている。そんな彼女がゆらりと揺れるようにして立ち上がる。少しよろけた後、気配に気づいたのか彼女の首はヨルムントの方を向いた。しかし当のヨルムントはそんな少女の姿など眼中になかった。ヨルムントが見つめていたのは緋色の剣に貫かれ、それを墓標のようにして横たわっているエルマ・ライオットだった。
「彼女を、殺したのか?」
問を投げると少女が空色の髪を揺らしながら「ええ」と頷いた。
こんなことがあるはずがないのだ。竜の守り人としての力を得たエルマ・ライオットがただの魔女になり下がったと同義であるリンファに負けるはずがないのだ。だから敗北の要因はリンファという個人にあるわけではない。
「またお前か……! ファフニール!!」
ヨルムントは叫んだ。遠く見据える青藍色の瞳の奥に、守護竜ファフニールの姿が見えた気がした。
ヨルムントは少女めがけて走り込んだ。精一杯の殺意を込めて、精一杯の恨みを込めて。身の危険を感じた少女は自らの母親の名を冠した聖剣を拾い上げて正面で真っ直ぐに構えた。
ヨルムントは懐から変哲のない短剣を取り出した。なんて事のない、ただの鋭い鉄の板とも言えよう。しかしそれは、リンファの命を刈り取るには十分すぎる得物だった。
ヨルムントの振り被った短刀が空気を裂く。それを迎え撃たんとリンファの握るフロティールも上方へと斬り上げられた。双方の刃がぶつかり合うその直前――。
「待たんか、二人とも」
二人の動きをその一言が引き留めた。
ヨルムントはその声に聞き覚えがあった。彼か彼女かも分からぬ中性的な子どものような声。声の主はヨルムントとリンファの少し横にいつの間にか立っており、刃を交える寸前であったその僅かな間を見上げるように首を傾げていた。
そんな子どもの視線が僅かにヨルムントの側へずれ動く。ヨルムントはその視線に返すように「邪魔をするな、ヘイル」と言葉を顕わにする。
「誰に向かって口を利いておるか」
その子どもは――いや、空神ヘイルはヨルムントの言葉を鼻で笑った。
空神ヘイルは世界樹を作った三柱の神のうちの一柱だ。地神フェンルが大地を作り世界樹の苗を植え、竜神ヨルムントが世界樹を見守り育てた。そして空神ヘイルはそんな世界樹が存在する〝空間〟そのものを作り上げた、紛れもなく最古の神だ。
「ヨル坊もリンファ嬢も、それ以上戦い続ければその身が亡ぶぞ。ヨル坊はただでさえ昔の四分の一も力を持たぬというのに。それに、これ以上派手な戦闘を続ければ、それこそ世界樹を枯らす要因になるでな。二人とも、もう少し穏やかにできんかの」
自由と安らぎを司る空神はそう言っていがみ合う二人窘めた。
ヨルムントは渋々短刀を懐に収めた。それに倣うように、リンファも構えていた聖剣フロティールをだらりと吊るすように提げた。
「聞き分けの良い子で良かったわい。仲良くするんじゃぞ」
それだけ言い残し、ヘイルはまるで初めからそこに居なかったかのように音もなく姿を消した。先ほどまで子どもの姿をした神がいた空間に取り残されたかのように視線を貼り付けていたヨルムントは、向かいに佇む空色の髪の少女の刺すような目を感じて視線をそちらに映した。何かを警戒している様子の彼女にヨルムントは「戦う意思はない」と一つため息を吐いた。
「ヘイルにああ言われちゃあ、僕にはどうすることもできない。お前を殺すつもりはない」
「だったら、殺気の一つでも上手に隠したらどうかしら、竜神ヨルムント」
「殺すつもりがないからと言って、殺したくないわけじゃない。僕はお前という存在そのものが嫌いだよ」
「奇遇ね、私もよ」
少女が「ふん」と鼻を鳴らして顔を逸らした。
その姿が、かつて想いを寄せた女性と重なった。
「憎たらしいね、まったく」
あれはいつのことだっただろうかと、記憶の隅にこびりついている淡い思い出に触れる。もう、四百年近く昔の話だ。彼女は――リンファの母親であるフロティールはよく笑う少女だった。
§
竜の守り人であるフロティールはよく笑う少女だった。
「ねえ見て、ヨルムント! ギトフテの花が蕾をつけているわ!」
茎の先にぶら下がっている赤い蕾を見て、フロティールはヨルムントに笑いかけた。
「この花ね、とっても綺麗な花が咲くの。このジメジメした竜域には似合わないぐらい、情熱的で燃えるような赤い花。咲くのが楽しみね」
言いながら、フロティールは蕾に手を伸ばす。指先が、まだ太陽すら拝んだことのない閉じた花弁に触れようとする。
「触ったらダメだぞ。ギトフテの花には毒がある」
フロティールの指が蕾に触れるより先に、竜神ヨルムントは優しい手つきで彼女の手をとった。
すると彼女は何を拗ねたのか「分かってるわよ」と鼻を鳴らして顔を逸らした。
「ヨルムントは私に対して過保護すぎよ。花を愛でるくらいいいじゃない。私だって女の子なのよ?」
「それでも、危険なものは遠ざけたいんだ。それに、過保護なのは僕だけじゃないだろう?」
言うと、フロティールが僅かに振り向く素振りを見せる。頭の中でとある竜の存在を浮かべた彼女は「そうね」と諦めたように立ち上がる。
「二人があまりにも過保護だから、私は遠目でこのお花とお話しすることにしようかしらね」
「どこに行くんだ?」
花の蕾に背を向けて足を前に出したフロティールにヨルムントが尋ねる。
「ただのお散歩よ」
「僕もついて行くよ。怪我をしたら危ない」
「だから、ヨルムントは過保護すぎるの。ひとりでに転んだりするほどお子様じゃないわ」
そう言い残して走り去る。「待って」と引き留めるヨルムントに彼女は振り返り、舌を出して挑発するそぶりを見せて走り去っていった。
彼女と重なっていた右手を、ヨルムントはだらりと下げる。
「また振られちゃったね」
隣から聞こえた温かみのある声に首を横に動かす。柔らかい日差しを想起させる新緑色の髪が揺れている。
「フェンル、適当なことを言うんじゃない」
「えー、でも事実でしょ?」
フェンルの言葉にヨルムントは口籠る。たしかに、傍から見ればその光景は一人の男が振られたように見えるだろう。実際、フロティールがこんな風に彼女の身を案じるヨルムントを、少々鬱陶しく感じて走り去っていくことは間々ある。
別に、ヨルムント自身はそれでいいと思っていたし、それが心地よいとさえ思っていた。フロティールの言う通りヨルムントは彼女に対して過保護だ。だがそれにはきっと理由がある。愛を司る地神フェンルは、よくこう言っている。
「ヨルムントって、ほんとフロティールのこと好きだよね」
その日も、彼女は同じことを口にした。
「そうだな。そうかもしれない。僕はきっと彼女に惚れ込んでいるんだ」
「どうして彼女のことをそこまで好きになれるの?」
フェンルの問いに、どうしてだろうと少し思考を巡らせる。続けるようにフェンルが口を開く。
「ヨルムントが第五階層からフロティールを連れてきたときは、もっと冷たい目をしてたよ。なにがヨルムントを変えたの? そもそも、どうしてヨルムントは第五階層で奴隷をしていたあの子を連れてきたの?」
詰めるように問いを並べるフェンルに、ヨルムントは一つ一つ記憶の蓋を開けるように少し昔のことを思い出す。
五十年ほど前のことだ。五十年ほど前、ヨルムントは守護竜ファフニールを守る存在――〈竜の守り人〉と成り得る人間を探した。
第五階層にでは人間が人間を売り物にしていた。身の肥えた男が壇上に上がり、大きな声で叫んでいた。舞台に並べられた商品はどれも女だった。彼女らが売られている目的は何となく察することができた。
なんと低俗な文化だろうかとヨルムントは思った。同じように考える知恵を持ち、言葉を持つというのに、何故人間は自分と周囲に差をつけて箔をつけて、下の者を見下すのか。その両手は隣のものと手を取り合うために生えているのではないのかと不思議に思った。
それと同時に、人間という神の模倣がこれほど低俗であるという事実に、自分のことが嫌になった。人間がそうであるということは、神々もまたそういった低俗な考え方を持っているとも言える。
だからヨルムントは壇上の奴隷を一人買うことにした。並べられた商品の中で最も汚い女だった。
だから、そうだ。彼女を竜域に連れ帰った理由はきっと、自分はそれほど低俗な存在ではないと思いたかったからなのだ。そう思いたかったからヨルムントは少女に名を与え、飯を与え、寝床を与え、友を与え、自分の力の一部を与えた。
すると何が起きただろう。少女は――フロティールは笑うようになったのだ。売りに出されていたあのときのように虚ろな目ではなく、希望を見据えた美しい青藍色の瞳だった。そのときの胸の高鳴りを「惚れた」と表現するならば、それがきっと正しいのだろう。
「フロティールを竜域に連れてきたのはきっと自己嫌悪から逃れるためだ。臆病な僕は何から何まで逃げないと気が済まないらしい。そしてフェンル、きみは『なぜ彼女のことをそこまで好きになれるのか』と聞いたな。彼女の笑顔が、すごく美しく見えたんだ。ずっと笑っていてほしいと思ったんだ。人の理に当てはまらない神である僕が、こんな風に命ある者に対して情を寄せるのは滑稽かな?」
「ううん、そんな事ないよ。あたしには、好きとか愛とかあんまり分からないけど、すごく素敵なことだと思う」
そう言ってフェンルは微笑んでいた。
愛の女神がそう言うのだから、この感情が間違いであるはずがないだろうとヨルムントも思っていた。ふと竜域の下を見下ろすと、フロティールを背に乗せて飛んでいる守護竜ファフニールの姿が見えた。遠目からでも、空色の髪を靡かせた少女がその顔を綻ばせ、笑顔を零しているのが窺えた。
一頭と一人はそのまま滑るように世界樹の幹に沿って下っていく。やがて雲を突き抜けその姿が見えなくなる。
「あれ、どこに向かってるの?」
隣で一緒にその様子を見ていたフェンルが問う。
「ファフニールによると、第五階層に行っているらしい」
「それって〈神の禁忌〉に反してるんじゃないの?」
「そうだな。世界樹はそれぞれの種族がどのように文化を形成し、生き、滅びゆくのかを観察する箱庭だ。外部からの、それこそ天界に住まう者が過干渉してはいけない。神以外の他階層への往来は本来許されざる行為だ」
そう言うとフェンルは不思議そうに首を傾げる。
「でも、フロティールが第五階層に行っているの、ヨルムントは見逃してるんでしょ? どうして?」
「彼女は僕らの都合で人間の住まう第五階層から連れてきた存在だ。故郷に帰る権利ぐらい与えるさ。僕らの勝手で竜域に縛り付けるべきじゃない」
このときの判断を竜神ヨルムントは間違っていたと思っていない。何もかも、神の勝手にすぎないのだ。彼女を連れてきたのも、名前を与えたのも、飯を与えたのも寝床を与えたのも力を与えたのも、自分の――感情を押し付けていることでさえも。だから彼女自身に危険が及ばない行動ぐらい、自由度を持たせるべきなのだ。
だから、これでいいと思っていた。




