56.神が見たもの
神だからといって傷を負わないわけではない。
「あああああああっ!!」
怪我をすれば痛覚は発生するし、血も出る。思念体のようなものだからと言っても、そこに〝いる〟という事実が動くわけではない。ただ、思念からできた神であるヨルムントと、肉体を持つリンファで違うのは、それらが死に直結しないということ。
死ぬわけではない。死ぬわけではないのだ。ただ、ヨルムントは零れるように血の滴る腕の疼きを抑え込むように喉を震わせていた。
竜神ヨルムントは臆病だった。自分から好んで戦うような性分ではなかった。ではなぜ、わざわざ竜狩り騎士の相手をしたのか。なぜこれほどにまで、こんな風に傷つくまで彼に肩入れしていたのか。
「ヨルムント! 大丈夫!?」
景色の隅で新緑色の髪が柔らかく揺れる。腕を引き千切った張本人が心配そうにヨルムントの顔を覗き込む。
もちろん、彼女が自発的に腕を千切ったわけではない。ヨルムントが「千切ってくれ」と頼んだのだ。頼まざるを得ない状況だったのだ。
「……大丈夫だ。混血の血を浴びて消えてしまうよりはずっとマシさ」
「なんでそんな無茶するの! バカ!!」
ここしばらく、地神フェンルにはあまり良くない感情を向けられていた。それも当然だ。人の恋心を利用したり嘘を吐いたりと、彼女が嫌うことばかりやって来たのだ。だから今こうして彼女が慈しみの視線を向けてくれているのがひどく懐かしく思えた。
「ありがとう。もう平気だ」
既に血は止まっていた。いや、それどころか千切ったはずの腕が何事もなかったかのように生えていた。ヨルムントは生えたばかりの自分の手を握ったり開いたりして確かめるように動かす。
何の支障もなく動く指先に、ヨルムントは短く息を吐いた。
「危うく消えてなくなるところだった。まさか戦っている最中に〈目覚め〉を迎えるなんて思わなかった」
おどけたように言うとフェンルは安心したのか少し落ち着いた様子で「そもそもさ」と口を開く。
「なんであんな戦い方をしたの? ヨルムントらしくないよ」
それはヨルムント自身も思うところだった。だからフェンルのこの問いにヨルムントは「どうしてだろうね」と曖昧な返答をする。
「僕らしくない、というのは僕も重々承知しているよ。しかしなぜだろう。彼を力で捻じ伏せてやりたいと思ったんだ。人間が神に敵うはずがないというのを見せつけてやりたかったんだ。多分ね」
目下で倒れた騎士に視線を注ぎながら言う。腕で彼の腹部を貫き、殺した。彼が〈目覚め〉たのはその瞬間だった。まさに、一矢報いるかのような意思が感じ取れる瞬間だった。
そのとき腕に〈混血〉の血を浴びた。それ故腕を一度千切り落とした。
既に騎士は絶命していた。それもそうだ。腹に風穴を空けておいて、失血死しない方がおかしい。実態を持つ者、命ある者がそのような状態になれば死は免れない。
見下ろす騎士の亡骸を見つめながらヨルムントはそんなことを考えていた。考えながら、思考と現実の乖離に遅れて気がついた。
驚きに目を見開きながら、誰も答えを知らない問いをフェンルに投げかける。
「……なぜ、腹から一滴も血が出ていない」
フェンルは「えっ」と息を漏らしてヨルムントと同じように白い床の上でうつ伏せになっている騎士に視線を向けた。やはり腹部には人間の腕と同じぐらいの大きさの穴が空いている。たったそれだけだった。血が出る様子は微塵もない。穴から覗くのは綺麗な白い床だけだった。
「……フェンル、一つ仕事を頼まれてくれないか」
「仕事?」
「ああ」
ヨルムントは頷きながら跪くと、うつ伏せになっていた騎士をひっくり返し、着ていた上着の内側に手を突っ込んだ。探り、あるものを手にすると突っ込んだ手を出した。
「それは?」
ヨルムントの手に握られたものを見ながらフェンルが尋ねる。それは短刀だった。
「シグルズ・ブラッドの持ち物だ。〝忌殺しの剣〟というらしい」
「忌殺し?」
ヨルムントが頷く。鞘から剣を抜く。姿を現したのは人間の手のひら大の刀身だった。刃の中心に細い溝が掘ってあること以外に目立った特徴のない剣だ。
「この剣は混血を殺すための剣だ。刃に掘られた溝に混血を殺す毒が塗ってある。ウィノラという魔女が作った道具だ」
「どうして彼がそんなものを持ってるの?」
「おそらく彼の母親である貪汚の魔女シアナ・ブラッドが作らせたんだろう。混血の子を産んでしまったときに殺せるように。それを息子が持っていても不思議じゃないだろう?」
そう言って、ヨルムントはそれをフェンルに差し出した。
「これを預ける。シグルズ・ブラッドが目を覚ましたら、フェンルがこの短刀でシグルズ・ブラッドを殺すんだ」
「どういうこと?」
フェンルが問い返す。どこからどう見てもシグルズ・ブラッドの息は止まっている。血が出ている出ていないの話ではない。心臓が止まっているのだ。地神フェンルにはそれが手に取るように分かる。生き物の生死が、感覚として知覚できるのだ。
「世界樹第二階層〈死者の国ブラハ〉に流れ着いたものは、すぐにその精神を手放すわけじゃない。しばらくは精神と共にあの国を彷徨う。その精神が、魂が生きることを諦めない限り、本当の意味で死んだことにはならない。彼は今、そういう状態だ。彼はまだ目覚める可能性がある」
「目覚めるって、どうやって目覚めるの? 死者の国を行き来する存在なんて聞いたことないよ!」
フェンルの叫びに「できるんだよ」とヨルムントは静かに答える。
「ブラハには草木の一つも生えていない。生えていないが、あの世界の中心、湖の中に浮かぶ小島に一本だけ木が生えている。世界樹の気まぐれだ。命無き大地に命の可能性を生んだんだ。その木があちら側からこちら側へ来る鍵だ。具体的にどうするのかは僕も知らない。あの階層は神々にもほとんど観測できない。空神ヘイルが唯一その木を見つけただけだ。あの場所だけは、生命の樹である世界樹から隔絶された場所だ」
だからこれはあくまで保険だと言いながらヨルムントは忌殺しの剣をフェンルに押し付ける。
「僕はエルマの様子を見てくる。だから彼のことはフェンルに任せるよ」
そう言い残し、フェンルが呼び止める間もなくヨルムントは白い神殿の風景に溶けるようにして姿を消した。
§
一人神殿に取り残されたフェンルは視線を手元に落とす。自分の手の中に握られた短刀の鞘を抜いてみる。鉄色の刃に細い溝が掘られた刃が現れた。刃は綺麗に磨かれているのか鏡面のようになっており、フェンルの幼げな困り顔を映していた。その困り顔が小さく口を開き、「どうしよう、これ」と呟く。
視線をさらに落とし、今度は足元に横たわる混血の男に目を向ける。相変わらず腹部に穿たれた穴からは血の一滴も流れていない。それは命ある者にしては異質な光景だった。
ひとまず、こんな何もない硬い大理石の上で寝かせておくものではない。そう思い、男の腕を首に回して立ち上がった。引きずるようにして、エルマが使っていた部屋へと運ぶ。
彼をベッドに横たえ、白い布団を上から掛ける。ベッドの縁に腰かけ、彼の顔を見つめる。死んでいるとは思えないほどの穏やかな顔だった。今にも飛び起きるんじゃないかとさえ思えた。むしろ、そうであってほしいとフェンルは心の中で思っていた。
混血の血は神にとっては毒だ。〈目覚め〉を迎えてしまった彼の血が、既に竜神ヨルムントにとっても、空神ヘイルにとっても、もちろんフェンルにとってもその存在を脅かすものだ。そんな彼に目覚めてほしいと、心の隅で考えていた。
彼がこんなところで死ぬことは間違っているとさえ思った。世界樹の在り方に逆らった生き方をしている彼が、愛を貫こうとしている彼が、愛を司るフェンルにはどうにも間違っているようには思えなかった。だからフェンルは小さく、誰にも聞こえないように独り言ちる。
「生き返ってほしいなぁ」
小さな小さな神の願いを。




