55.死者の国②
遠い意識の向こう側で、誰かが名前を呼んだ気がした。その呼び声に起こされるように、エルマ・ライオットはゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界の先、どこまでも続きそうな暗闇に向かって、横たわる自分の影が繋がるようにして伸びていた。
影――つまりは自分の後ろに光源があるということだ。
横たえていた体を回転させて後ろを振り向く。その瞳に、エルマの言葉を詰まらせるような相手が映った。
「……先、輩?」
吐き出す言葉を頭の中で探してから、ようやく絞り出すようにしてそう呼ぶ。錆色の髪を蓄えた騎士崩れはどこかぎこちない様子で「無事か?」とエルマに尋ねた。
体を起こして彼を見上げ、「大丈夫です」と反射的に答える。
いや、呑気にそんな風に答えている場合ではないのだ。
「ここ、どこなんですか?」
数ある質問疑問のうち、それを最初に口にした。果たしてここはどこなのか。エルマの知る光景のどれとも似つかわない異質な場所。暗く、冷たく、それでいて不気味な空間。どこからともなく聞こえる呻き声はまるで世界樹第二階層〈死者の国ブラハ〉からの冥府の呼び声なんじゃないかと――。
「まさかここが、第二階層……?」
思案する間に導き出された答えに、見上げる騎士崩れは頷いた。死者が住まうという第二階層。なるほど確かに死者の国と謳うだけの様相だとエルマは思った。全くと言っていいほど生気が感じられず、枯れてしまったような大地。生命の樹である世界樹とはあまりにも不一致な空間だ。
そんな死者の国の大地を踏みしめていることが意味するのはつまり、エルマ・ライオットという名の愚か者は死んでしまったということなのだと、彼女自身は認識した。
さて、次だ。次はなぜ彼もここにいるのか、ということについてだ。それこそ、ここがどこであるか分かった以上、これからエルマが尋ねようとしていることは愚問以外のなんでもないわけだが、それでも確認を取りたかった。
「どうしてここに先輩もいるんですか?」
どうして。そんなのは当然、死んでしまったから。そんな単純な答えをエルマは欲しているわけではない。どうして混血の騎士シグルズ・ブラッドは、竜神ヨルムントに敗北したのか。
「……俺が、弱かったからだ。それ以外の理由なんてない」
その返答にエルマは、彼らしい回答だと思った。むしろ、それ以外の回答が彼の口から出る光景が想像できなかった。そしてそれは、自分にも大いに当てはまることだった。
世界樹第二階層が単純に悪事を成した死者の魂の漂流地ではないというのは二人に共通していた認識だろう。ここは、ただの敗者の掃溜めに過ぎない。
本当に、本当に愚かだ。エルマは自分自身に対してそんな感情しか抱けなかった。一人の想い人のために人であることを辞め、彼がさらに想い慕う相手を殺そうとして刃を交え、見事に敗れた。誰がどう見ても滑稽な人生だ。
自嘲することさえもおこがましい。自分を俯瞰で見下ろしたとき、それはまるで中身のない卵のように意味のないものだった。中身のない空っぽな自分がいるだけだった。
「……立てるか?」
目の前に一つの手が差し伸べられる。ずっと掴みたくて追いかけて、結局掴めなかった手が差し伸べられる。中身のない愚かで空っぽな自分に向けて差し伸べられる。
「どうして、今更優しくするんですか……?」
エルマは彼の行動に対し、そんな文句を垂れた。その手をずっとずっと欲していたのだ、渇望していたのだ。どうしても掴めなかったその手をどうして今になって、死んでしまってから向けてくれるのか。
「どうしてって、それは……」
騎士崩れが口籠る。なにかを言おうと口を開き、そして閉じた。
エルマは差し出されたその手を除けて、一人で立ち上がった。彼に背を向けるようにして踵を返し、目的地もなく歩き出した。乾いた砂の大地を踏みながら少し歩いて立ち止まる。振り返ることなく、エルマは後ろからついてくる足音に「どうしてついてくるんですか」と言葉を飛ばす。「いや……」などと曖昧な返答が返ってくる。
その言葉を無視して再び歩き出す。足音はまたついてきた。
エルマは少し歩みを速めた。それに釣られるように後ろの足音もその間隔を狭めた。もっともっと一歩一歩を速めた。同じように後ろの足音も一歩一歩を狭めた。
いつの間にかエルマは、まるで足音から逃げるように走っていた。背後から「待ってくれ」という騎士崩れの声が聞こえた。彼も走っているようだった。
訓練校時代から、エルマは彼に走力で敵わなかった。
振っていた腕を逞しい騎士崩れの手が掴む。彼が立ち止まると同時に、引っ張られるようにしてエルマも立ち止まった。どれほど走ったのか分からないが、二人とも息を切らし、乱れた呼吸を肩で整えていた。
エルマは一度深呼吸をすることにした。深く息を吸い込み、一瞬呼吸を止めて肺の空気をゆっくりと吐き出す。そうして自らの勇気を固めて、思い切って振り返る。
「……なにがしたいんですか?」
僅かな苛立ちを込めて騎士崩れを睨む。すると彼は申し訳なさそうに下を向き、「すまない」と一言添えて手を離した。
「……一人で行くのは危ないと思って、引き留めたんだ」
エルマはその言葉が嘘だとすぐに分かった。彼の顔に浮かぶ表情は誰かの身を案ずるものではなく、まるでアーガルズ国王の機嫌を窺う高等騎士のように不安げなものだった。
そんなふうに思いながら、エルマはなおも騎士崩れを鋭く睨み続けた。
それに気圧されたのか、はたまたエルマの思っていることを汲み取ったのかは分からないが、騎士崩れは「すまない、嘘を言った」と詫びを入れた。
「エルマに、謝るために引き留めたんだ」
「私に?」
騎士崩れが無言で頷く。
「俺は、お前を救えなかった。お前の気持ちに気づいてやれなかった。そのせいで、お前に辛い思いをさせた。死なせてしまった。全部全部、俺のせいで――」
「……やめてください」
言葉を紡ぐ騎士崩れに、エルマは静止の声を入れる。
「別に、先輩のせいじゃないんです。私が全部選んだんです、決めたんです。だから謝らないでほしいんです。謝られたら……私が全部間違ってたみたいで、すごく……惨めじゃないですか」
そう言って、自嘲気味に笑った。
「私自身、救ってほしいだなんて微塵も思っていません。なんなら今のこの状況を、死んでしまったこの状況に安堵しているんです。馬鹿だと思うかもしれませんが、心のどこかで死にたいと思っていたんです。想いを寄せた人に振られたぐらいで、なんて言われるかもしれませんが、人によって、心のどれぐらいを想いが占めているかで人の生き死にに簡単に関わってくるんですよ。私にとって先輩の存在はあまりにも大きすぎたんです。だから先輩がいなくなって、心に大きな穴が空いて、私自身の心がその穴にずるずると引きずり込まれて、こんな風になるまで堕ちてしまった。たったそれだけの話なんです。だから、先輩に謝られる義理も、これ以上構ってもらう理由もないんです」
エルマは騎士崩れに背を向けると一言「さようなら」と別れを告げる。
「もう、私を追わないでください、構わないでください」
言い残し、彼のもとを去るように足を前へと動かした。
思っていることは全部吐き出したつもりだった。実際、エルマの選択の全ては誰かに言われたものではなく、彼女自身が選んだ行動だ。行動に至った理由にシグルズ・ブラッドがいたとしても、結局のところこの結末を選んだのはエルマ・ライオット以外にいないのだ。だから謝られる理由もないし、リンファに想いを寄せているであろうシグルズにこれ以上エルマを構う理由はない。少なくともエルマはそう考えていた。
だから、「俺がエルマと向き合いたいんだ」と引き留めようとした騎士崩れに、エルマは咄嗟に振り返り叫んだ。
「先輩の顔も見たくないって言ってるんですよ!!」
腹が立った? きっとそうだろう。一体誰に腹が立った? 目の前の騎士崩れ? 否、何一つ正直に言えない自分自身にだった。
最初からそう言えばよかったのかもしれない。けれども、それを言ってしまえばあることないこと全部を、叫びをあげた口が勝手に喋ってしまいそうだった。いや、あることないことなどではない。叫んだ後に続いていたのはエルマの本心そのものだった。
「ようやく死んでいろんなことに諦めがついて少し心の整理がついたのに、先輩の顔を見ちゃったらいろんな思い出とか私の阿呆みたいな行動を全部全部思い出しちゃうんですよ! 何のつもりで今になって私に手を差し伸べるんですか!? その手を私はずっと待っていたのに!! 喉から手が出るほど欲しかったのに!! どうして死んでからその手を私に向けるんですか!? どうして今更私に優しくするんですか!?」
泣きながら喚いていた。訴えていた。エルマの口から吐き出される本心の数々はいつの間にか彼女に騎士崩れの胸ぐらを強く握らせ、涙の溜まった瞳で見上げるように睨ませていた。そんなエルマに対し、騎士崩れは申し訳なさそうな目を向けていた。
その目がエルマには「すまない」と単純な謝罪の言葉を述べているように見えた。
ほんの五秒程度だろうか。エルマは頭に血が上っていた。死んでいるのだから本当に頭に血が上っていたのかは分からないが、とにかくそんな感覚がした。そんなわけで胸ぐらを掴みながら僅かな時間、騎士崩れに睨みを利かせていたのだ。
「誰かそこに居るのかしら?」
そんな彼女に平静さを取り戻させたのは、彼女の聞いたことのない声だった。その女性の声はまるでエルマとシグルズの間に割り込むように、一瞬にしてその場の空気を変えた。
我に返った二人は同時に声のした方に顔を向ける。シグルズが手のひらの上で踊っている炎を顔を向けたのと同じ方に突き出し、照らした。
炎の明かりの指す方で一筋の影が伸びる。人の形をしていた。髪は長く、背格好からして女性だと分かった。少しずつ歩いてきており冷たい砂の大地を踏む足音が鼓膜を震わせる。
女性の白い顔が炎に照らされて闇に浮かび上がる。三十代ぐらいの女性だった。暗闇の中炎に照らされており黒く見える髪は、よくよく観察すると深い森を思わせる緑であることが分かる。特徴的な髪色だった。そして白い顔に浮かぶ表情の中には驚きのようなものが混じっていた。その驚きはエルマの隣、シグルズの方を見ていた。
そして女性は驚いた顔のまま僅かに口を動かした。
「シグルズ、なの?」
「母さん……?」
名前を呼ばれた騎士崩れは、遠い記憶の中で眠っていた口馴染みのない呼び方を思い出すようにして発した。




