54.死者の国①
霧に霞むような思考と共にシグルズ・ブラッドは目を覚ました。鉛をぶら下げたかのように重い瞼を持ち上げて、思考と同様にぼやけている景色を瞳に映す。
混濁していた意識が鮮明になると共に、自身の瞳に映っていた闇が霞んだ視界によるものではなく真に暗闇であることを理解する。
「……あ」
口から空気が漏れ出る。声が出る。どういうわけか身体中の節が軋むように痛む。ゆっくりとした動きで尻を上げ膝をつき、両手のひらで地面と思しきものを押すようにして、やっとの思いでうつ伏せになっていた体を起こす。立ち上がる。
寝ぼけ眼のように半開きだった意識も完全に覚醒し、シグルズの頭はこの場所がどこであるかを必死に認識しようとしていた。
見覚えの全くない場所だった。前後左右上下、全てに延々と暗闇が続く世界。そうとしか説明のしようがないほどに、他に特徴を見つけられない謎の空間。いや、特徴なら一つだけシグルズの耳が捉えていた。
「なんなんだ、この音は」
音、それとも声と言うべきだろうか。まるで炎に焼かれる人間が絞り出すような断末魔、呻き声、耳を劈くような悲鳴も時折聞こえてくる。しかもそれが途切れることなく、森の中で聞こえる小川の潺や鳥の囀りのような環境音として聞こえてくるのだ。どこから聞こえてくるのかも、誰がその声を出しているのかも分からない。
その不気味さだけが、この真っ暗な世界の不穏さに拍車をかけていた。
そもそもの話、シグルズは死んだはずだ。少なくとも、彼自身は自分のことをそうなったと認識している。それなのにどうだ、竜神ヨルムントに貫かれた腹部は傷の跡さえ見えないし、どういうわけか胸の内側で跳ねている心臓は一定の律動を刻んでいる。
いや、確実にシグルズは世界樹第九階層〈神域〉で命を落としたはずなのだ。あの状況で生きていられるわけもなければ、竜神ヨルムントが自分を手当てする可能性もない。
とすると、可能性は一つに絞られる。
「ここが、死者の国なのか?」
世界樹第二階層、〈死者の国ブラハ〉と呼ばれるその階層は、世界樹の根元である第一階層を除けば実質的な最下層に当たる場所だ。
悪事をなした魂は世界樹第八階層〈聖域〉で輪廻の輪に戻ることはなく、永遠に死者の国で彷徨い続ける。そう言われている場所だ。
再度、周囲を観察してみる。とは言っても、明かりがなければ延々と暗闇が続いているだけだ。観察のしようもない。
「炎よ」
手のひらに炎を灯す。後方に自分を引き延ばしたような長い影ができる。片膝をつき、地面を照らしてみる。起き上がったときに振れた感覚で何となくは察していたが、地面と思しきものは土でできているようだった。触ってみると土は乾いており、比較的肌理の細かい砂や粒の大きい砂まで、大小様々だ。
植生は見当たらず、不毛な大地が延々と続いているようだった。
辺りを見渡しながら少しだけ歩いてみる。遥か先はやはり暗闇が続くばかりで、光源らしきもの一つ見当たらない。足元にも特別な変異は見られず、靴越しに細かい砂の踏み心地を感じるばかりだ。
いつまでも続く平坦な大地。あまりに様変わりしない景色に、シグルズはいつの間にか観察することも止めて当てもなく歩を進めていた。
荒廃し、生命の息吹さえも感じさせないこの場所が死者の国であるというのを強く痛感する。
ふと、足を止める。炎を灯した右手を突き出し、前方を確認する。僅かだが地面に変化が見られた。ほんの少しばかり、地面に傾斜がついているのだ。どうやら死者の国にも地形という概念はあるらしく、延々と砂漠にも似た大地が続くわけでもないらしい。
その事実に安堵しながらも、再び足を前へと繰り出す。軽い斜面を強く踏みしめ、坂を上る。
心に余裕ができたからか、シグルズの思考は既に別のことに移っていた。
リンファとエルマはどうなっただろうか、と。死んでしまった手前、既にどうすることもできないが、これが気がかりで仕方がなかった。
二人とも、無事だろうか。そんな欠片もない可能性が頭を過る。
竜神ヨルムントは「リンファはエルマに勝てない」と言った。きっとそれは、本当のことなのだろう。彼女らが刃を交えた時点で勝敗は決まっていると、そういう意味合いを込めての言葉だ。だとするならば、リンファはエルマに殺され、同じように世界樹第二階層〈死者の国ブラハ〉に訪れる。
結局、全てのことがどうにもならなかったのだ。リンファを守ることも、エルマを救うことも、神を討ち滅ぼすことでさえも。
混血という特異な存在として生れ落ち、両親を殺されていつか必ず自分のこの力で神を討ってやろうと、いや、神を討つことこそが宿命なのだと、勝手に思い込んでいた。自分には力があると、自分は特別な存在だと、そんな考えが頭の片隅にあったのだ。
現実はどうだ。力もなく、特別な存在でもなく、何も成し得ない。
圧倒的な無力感。それが、死者の国を当てもなく彷徨うシグルズの足を止めさせた。この歩みを止めた姿こそが自分の運命そのものなのだと、そう思った。
失意と共に弱まりつつある手のひらの炎が前方を淡い橙で照らしている。少し見上げる視界の端、何かの陰がシグルズの進行方向に向かって伸びているのが映った。
なにやら黒く薄いものを被せられた、人間大のなにか。シグルズは引き寄せられるようにして、止めていた歩みをゆっくりとその物体に向かわせた。近づくにつれ、闇に浮かぶ輪郭がその鮮明さを増していく。
黒く薄いものはどうやら衣服のようだった。まるでなにかを祀るかのような神聖さを帯びた黒い装束。纏っている物体とやらはどうやら人間らしかった。シグルズに背を向ける形でぐったりとした様子で倒れており、装束から露出した綺麗な肌が炎の明かりを受けて金色に輝いているように見えた。
「……エルマ?」
その人物の髪は、よく知る紅葉色だった。それを見た瞬間、シグルズはふらふらと近寄る足を回して、駆けるようにして彼女の元へ近づいた。
駆け寄り、足元にぐったりと横たわる彼女を観察する。それは見紛う事なきシグルズの後輩、エルマ・ライオットだった。肩が僅かに動き、呼吸しているのが見てとれた。その様子にシグルズは心の中で胸を撫で下ろした。
いや、そもそもここは〈死者の国ブラハ〉なのだから、既に目下で倒れているエルマも死んでいるということになるのだろう。
はて、どういうことだろうか。
目の前の事実が、シグルズが聞いた話と大きく異なっているのだ。竜神ヨルムントの言葉を信じるならば、今目の前で倒れているのはリンファであるはずだ。だとするならば、なぜ今目の前でエルマが倒れているのか。
目の前の事実に動揺しながらも、混乱する頭を必死に回す。もちろん、シグルズにも答えは分かりきっていた。単純なことなのだ、エルマがリンファに敗北し、命を落としたのだ。たったそれだけなのだ。それだけの事実を、なぜか受け止められていない自分がいたのだ。
そんなことを考えながら固まっているシグルズの瞳の中で、エルマ・ライオットの瞼がゆっくりと持ち上がった。




