53.全知の力
気がついたとき、リンファは何もない暗闇の中にいた。前も後ろも、右も左も上も下も、全方位が果てしない闇が続いている。だというのに、リンファ自身はその何もないはずの空間に両の脚をつけて立っていた。直感的に、そこが世界樹第二階層〈死者の国ブラハ〉だと考えた。
意識は自分でも驚くほどにはっきりとしており、その感覚は生きているときと変わらなかった。
「……もしもーし」
囁いてみる。声が響く様子はないが、かといって音が出ていないわけでもないらしい。自分の喉は確実にこの謎の空間における空気を震わせている。
視線を下に向ける。真っ暗だというのに、自分の身体だけは驚くほど鮮明に闇の中に浮かび上がっていた。衣服は着ておらず、その慎ましやかな胸から細い足先まで、白い肌が闇に追い出されでもしたかのようにリンファの瞳には映った。
「リンファ」
誰かに名前を呼ばれる。周囲を見回しながら声の主を探す。
「誰?」
「私だよ、リンファ」
視界の端で何かが動く。そちらに視線を向ける。
「……ファフニール?」
視線を動かした先、闇の中に溶けるようにして守護竜ファフニールが佇んでいた。その様はリンファの知るそれと全く変わることなく、最後に見たときと同じ姿をしていた。ただ、両の前足を揃え、翼を畳んで座るその姿は、普段よりも随分と小さく見えた。
「会えて嬉しいわ、ファフニール」
再会を喜びつつも現状喜んでいられる状況でないことに、リンファの声音は少し萎んでいた。
「あなたに会えたってことは、私も死んだのね。ここは第二階層〈死者の国ブラハ〉? それとも第八階層〈聖域〉? まあ、きっと第二階層の方でしょうけど」
自嘲気味に言いながら俯く。そう、死んだのだ、負けたのだ。新たに生まれた〈竜の守り人〉であるエルマ・ライオットと守護竜ニーズヘッグに。己の慢心が招いた結果だ。いや、そもそも勝ち目は最初からなかったのだろうとリンファは思う。剣の技も、重さも、魔法の有無……力量差は明白だった。まるでこの結末を竜神ヨルムントが予め用意していたのではと思えるほどだった。
「いいや、ここは死者の国でも、ましてや聖域でもない」
ファフニールのその言葉に顔を上げる。
「どういうこと?」
「ここはニーズヘッグの腹の中だ」
顔を上げて問うリンファにファフニールはそう答える。
「ニーズヘッグの腹の中ですって?」
「ああ、そうだ。奴は命ある者を喰い殺す化け物だ。そしてそれは肉体だけではなく魂までも喰い殺す。
生命の魂は本来、死すれば生前の善行と悪行によって世界樹第八階層〈聖域〉で輪廻の輪に戻るか、世界樹第二階層〈死者の国ブラハ〉の住人になるかのどちらかに分けられる。しかしニーズヘッグに喰い殺されたものはそのどちらにも行けず、完全に消えてなくなる。邪竜の養分となる。今の私とリンファはその直前といったところだろう。直に現実世界のリンファの肉体もニーズヘッグに喰われて消える」
ファフニールのその説明はリンファにまるで絶望を与えるかのようだった。もとより、混血である自分が世界樹第八階層〈聖域〉に行けるなんて思っていない。〈死者の国ブラハ〉でずっと意思のない魂として彷徨い続けるのだろうと思っていた。だがしかし、ニーズヘッグに喰われればそれ以前の問題になってしまうようだ。
「そう。じゃあ、私もあなたもここで消えるのね」
そう結論付けたリンファの言葉を「いいや」と首を横に振ってファフニールは否定する。「消えるのは私だけだ。リンファは死なせない。約束に誓って」
「約束、って私のお母さんとの?」
「そうだ。リンファの母であるフロティールに誓ってお前を守り抜かねばならない。そしてこれが、私の最期の仕事だ。私の力の全てをリンファに授ける。竜神ヨルムントの半身としての力を全て授ける。だから生きなさい。これからの世界に、リンファは必要不可欠な存在となる。その青藍色の瞳で全てを見通しなさい。そこに世界樹の意思が――彼女の意思が映る」
「……まって、話について行けないわ。確かに私の権能はあなたの力の一端を引き出すものだけど、全部は無理でしょう? あなたの全知を使いこなすなんてできないわ」
首を横に振りながらそう言う。しかしファフニールはそれに答えることなく小さく微笑んだ。
「そろそろ時間だ、リンファ。瞳を閉じて、十数えるんだ。そうしたら現実でも目が覚める。その瞳に、答えが見える。大丈夫、私はいつも見守っている」
「どういうことよ、何を言っているのよファフニール。私にも分かるように説明を――」
なぜか遠ざかっていくファフニールに手を伸ばすリンファは、ふっと意識が遠のくのを感じた。ファフニールの言う「現実でも目が覚める」というのが近づいているのだ。意図せず瞼が下がる。
ファフニールの言っていることはほとんど理解できなかった。理解できなかったが、言われた通りにするしかなかった。薄れゆく意識の中で一つずつ時を刻む。
一、二、三、四……。
ふと、頭の片隅に錆色の短髪を蓄えた男の顔が映る。彼は今、どうなっているだろうか?
七、八、九――十。
力を入れたわけでもないのにぱっと目が開く。瞳に映った景色は先ほどと何ら変わりない世界樹第七階層の景色。背の高い針葉樹が周りを囲んでいて、空は先ほどよりも黒くなり、まるで鉛を張ったような雲が覆っていた。
そしてリンファの目の前に、彼女がいた。
「死んで……ない……!?」
驚く彼女の目が見開く。視線を下げると自分の胸元にしっかりと緋色の剣が刺さっている。どういうわけか痛みもなく、普段の状態と変わらない。剣の刺さったところから赤い筋が下に垂れており、血が流れた後はあるがどうにも傷のようなものは感じられなかった。これに似たような状態をリンファはよく知っていた。
聖剣フロティールでシグルズを貫いたときと同じなのだ。ファフニールがなにか細工をしたのだろうか。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。目の前にはなおもリンファに殺意を向ける少女がいる。彼女がいる限り、リンファの身は危険に晒され続ける。
リンファは両の脚でエルマの腹部を蹴る。何事もなかったかのようにするりと胸に刺さった剣が抜けた。地面に着地すると右手に持つ聖剣フロティールを握り直し、未だ動揺しているエルマとの距離を詰めようと、大きく足を踏み込んだ。
その瞬間、まるで頭を鈍器で殴られたかのような激痛がリンファを襲った。足を止め、剣を杖にするようにして体重をかける。痛みに襲われる中、ふと正面にいるエルマの姿が目に入った。
刹那、視界が瞬きをするように一瞬だけ闇に染まる。次に目を開いたときには先ほどとは連続性のない光景が広がっていた。
リンファがエルマを刺しているのだ。〈竜域〉を形作る腐葉土の上で、なぜかリンファが握る魔剣ニーズヘッグが横たわるエルマを貫いている。彼女は口から血を流し、少しずつ脱力していく――。
再び瞬きのような闇が視界を遮り、また戻ったときには少し遠くでエルマが動揺しながらも剣を構えている姿が目に映った。一度目の闇の前と連続的に繋がっている光景だ。
「……さっきの、なに?」
リンファはそう零しながらもその光景が何なのかを直感的に理解していた。これは、守護竜ファフニールの全知の力その一端、未来視というヤツだ。つまり、この戦いの結末は既に決まっているということなのだ。
そんなことを考えているうちに、エルマが距離を詰める。緋色の剣を両手で握りしめ、後ろに流すようにして持ちながら駆けてくる。振り抜くように斬り上げられた剣の軌道を後退して躱すと、流れのまま振り下ろされた刃を聖剣フロティールで受け止めた。
腕が痺れるような重い一撃。
「……っ!」
果たして本当に、先刻見たような結末が訪れるのだろうかと、その一撃を受けて思う。殺意も、技も力も魔法でさえも、エルマに勝てないではないか。
鍔迫り合う刃の向こうで、エルマの黄金色の瞳が睨みつけてくる。その圧に押され、僅かに腕の力が緩む。剣が、その手から零れ落ちた。
既に一度敗れた身、戦意なんてものはとうに無くなっていた。何故か死んでいなかったから、戦いが続いていたから、相手が刃を向けてきたから応戦した。惰性で剣を握っていた。
再び敗北を確信した。やはりファフニールの全知など使いこなせなかったのだ。先ほど見た光景はきっと自分が見た妄想なのだろう、一度生死を彷徨った反動で見た幻覚なのだろうと、考えた。
炎によく似た剣が振り上げられた。リンファは目を瞑った。
『右に大きく跳べ。剣を拾ってエルマの後ろに回り込むんだ』
そんな、聞き覚えのある声がリンファの耳を震わせた。
「……シグルズ?」
驚きと共に目を開く。振り下ろされた刃の切先が視界の端に映った。リンファは反射的にシグルズの声のままに動いた。右に大きく跳ね、剣を拾って一足飛びで後ろに回り込む。
『エルマに向かって剣を投げろ。投げた瞬間、全速力で彼女の元へ走り込め。押し倒して剣を奪え。竜の権能を最大限発揮しろ』
聖剣フロティールを逆手に持つと振りかぶり、投擲する。それを追いかけるように走り出す。視線の先で振り返ったエルマが間近に迫った聖剣フロティールを払い除けた。剣はくるくると回転しながら宙に弧を描いて飛んで行く。
払い除けた剣の陰、エルマの瞳には全力疾走してくるリンファの姿が映った。その瞬間、リンファがエルマに飛びかかる。魔剣ニーズヘッグを握る右手を左手でしっかりと掴み、右手でエルマの腕を地面に押さえつけている。
その力はエルマにとっては弱すぎた。子どもに押し倒されているのかと思えるほどだった。だが、直後に感じた激痛にエルマは立ち上がることすら叶わなかった。
「っ、あああああっ!?」
右の手首に太い鉄の棘でも打ち込まれたかのような激痛が走る。腕の腱が切れる感覚がした。痛みに喉を震わせて苦悶の表情を浮かべながらも、疼く右腕を見る。そこには爪の先を竜のように変異させたリンファがエルマの腕を掴むようにして爪を立てている光景が映った。
爪の刺さった部分からは血が溢れだし、腐葉土の上を赤く染めていく。手首から先は既に脱力し、ものを握る力など残っていなかった。
するりと、手に握っていたはずのものが抜けるのを肌で感じた。
視線を腕から外し、見上げた先にはニーズヘッグを振りかぶるリンファの姿が見えた。その腕が振り下ろされる。エルマは目を瞑った。
リンファは自らの手に握られた緋色の剣を振り下ろす。剣は真っ直ぐに、エルマ・ライオットの胸を貫いた。
そのとき、エルマの全ての感覚は現世から完全に切り離された。




