52.守るべきもの
「竜の魔女リンファはエルマ・ライオットに勝てない」
ヨルムントは静かに言い放ち、僅かに口角を吊り上げた。
「エルマの振るう魔剣ニーズヘッグは持ち主の強い負の感情に呼応する。憎しみ、怒り、悲しみ、嫉妬……それらを感じ取ったとき、ニーズヘッグは感情に応えようとするだろう。それに、エルマの方が有利だというのは魔法の点においても言えることだ。リンファの魔力炉は今、シグルズ・ブラッド、きみの中にある。彼女は魔法が使えない状況だ。おまけに彼女は剣技に長けているわけでもないければ力があるわけでもない。となると、彼女の持つ〈竜の権能〉だが、それさえも十分に使いこなせていない。近い未来に脅威に成り得るがね。つまるところ、今のリンファはただ守られるだけのか弱い乙女さ。彼女自身に自分の運命をどうこうする力はない」
はっきりと言い切って、ヨルムントはシグルズの瞳を見据える。
「今頃、決着がついている頃だろう。つまり、きみにはエルマを選ぶしか選択肢はない。神になる以外の選択肢を持ち合わせていないんだ」
だから僕の手を取ろうと、ヨルムントはテーブルを挟んだ向かいに座るシグルズに右手を差し伸べた。
シグルズはその手を一瞥し、顔を上げてヨルムントの顔を見る。
神々の言い分はシグルズにも理解できた。〈目覚め〉とやらが混血の血を、神を浄化する毒にし、既にリンファは〈目覚め〉ている状態だと。そんな危険因子を放っておけば、いつか神々がその毒によって消され、世界樹が管理者を失う。管理者を失ったこの樹はやがて枯れる。世界の終わりだ。
なるほど確かに〈混血〉というのは世界樹にとって邪魔な存在らしい。幸いシグルズは未だ〈目覚め〉とやらを迎えておらず、そこに目をつけた神々は殺すという方針を改め、自分たちの勢力に引き込もうという。それが一番平和的な方法だからだ。失われる命はたったの一つでいい。たった一つの命で、世界樹の平和は再び取り戻すことができる。
アーガルズを収めていた混血の狂王をシグルズが討ち、竜の守り人となったエルマが神々にとって脅威であるリンファを討ち、エルマに寄り添うためにシグルズは神々の軍門に降る。きっと世界樹第四階層から第六階層までのいわゆる人界内での人間による統治も終わりを迎えるだろう。たった一つの命で、すべての諍いに終止符が打たれるのだ。
しかし、それをシグルズ・ブラッドが望むかと言われたらそうではない。
「本当に、選択肢はそれだけなのか?」
人が両の手で持つことができる量には限りがある。欲張りすぎれば指の隙間から零れ落ち、何一つ掬い上げることはできない。何かを切り捨てなければ生きていけない。
果たして本当にそうだろうか。もしそうだとしたら、人がそういう風にできているのだとしたら、そもそも人生に選択肢なんてものは生まれない。
人はその手で、自らの前にある選択肢を選べるのだ。
「エルマのことは放っておけない。お前たち神々の言いたいことはよく分かった。だがな、生憎俺は守ると決めた女を捨てるような奴じゃない。
リンファを牢から連れ出したあの夜、俺は選択をした。大切なものを全て置き去りにして、彼女の命を救うことを、心を救うことを選んだ。その結果がこれだ。俺はエルマを苦しめた、悲しませた。俺が選んでしまったからだ。自分が救えるモノには限りがあると決めつけ、手を取れるはずだったモノから目を背けた。同じ轍は踏まない」
「……つまり?」
ヨルムントがシグルズを見つめる。
その瞳を貫かん勢いで、シグルズはテーブルに立てかけていた自らの得物であるバルムンクの穂先をヨルムントに向けた。
「竜神ヨルムント、お前を殺してリンファを助ける。エルマも救う。守るべきものを選んだりなどするものか」
「傲慢だね。けれど、想像通りの回答だよ、シグルズ・ブラッド」
ヨルムントが立ち上がる。彼が指を鳴らすと、つい先ほどまで二人を隔てていたテーブルが消え、椅子も消えた。一人腰かけていたフェンルは「いだっ」と悲鳴を上げながら尻餅をつく。
「フェンル、僕との約束を覚えているね?」
痛む尻を摩りながら、名前を呼ばれたフェンルはヨルムントを見上げる。
「約束?」
「ああ、そうだ。シグルズ・ブラッドが神々に刃を向けるようなことがあれば殺す。そういう約束のもと、僕は彼に神になることを提案した。けれど彼はそれを拒み、僕に殺意のこもった刃を向けている」
「ヨルムント、もしかしてこうなることを全部知ってて……」
「知ってたわけじゃない。ただ、こうなるだろうと予想していた。それが当たっただけだよ。外れれば、彼を神にしていたさ。予定が元に戻っただけだ。混血の騎士を殺す最初の予定に、ね」
言いながら、ヨルムントは一歩前へ出る。シグルズが向けた槍の穂先が彼の喉元に僅かに触れ、小さな傷口から赤い血を垂らした。
「さあ、混血の騎士よ、復讐の時間だ。思う存分やるといい」
シグルズの目の前で白髪白眼の軽薄な男が笑った。その瞬間、シグルズは槍を握る手に力を入れ、前方へ刃を滑らせた。真紅の鮮血が白い床を染める。
「喉を突いたぐらいで神を殺せると思っているのかい?」
シグルズの後方から、今しがた殺したはずの男の声がする。振り返る。そこには何事もなかったかのように佇むヨルムントの姿があった。
ちらりと後ろに目を向ける。そこには倒れ伏したヨルムントの形をしたものが転がっている。同じような光景に、見覚えがある。
「アーガルズ国王と同じか」
問う。ヨルムントが「そうだよ」と頷く。
「彼の真似事だから、彼の扱う人形ほど出来は良くないけどね。ただ、人形としての役割を果たしてくれればいいさ」
「それは魔法か? それとも魔族のような権能の力か?」
「そのどれでもないよ。僕は神だからね。魔法や権能なんていう命ある者の枠組みの外にいる。人間、魔族、妖精、巨人ができることは大体できるのさ。ついでに言うと魔力炉なんてものも持たないから、きみの権能も無意味だ。魔法は使えるけどね」
ヨルムントは人差し指をシグルズに向ける。指先に魔力を縒り集めると、まるで空気を麻痺させるかのような微細な稲妻がヨルムントの腕に纏わる。
「神の雷だ、シグルズ・ブラッド。受け取るといい」
空気の流れが一瞬ほど凝り固まった。刹那、淀んだ空気を裂いて割るようにヨルムントの指先から雷撃が放たれる。
一発、二発、三発。連射される雷撃を、左右に大きく飛ぶように移動して避けながらヨルムントとの距離を詰める。権能による魔力炉の奪取は無意味、魔法すらも何の役にも立たないだろう。いや、そもそも〈目覚め〉とやらを迎えていないシグルズに、竜神ヨルムントを討つ術はないのかもしれない。それでも、今確実に頼れるのは自身が鍛え上げた肉体と、磨き上げた槍術だけだ。
「うおおおおおおおおおおおおっ!!」
雄叫びを上げ、猛進する。何撃目かも分からぬ雷がシグルズの頬を掠める。頬が焼け爛れ、血が滴る。それに構う事なく大きく床を蹴って槍を担ぐような態勢で引き絞った。
距離を詰められたヨルムントが一歩後ずさる。その顔には未だ余裕が滲み出ていた。ヨルムントの胸元を狙った一撃は的から大きくそれて、床を穿つ。槍が刺さったところからヒビが走る。
シグルズは即座に槍を抜き、追撃せんとヨルムントが躱した方へと顔を持ち上げる。
「っ!? どこだッ!!」
しかし顔を上げた先に白髪白眼の男はおらず、シグルズは思わず叫んだ。返事はなく、僅かな静寂が神殿を包む。
槍を構え、意識を集中させて気配を探る。視線を巡らせて壁や床に同化してしまいそうな白髪白眼を探す。探しているとき、あることに気づいた。
ふと視線を落とした自分の足元、白い床によく映える赤い斑点が幾つも出来上がっていた。直後、胃から何かが逆流する感覚を覚え、思わず口元を押さえる。逆流したそれは喉を刺激し、シグルズは大きく咳き込んだ。喉を通ったそれが抑えた手を濡らす。手は赤く染まっていた。
再び視線を下に落とす。自分の腹部から人の手のようなものが生えていた。いや、生えているのではない。背後から貫かれているのだ。
それを見た瞬間、一気に体から力が抜ける。思わず取りこぼしそうになる槍を軽い力で握りしめる。
「愚かだね。神という絶対的な存在にちっぽけな命が勝てるわけないじゃないか」
その言葉と共に、シグルズの視界が霞む。頭の中はぼんやりと霧が立ち込み始め、ありとあらゆる思考を遮る。
直感的に、死を悟った。
「……死んで――なる、ものか」
視界に映るものはもはや判別することすら出来ない。頭は回らず、自分自身が何を口走っているのかさえも把握できない。腹部の痛みももはや分からない。そんな状態でさえ、シグルズは自身が直感的に感じ取った〝死〟に抗おうとした。
死ぬわけにはいかないと。今ここで死ねば守るべきものを守れないと。
シグルズ・ブラッドは未だ〈目覚め〉を迎えていない。ただの穢れた血の流れるちっぽけな生命体だ。その生命体が本能に赴くままそうしたのかは分からない。分からないが、薄れる意識の中でシグルズの耳に届いたのは竜神ヨルムントの悲鳴だった。
「シグルズ・ブラッド! 貴様、〈目覚め〉たな!?」
声だけが鼓膜を震わせる。
「フェンル! 僕の腕を千切ってくれ!!」
「やっ、やだよ! 自分でやりなよ!!」
「そんなことできるわけないだろ! 僕が本当は酷く臆病なやつだと知っているくせに!! 早くしないと僕自身が消える!!」
「わっ、分かったよっ! やればいいんでしょっ!!」
その僅か後、まるで獣が捕らえた餌を貪るような、生々しい肉の裂ける音がした。シグルズ・ブラッドが世界樹第九階層〈神域〉で最後に聞いたのはその音だった。




