51.お幸せに
湿った空気が肺を満たす。ゆっくり吐き出し、剣先に重なるようにして見える紅葉色の髪の少女を見る。
「あなた、人間だったわりに強いのね」
肩で息をしながらリンファは相対する少女に言う。強がりでしかない一言だった。剣技の角度で見てしまえば、リンファはエルマに圧倒的に劣っていた。彼女の振るう剣は鋭く、重かった。
エルマはその言葉に応えることもせず、飛び退ったリンファを追随する。剣を握る右手を引き絞り、木の葉一枚のブレもなく真っ直ぐにリンファめがけて突き出す。それをリンファは自らの背から伸びる両翼を羽ばたかせて身を翻すようにして躱す。〈竜域〉を覆う背の高い針葉樹をなぞるように、真っ直ぐに上昇する。眼下に広がる大地を瞳に据える。まるで全てが正反対のような紅葉色の髪の少女がリンファを睨み、見上げていた。まるで「降りてこい」と言わんばかりに。
横方向に距離を置くのではエルマはすぐに距離を詰める。彼女の重く圧し掛かるような剣が、リンファを刻まんとするかのように迫って来る。しかし縦方向ならばどうだ、翼をもたないエルマの剣は届くはずもない。ある一つの存在を除いては。
「来たわね」
リンファに真っ直ぐに向けられた緋色の剣。その先から何かが伸びる。その何かはまるで羽虫を集めたかのような気味の悪さを内包していた。そして羽虫のようなその一枚一枚の正体は、それを守るかのように寄せ集まった黒い鱗だった。黒い鱗を纏う長蛇の名は――ニーズヘッグ。ファフニールにとって代わる守護竜だという。そしてそれは、エルマが握る緋色の剣の銘でもある。
ファフニールのような知性を全く感じさせないニーズヘッグは、鼓膜を裂くような金切り声を上げながらリンファに向かって真っすぐに上昇していく。
リンファは異形と化している左手を振り上げる。指先から覗く剣のように尖った爪先がニーズヘッグに向けて振り下ろされる。
ニーズヘッグはリンファのその一撃を避けるような仕草は取らなかった。ただ吸われるように真っ直ぐリンファへと飛翔する。
「……知性の欠片もないのね」
左腕を振り下ろす最中、瞳に映る事実に呆れるようにリンファは呟く。直後、彼女の指先から覗く鋭い爪は見事ニーズヘッグの頭部へと直撃した。しかしそこに衝撃というものはなく、リンファが掻いたものはまるで空気のようだった。いや、実際そうなのだろう。
ニーズヘッグが頭部から崩れると同時に、崩れた鱗片がハラハラと舞いながら散っていく。散っていった先で、何かに呼ばれたかのように重力に逆らい、進行方向を変える。そのまま、エルマ・ライオットの握る緋色の剣へと吸い込まれた。
つまるところ、ニーズヘッグにはファフニールのような実体がないのだ。あくまで本体は彼女の握る炎を模した剣だ。そこに守護竜ニーズヘッグが眠っている、それだけの話だ。
「それが新しい守護竜――ニーズヘッグ、ね。守護竜が聞いて呆れるわ。〈竜の守り人〉が剣を振るわないと何もできないなんて」
見下ろし、エルマの反応を窺う。眉一つ動かさず、彼女はその黄金の双眸でリンファを睨みつけているだけだった。
「〈竜の守り人〉と守護竜は本来、対等な関係であるはずよ。これじゃあまるで、あなたが守護竜の飼い主だわ。まあ、そんなこと言われてもって思うでしょうけど」
依然、エルマはリンファを睨むだけだった。硬く口を結び、しかしその目は何かを訴えるように、リンファの瞳をしっかりと視界に据えていた。
「随分と、悲しそうに私を睨むのね。何がそんなに悲しいのかしら」
その一言に、エルマの眉がぴくりと動く。口が僅かに開く。
「……だってあなたは、私から奪ったじゃないですか」
俯く。腕を脱力し、リンファに切先を向けていた緋色の剣ごとだらりと地面に垂らす。
「誰のことを言ってるのかしら?」
挑発じみたリンファの言葉にエルマは「とぼけないでくださいよ」と声を震わせた。
「あなたが私から先輩を奪っていったんじゃないですか。私が、私の方が先輩のことをよく知っていて大好きなのに。親も兄弟もいなくて、友達も少なかった私にとって、先輩がどれだけ大きい存在だったか、知らないくせに」
「当たり前よ。私はあなたのことを何も知らない。だって、こうしてまともに会話をすることでさえも初めてなんだもの。でもそれはあなたも同じ」
リンファは右手に握る聖剣フロティールの剣先をエルマに向ける。
「あなただって私のことを知らない。私がどんな風に生きてきて、シグルズにどんな言葉をかけてもらって、どんな言葉をかけてきたか。あなたが殺したファフニールが、私にとってどれだけ大切な存在だったか」
リンファはエルマに向けた剣の上で、睨視の線を滑らせた。
もちろん、ファフニールが竜神ヨルムントの謀略によって手に掛けられたことは知っている。もっとも憎むべき相手はファフニールを生み出し、殺した竜神ヨルムントだ。だがそれでも、剣を執り殺したのは紛れもなく眼下にいる紅葉色の髪の少女なのだ。その事実は決して揺らぐことはない。この結果は、彼女自身が選んだ結果だ。
だから、その怒りの視線を彼女に向ける権利をリンファは持ち合わせている。
「私の喪失感に比べれば、あなたのそれなんて可愛いものよ。ただの失恋でしょ? それでこんなところまで来て人の身まで捨てて、バカみたいね」
そんな風に彼女を嘲笑った。リンファの目に映るエルマ・ライオットという人物は本当にそういう風に映っているのだ。嫌悪感を抱いていると言っても過言ではない。
世界樹第七階層〈竜域〉に帰ってくるまで、ファフニールの死を知るまでは「自暴自棄になった哀れな少女」という印象を抱いていた。そんな彼女がファフニールを殺したことで、リンファの中では確実に彼女に対して恨みというものが加わっていた。自分が理性ある者として最低最悪な物言いをしている自覚はあった。それでもリンファは自らの口から飛び出す数々の言葉を止められなかった。
「あなたのような我儘な人は嫌いよ」
リンファは心の底からエルマのことが嫌いなのだ。まるで、シグルズと出会う前の自分を見ているかのようで。死に急いでいるかのような彼女の姿がかつての自分と重なり合って見えるのだ。その様は実に滑稽で見ていて腹立たしかった。自分を連れ出したときのシグルズにも同じものが見えていたのだろうかと、リンファは頭の片隅で考える。
「私もあなたが大嫌いです」
どうやらエルマも同じのようだった。やはりどうしようもない部分が似た者同士のようであるらしい。同族嫌悪というヤツなのだろう。
燃えるような黄金色の瞳がリンファを睨みつけていた。殺意に燃えたその瞳に、リンファは極限まで冷やしたナイフのような視線を返した。
互いに互いを理解し合うことはできそうもなかった。いや、少なくともリンファはエルマのことを知ろうとした。彼女がどうしようもなく向こう見ずで、馬鹿で愚かで一途であるかはこれでもかというほど分かった。それ以上のことはどうにも彼女自身に拒絶されているせいか、知ることすら叶わなかった。
エルマ・ライオットの瞳の中に映っているリンファは「大切な人を掻っ攫った憎い女」でしかないのだ。
本当に馬鹿げた話だ。一人の男のためにここまでする女がいるのかとリンファは思う。しかし目の前に具体例を出されてしまっては、その事実を受け入れるほかないし、こういう手合いは耳に栓でもしているかのように全ての声から心を閉ざす。きっと今の彼女にはシグルズの声すらも届かないのだろう。
彼はエルマを「殺さないでほしい」と言っていた。いや、言っていたわけではないが彼の「殺すのか?」という問いにはそういう意味合いが込められていた。しかしいざ目の前で対峙した彼女はどうだ。嫉妬や殺意を余すことなくぶつけてくる彼女に、手加減などできるのか。
答えは否だ。
リンファは短く息を吸うと背から伸びる翼を一度羽ばたかせ、エルマに向かって剛速球で降下を始めた。聖剣フロティール腰のあたりまで引き絞り、その細い腕が持ちうる力を溜め込む。
エルマが緋色の剣を正面に構えたのが視界に入った。
「ニーズヘッグ!!」
エルマが叫ぶ。再び、緋色の剣からは羽虫を寄せ集めたかのような大蛇が姿を現す。大蛇は先ほどと同様にリンファに向かって直上する。正面から衝突する瞬間、リンファは引き絞っていた腕を放たれる矢のように伸ばした。聖剣フロティールの切先がニーズヘッグの脳天を捉える。
聖剣フロティールと正面からぶつかったニーズヘッグはまた、散り散りになって緋色の剣へと戻っていく。リンファはそのままの勢いで自身の持つ白藍色の剣の切先にエルマの胸元を捉える。
風を切るリンファは矢そのものと言ってもいいほどだった。しかし、剣の切先がエルマの胸元に触れる瞬間、聖剣フロティールを持つ右手に痺れるような衝撃が走る。エルマが一歩ほど後ろに退き、リンファの剣を斬り払ったのだ。それはあまりにも重い一撃だった。
「……っ!」
その衝撃に剣を執り零しそうになりながらも、エルマに跳ね返されるようにして上空へと距離を取る。速度を落とさないようにエルマの頭上を旋回する。
エルマと正面から斬り合うのは悪手だ。リンファには剣の技もなければ重さもない。となれば、速さで勝負するほかないのだ。隙を伺いそこにすかさず飛び込む。魔法の使えないリンファに取れる戦術はそれだけだった。
旋回しながらエルマの様子を窺う。じっと見上げるエルマが突如下を向き、小さく口を動かした。先ほどと同じ攻撃だと踏んだリンファはエルマがニーズヘッグを呼び出すよりも早く急降下を始めた。技は要らない。自分が持つ最大の膂力を右手に持つ聖剣フロティールに注ぎ込むだけでいい。
この一撃で終わらせんとするように、リンファは先ほどよりも速く、エルマへとその剣を突き立てようとした。
エルマまであと少しのところ、その進行を何かが遮った。
「なにっ!?」
重心を背に乗せ、翼を何度も羽ばたかせて急停止する。
目の前はまるで夕焼けのように赤かった。いや、目の前だけではない。リンファを囲むように赤い何かがゆらゆらと揺らめいている。上も下も、右も左も塞がれている。
吸い込む空気が熱い。額にジワリと汗が滲む。
炎だ。炎が球状にリンファを囲んでいる。炎の檻の中にリンファはいるのだ。
なぜ、何がどうなってこうなっているのか。そんなことを考えるよりも先に、炎の向こう側からエルマの嬉しそうな声が聞こえた。
「魔法って便利なんですね」
「魔法って……あなたもともと人間でしょ!? なんで魔法が使えるのよ!!」
「〈竜の守り人〉になったら魔法が使えるようになると、ヨルムントが言っていました。こんなに便利なものだとは知りませんでした。おかげであなたが殺せます」
炎に遮られて見えない向こう側で、紅葉色の髪の少女が笑っている気がした。
リンファにとってこれは非常に良くない状況だった。いや、良くないなんてものではない。最悪の状況だ。
魔法があればこの炎の檻もなんとかできただろう。しかしそれは叶わない。強行突破でもしようものなら焼け死んでお終いだ。向こう側が見えないほどの炎となると、それぐらいの厚みはあるだろう。かといって、ここで何もしないままでは蒸し焼きになって死んでしまう。
八方塞がりの状態だった。
「あなたもニーズヘッグの餌食にしてあげます。大好きな邪竜とお幸せに」
声の直後、ふっ、と炎が消える。明るさに焼かれた目が今まで見ていたものとよく似たものを捉える。炎のようにうねる緋色の剣――ニーズヘッグ。エルマが握ったその剣がリンファの胸元に届かんとしていた。躱す余裕も時間もなかった。目の前の事象を受け入れるしかなかった。
そのとき、エルマの握る魔剣ニーズヘッグがリンファの心臓を貫いた。




