05.お前ならどうする?
自分だったらどのような選択をするのだろうと、男は考える。
「先輩、考え事ですか?」
世界樹第五階層〈アーガルズ〉――兵団宿舎、食堂。
匙で意味もなくコーヒーをかき混ぜながら、昨日〈竜の守り人〉に問われた質問について考えていた。
――あなただったらどうするの?
自分だったら、彼女の処遇をどうするのだろう。
「先輩? 聞いてますか?」
殺しはしないと判断した。流れる血は少ない方がいいと。それはなんというか、とても偽善的な考えではなかろうか。この偽善的な自分は、彼女を――〈竜の守り人〉の血が流れることを、死ぬことを拒んでいるように思える。別に、処刑反対派のように神々を黙らせるためのカードとして、彼女を生かすという意見を持っているわけではない。完全な主観的判断だ。その判断は騎士として、〈アーガルズ〉に住まう人間として、間違った判断のように――。
「シグルズ先輩」
ぺちっ、と音がした。コーヒーをかき混ぜる手を止める。シグルズは、音を立てた上に軽い痛みを走らせた額を押さえる。そして痛みを生んだ張本人に一言。
「上官に暴力は良くないぞ、エルマ」
「食事中に人の話を無視して呆けてる先輩が悪いんです」
目の前に座る、紅葉色の癖毛の少女がむくれた顔をしていた。
「あー……何の話だったか?」
再び、意味もなくコーヒーをかき混ぜ始める。
「だから、今週末ご飯に連れて行ってくれるって言ったじゃないですか。それで――」
「どこか行きたいところでもあるのか」
尋ねると、エルマは深く深く頷いた。
「えと、この前開店したばかりのケーキ屋さんがあって、その、恋人割っていうのがあって、男女二人組で行くとちょっと安くなるんですけど……」
頷いたまま下を向いて説明しだす。最後に顔をあげてちらりとシグルズに視線を向ける。
「恋人役をやってほしいってことか」
その視線が言わんとしていることを汲みとったシグルズは、意味もなくコーヒーをかき混ぜる手を止めてそう言った。
「やってほしいというか、まあ、はい、そんな感じです」
なぜかそっぽを向く。
「そういうことなら別に構わないが」
彼女がケーキ屋に行きたいと言ったことに、正直驚いた。
エルマとは騎士訓練校時代からの付き合いだ。放課後にご飯を食べに行くことは多々あったが、ケーキ屋だったりクレープ屋だったりといった、如何にも女の子が行くであろう場所には行ったことがなかった。彼女との外食は決まって、油分多めの肉料理が評判の安い定食屋だった。彼女の口からケーキ屋なんて愛らしい響きを聞いたことがなかったし、どうせまた安くてボロい定食屋にでも行くのだろうと思っていた。
思えば、彼女が訓練校を卒業して、部下となったときには学生時代より少し変わっていたかもしれない。ボサボサで長かった髪は短くなって、ボサボサの原因だった癖毛が今では似合っている。口調も学生時代はガサツだったのに、今となっては礼儀正しい女の子のそれである。
「お前に、そんな女の子らしい一面があるとは思わなかったな」
というのが、そんな現在のエルマに対する率直な感想である。
「バカにしてるんですか?」
それを聞いたエルマは再び不機嫌そうに頬を膨らませた。
そんなつもりはないさ、と笑って「それじゃあ週末はそのケーキ屋に行こうか」と話題の結論を出した。エルマもそれに元気のいい返事をして、話題に蓋をした。
「ところで先輩――」
冷めたコーヒーを啜っていると、エルマが次の話題を振ってくる。
「さっき、何を考えてたんですか?」
問いを投げてパンを一齧り。咀嚼して飲み込んで――。
「随分と難しい表情をしてましたが」
言葉を重ねる。
「もしかして、〈竜の守り人〉のことでなにか悩みでも?」
黙り込むシグルズに、エルマは更に質問を重ねた。
「まあ、悩みといえば悩みだ」
シグルズは残りのコーヒーを一気に飲み干し、一つ咳払いをする。視線を真っ直ぐに目の前に座る紅葉色の癖毛の少女に向けた。
「彼女に――〈竜の守り人〉に『お前なら自分の処遇をどうするのか』と問われた。俺は殺すことはしないだろうと、流れる血は少ない方がいいだろうと答えた。だが今になってその答えが、偽善的なものに思えたんだ。如何にも善人がましい空想論のような。アーガルズ兵団の人間として、竜狩りの騎士として、この判断は間違っているように思う」
そして最後に、付け加えるようにエルマにこう問うた。
「エルマなら、彼女の処遇をどうする?」
エルマは頬杖をついて考え込むように視線をシミのついた天井に向ける。顔のような模様が一つ、一緒に首を持ち上げたシグルズを見つめていた。
「私は……あまり殺したりとかそういうのは好きじゃないです」
エルマは俯き、そう答える。
彼女も自分と同じ考えなのだろうか。そう思ったシグルズは自分の考えが異質なものでないことに胸を撫で下ろして――。
「でも」
胸を撫で下ろす手を止めさせるように、エルマが続けた声がシグルズの思考を遮る。
「百二十七人の同胞が死んでいます。彼女に殺されています。その報いとして、お前が罰を下せと上官に命令されれば、私は剣を執ります。私は――誇り高きアーガルズの騎士ですから」
エルマの回答に、シグルズはどこか沈むような声で「そうか」と返した。
「これが――〈竜狩り騎士団〉に所属する、騎士エルマの答えです」
「……俺は騎士失格だな」
まるで諭されている気分だった。自分より年下の、自分を慕ってくれている後輩にここまで言わせるとなると、騎士として、先輩として失格だ。
「〈竜の守り人〉に、情が移りましたか?」
エルマの質問には答えなかった。代わりに出てきたのは数々の言い訳の言葉。世界樹第七階層〈竜域〉に行ったときは殺すつもりだったとか、人間と似たり寄ったりな容姿だとは思わなかっただとか、ましてや自分より年下の少女の姿をしていると思わなかっただとか、乱雑に並べられたそんな惨めな言い訳が、質問の答えの代わりだった。
そんな惨めな先輩騎士を、エルマは微笑って「先輩らしいですね」と称した。
「それはきっと、先輩が一人の誇り高き騎士である前に、一人の心ある人間であろうとしているからなんだと、私は思います。混血の先輩なら特に、人間以外の種族に対して、そういう思いを抱きがちなんだと思います」
別にそれはおかしなことじゃないですよ、とエルマはやはり微笑んでいた。
「人間になりきれなかった男だからこそ、人間であることを辞められないというのは、とんだ皮肉だな」
「皮肉ですね。でも、私は先輩のそういうところはいいと思いますよ。それで――」
エルマが一呼吸置くと机に手を突き、身を乗り出した。
「実際のところはどうなんですか?」
口を隠すようにしてシグルズに耳打ちした。
「午後からまた会議なんですよね?」
「……ああ」
小さく頷く。
「現状、意見は割れている。殺して戦火に油を注ぐか、生かして戦火に水を注ぐか。どちらにしろ、〈人神大戦〉が鎮火する結果は訪れないだろう。今のところ、兵団長ラウラサー殿が処刑派、騎士団長バロック閣下が反処刑派だ。俺としては騎士団長閣下の意見が通ると思いたいが、今日の会議にはアーガルズ国王陛下がお見えになられる。陛下のご意見次第で会議の結論はいくらでも変わるだろう」
「国王陛下が、ですか」
「ああ」
エルマが顔を顰める。
アーガルズ国王は人ではない。とはいっても、完全に人ではないとも言い切れない。
つまり、アーガルズ国王はシグルズと同様に〈混血〉なのだ。魔人の父親を持ち、人間の母親を持っていた。当然、父親から魔族が当たり前に持つ権能を受け継ぎ、魔法も容易に扱うことができる。その力で、この世界樹第五層〈アーガルズ〉に君臨した覇王。それが、アーガルズ国王その人だ。
そして彼は、その蛮勇さに見合った傲慢さと、狂気を纏う人物でもあった。その畏れ多さにアーガルズの人間は黙って彼を見上げていた。逆らえば何をされるか分からない、畏怖の対象なのだ。誰だって自分の命が惜しい。
先の侵略戦争でも、アーガルズ国王が自ら先陣に立ち、兵団や騎士団を率いた。その様子に、侵略を受けた〈妖精国アルヘーム〉や〈巨人国リートニア〉は彼を〈狂王〉と称した。その呼称はなんの誇張もなく、真実である。多くの命を奪い、蹂躙し、嗤った。
端的に言うとアーガルズ国王は、狂っているのだ。
「陛下のことだから何を言い出すか分からない。ただ殺すだけでは面白くないと言うかもしれないし、拷問に拷問を重ねたうえで苦しみ殺せと言うかもしれない。国王陛下が『会議に顔を出す』と決心なさった時点で、会議は会議としての体裁をなさなくなった。碌な会議にならんだろうな」
シグルズは深いため息を吐いた。
国王が兵団の会議に参加する――つまりはその会議の結論は国王に委ねられるということになる。国王が殺せと言えば殺す、生かせと言えば生かす。権限的に国王に逆らえる者はいないし、逆らえばどうなるかなど、五歳の子どもでも心得ている。
「……先輩の望む結果になるといいですね」
「そうなるといいがな」
エルマが立ち上がる。空になった食器の乗った盆を持ち上げると「私は鍛錬に戻ります。会議、頑張ってください」と言い残して食堂を出て行った。
揺れる紅葉色と彼女の後姿を眺めながら、シグルズは再び長いため息を吐く。
「……何を頑張れというんだか」
そんな愚痴を零して、シグルズも盆を持って立ち上がった。