49.神の茶会①
目の前で揺れる新緑色の髪を眺める。
地神フェンル。世界樹を作った神の一柱であり、〈人神大戦〉における人間の敵である。そんな彼女はなぜか、シグルズに対して友好的に接してくれていた。
道すがら、フェンルはシグルズに自分のことを話していた。好きな食べ物だとか、好きな色だとか、今日はあまり天気が良くないねだとか、ありきたりな、それでいて会話に困っているときに出てくるような話題ばかり。
そんな話題も尽きたのか、少し前からは喋らなくなった。別にシグルズにとっては、神がなぜそんなに親しげに話してくるのか分からないし、正直なところ不気味に感じていた。だから、こうして無言で歩いている方が気分が楽だった。
長く生命力を感じさせるその髪は、緑色の髪だった母を思い出させる。母に比べれば随分と淡く、優しい色合いだが、それでも自然を思わせる緑色に、なぜか思い出の中にしかいないシアナ・ブラッドの姿を重ねていた。
そんな眺めていた髪が、まるで重力に抗うように、空間に取り残されるようにふわりと浮く。地神フェンルの身体が前のめりになる。「わっ」と短い悲鳴。
世界樹第七階層〈竜域〉の大地は湿り、場所によってはぬかるんでいる。とてもではないが、歩きやすい場所ではない。折れた枝やら小石やらも転がっている。転べば怪我をする。
「……大丈夫か」
反射的に、シグルズは鼻から地面に衝突しかけていたフェンルの腕を掴んでいた。自分でも何をしているのか分からない。ましてや、神を助けるなんてもってのほかだ。しかし、そんなシグルズの心中を知らず、引き上げられたフェンルは〈竜域〉の陰鬱な湿気を吹き飛ばすかのような笑顔で「ありがとう」と礼を告げた。
シグルズは顔を逸らし、それを無視した。
「シグルズくんはエルマちゃんが言ってた通り優しいんだね」
再び歩き出したフェンルがそんなことを言う。
「エルマと、何か話したのか?」
シグルズが問うとフェンルは「うん」と頷き、新緑色の髪を揺らして振り返る。
「色々と教えてもらったよ。エルマちゃんが愛している、きみのこと」
含みのある言い方だった。まるで全てを見透かしたかのような言葉選びだった。そんな様が、人間を滅ぼそうとしている神様然としていて腹立たしくなった。
「お前にエルマの何が分かる」
苛立ちを込めた言葉は、自分の中にある後悔を逆撫でした。
エルマに何も言わず行動を起こしたこと、彼女の気持ちに気づいてあげられなかったこと、彼女を置き去りにしたこと、彼女の気持ちを無下にしたこと、彼女に声を掛けられなかったこと、その全ての後悔が逆撫でされ、自分自身に対する怒りと呆れに姿を変えていた。
エルマとは長い付き合いだったはずだ。だから彼女のことは自分が一番よく知っている――いや、彼女と仲の良かったソフィアのことを考えれば二番目かもしれないが、ともかくよく知っていると勘違いしていた。実際そんなことはなく、彼女のことを何一つ理解できていなかったのだ。
エルマと多少言葉を交わした程度で知ったような口を利くこの神が、シグルズは許せなかった。真に許せないのは自分自身だと知りながら。
「知ったような口を利くな」
そんなシグルズの言葉にフェンルは首を横に振った。
「何も分からないよ。何も分かってあげられない。悲しみも後悔も嫉妬も羨望も、愛でさえも。その心に抱える感情はエルマちゃんだけのものだもの。誰かが理解してあげようなんて簡単にはできない。ましてや、あたしみたいな世間知らずの神ならなおさら」
そう言葉を顕わにするフェンルの背は、どこか悲しそうに見えた。
その背がシグルズに「この少女は本当に神なのか」という疑問を抱かせた。
シグルズの知っている神は竜神ヨルムントのただ一柱だ。彼の冷徹な声や瞳に、かつて見た両親を殺す姿がその冷徹さに拍車をかけている。極端な話、神というのは人間の心を何一つ理解せず理解しようともせず、ただの実験対象のように見ているのだと、そう思っていた。
しかし地神フェンルはエルマと少ない言葉を交わし、彼女に寄り添おうとしたのだろう。その結果、「何も分かってあげられない」と答えを導いた。その様は、その後悔の背は、まるで今の自分自身を見ているかのように思えたのだ。
いや、もしかしたら自分は地神フェンル以下なのではないかとさえシグルズは思う。彼女はエルマに寄り添う努力をした。しかし自分はどうだ。寄り添おうとしたのか、理解しようとしたのか、彼女の言葉を聞こうとしたのか。答えは全て否だった。
「……エルマは、俺のことを何と言っていた?」
だからシグルズは彼女の心に向き合おうことにした。知ることにした。自分のことを大好きだったと言い、大嫌いだと言った彼女の本心を。
「……〝優しすぎる人だ〟って言ってたよ。初めてお洒落してシグルズくんと出掛けたときに褒められてすごく嬉しかったって。その話をするときのエルマちゃん、微笑ってた。エルマちゃんは自分の恋に正直だった」
「……そうか」
そんなことを今更聞いて、知ってどうするつもりだと、シグルズの心の中で誰かが言う。そうだ、今更だ。あまりにも遅すぎる行動だ。だが、彼女の気持ちから目を逸らすことだけはもう許されない。彼女自身と一度正面から向き合わなければならない。
シグルズは足を止める。消えた足音にフェンルが振り向く。
「道案内をしてもらっているのにすまない。俺はエルマのところに行かなくてはいけない」
その言葉に、地神フェンルは優しく微笑んだ。まるで「行ってらっしゃい」とでも言うように。
その反応に「ありがとう」と告げようとシグルズが口を開いた、そのときだった。
「僕と話をするのがそんなに嫌かい?」
聞き覚えのある声がした。冷徹で、慈悲を感じさせない吹雪のように冷たい声。声の主はシグルズとフェンルを裂くように、二人の間に降り立った。
白い瞳がシグルズを見る。そして竜神ヨルムントはにっこりと笑った。
「久しぶり、〈混血〉の忌子よ。きみに復讐の機会を与える前に、僕と少し話をしよう」
ヨルムントの申し出にシグルズは首を横に振った。「断る」と短い言葉で拒絶する。
「きみは僕と話したくはないかもしれないけど、僕はきみと話したいんだ。だからフェンルに頼んできみを世界樹第九階層〈神域〉に連れてこさせようと思ったんだけど――」
ヨルムントがちらりとフェンルの方に振り向く。その視線にフェンルは「あたしは……」となにか弁明の言葉を探しているようだった。
「別に、フェンルを責めたりはしないさ。フェンルは優しいからこうなることは想定していた。だからちょっと無理矢理連れて行かせてもらうよ」
ヨルムントが指を鳴らす。
その瞬間、シグルズたちを囲んでいた景色が一変した。背の高い針葉樹は消え、空気を重くしていた霧もない。足元は大理石の板が敷き詰められ、見上げた空には高い高い天井が広がっていた。
その変わりように驚愕するシグルズに、ヨルムントは「驚かせてすまないね」と詫びを入れる。部屋の中央に設けられたテーブルの元まで歩くと、周りに並べられた四つの椅子の一つに腰かける。足を組み、シグルズの方に視線を向けると口を開く。
「ようこそ、世界樹第九階層〈神域〉の神殿へ。神の茶会を始めようか」
そう言ったヨルムントはにっこりとほくそ笑んだ。




