48.新たな竜の守り人
大きな翼を羽ばたかせながら、一隻の方舟が湿った大地に着陸する。その〈方舟〉から飛び降りたリンファは、裸足のまま腐りかけの落ち葉の混ざった土を踏む。久々に感じる柔らかな足触りに、リンファは胸を躍らせる。
空を見上げる。〈方舟〉に乗って飛んでいるうちに夜は明け、空は薄鈍色の雲に覆われていた。そして、陽光がないせいでただでさえ暗い世界樹第七階層〈竜域〉は、背の高い針葉樹が空を覆い隠してぼやけた影を大地に落とし、空から届く僅かな明るささえも遮っていた。
「リンファ」
声を掛けられ、はっと我に返る。後ろを振り向く。
「……分かっているわ。エルマを探すのが最優先でしょ」
別に、ここに来た目的を忘れたわけではない。まあ一口に目的と言ってしまうといろいろあってどれのことだと突っ込まれかねないが。
もとはと言えば、シグルズはリンファを世界樹第七階層〈竜域〉に送り届けるために動き、その最中で――おそらく〈竜域〉に向かったと思われるエルマ・ライオットを捜索することを目的としている。バロックやラウラサーからしてみれば、さらに神々を討ってきてほしいと思っているかもしれないが、リンファにとってそこは関係ない。
「探すと言っても、すぐに見つかると思うけどね」
リンファにとってエルマは話したこともない赤の他人だ。今こうして彼女を探さねばならない状況を、多少なりと迷惑に感じている。
「そんなにすぐに見つかるのか」
横まで歩み寄ってきたシグルズが言う。
「ええ」
リンファは目を閉じる。
その力のことを、リンファはあまり意識したことがなかった。それは生まれつきできたことで、何か特別なものであることなど、知る由もなかったのだ。
「……あっちよ」
十秒ほどだっただろうか。目を開いたリンファは右を向き、先に一人で歩き出す。急いでシグルズが後を追いながら、「どういうタネがある?」と尋ねた。
「世界樹第三階層で、〈竜の守り人〉は生物学的には魔族と変わりないと聞いたわよね。つまり、私も権能を使えるってこと。私の権能は簡単に言えば邪竜ファフニールの力の一端を引き出すこと。生命体の頂点、全知の存在であるファフニールの力を引き出せば人間一人を見つけるぐらいは容易いことよ」
結構疲れるからあまりやりたくないけどと付け加えながら再び目を閉じる。かつては権能だと思って使っていなかったが、人間に囚われる前はよくこの力を使って野生動物を捕まえていたなと思い出す。あれはたしか、ファフニールに言われてだったか。今思えば、権能を使う訓練をさせていたのだろう。
そう考えながら歩くリンファはぴたりと足を止める。
「どうした」
立ち止まるリンファにシグルズが問う。それにリンファは答えることなく、エルマの居場所を探す。探すと言うと正確ではないのかもしれない。感じ取る、これが正しい表現の仕方だろう。
目を閉じたまま感覚を研ぎ澄ます。〈竜の権能〉の力を最大限発揮する。耳を欹て、空気の流れを肌で捉える。
「……動いている?」
リンファが感じるそれは、少しずつ近づいていた。まるで木の陰に隠れながら、身を潜め、息を潜めるようにして――。
「……! シグルズ! 後ろ!!」
叫んだ。
シグルズは反射的に振り向く。その瞳に、見慣れた紅葉色の癖毛が映った。彼女が右手に持つ炎の揺らめきによく似た形をした赤い剣が、シグルズの頬を掠める。
「エルマッ!!」
彼女から距離を取るように飛び退り、名前を叫んだ。不意の一撃を躱され、そこに立ち尽くす彼女の肩がぴくりと動く。
エルマの様子はシグルズの良く知るそれとは大きく異なっていた。見慣れた兵服ではなく、黒い装束に身を包んでいる。まるでリンファと対照的なその出で立ちに、どこか浮世離れしたものを感じた。
「……お久しぶりです、先輩」
揺れる前髪の奥から、黄金色の瞳がシグルズを睨んでいた。その目も、先ほどの攻撃も、シグルズが知り得る限り最大の殺意が籠っていた。
横ではリンファが聖剣フロティールを構えて、まるでエルマの動きを見張るように彼女に視線を貼り付けていた。
「エルマ、どうしてここにいる?」
シグルズが問う。
「そんなこと、先輩なら分かっているんじゃありませんか?」
「……なぜ、俺に刃を向けた?」
「こうするしかないからです。私はもう、人間じゃない。〈竜の守り人〉になったんです」
エルマのその言葉に、彼女を見つめて動かなかったリンファが僅かに動揺し、構える剣先が揺れる。
「……〈竜の守り人〉になったって、どういうこと?」
「言葉のままですよ。ファフニールを、私が殺したんです。そして竜神ヨルムントによって私は〈竜の守り人〉にされた」
エルマが右手に持つ真紅の剣を真っ直ぐに掲げる。
「だから私は、自分の背負ってしまった使命を果たします。侵入者である混血の騎士と――なんと呼べばいいんでしょうか、竜の魔女と呼べばいいんですかね。私は二人を殺します」
だから、と続けて真っ直ぐに剣の切先をシグルズに向ける。
「さようなら、先輩」
刹那、エルマの握る剣の先から何かが放たれる。小さな羽虫でも寄せ集まったような、まるで蛇のようにうねるそれは真っ直ぐにシグルズに向かっていく。
槍に手を掛ける。構える。得体の知れない何かを迎え撃とうとする。
「炎よ」
呪文を唱え、槍の穂先に炎を灯したそのときだった。
蛇の行く手を阻むようにリンファがシグルズに背を向けたのだ。いつの間にかリンファの左手は鋭い爪を蓄えた竜の手に変異し、その背からは禍々しい翼を生やしていた。
リンファは左手を下から振り上げる。その軌道は見事蛇に命中し、まるで霧に溶けるように空中に霧散した。
「エルマの相手は私がする」
リンファが静かに言う。
「待て、お前がエルマと戦ってどうするつもりだ」
「彼女はファフニールを殺したといったわ。私の大切なファフニールを。だったら、仇討ちぐらいしたって許されるでしょう?」
「殺すのか?」
シグルズが問うと、リンファは少し間を置いてから、「善処するわ」と言い残し、その翼を羽ばたかせて一直線にエルマの方向へ飛んで行った。直後、金属同士がぶつかり合う音が〈竜域〉に木霊する。
後を追うために足を前へ動かそうとした、そのときだった。
背後に一つの気配を感じる。ぱきりと枝の折れる音がする。
他にも自分たちの命を狙う存在がいるのかと思ったシグルズは槍を片手に握り、身を回すと同時にその気配へ向けて槍の穂先を滑らした。
「きゃっ!?」
振り返りざま、気配が発した声はまるで拍子抜けするような、シグルズの緊張感とは正反対な可愛らしい声だった。
その声に反射的に腕を止める。槍の穂先は、そこにある人影の肩の少し横で静止していた。
「ごっ、ごめんなさい! 驚かせるつもりはなくって、あ、それとあたしには戦う意思もなくって、そっ、そういえば自己紹介がまだだったよね!」
よほど驚いたのか、震える声で人影は――いや、新緑色の髪の少女は謝ったり弁明したりしていた。そして彼女が名乗った名前に、シグルズは目を丸くした。
「あたしは地神フェンル。三柱いる神のうちの一柱だよ」
地神フェンル。大地を作り、世界樹の苗を植えたとされる創世神の一柱。つまるところ、人間の敵である。
シグルズは一度槍を引っ込めると、両手で握り直し、その穂先を地神フェンルに向けた。戦う意思はないと言うが、相手は神だ。油断ならない相手だ。
「えーっと……そんなに敵意むき出しにされちゃうと、あたしもちょっと傷つくなぁ。まあでも、仕方ないよね」
そう言ってフェンルは、悲しそうに笑った。
その表情はまるで、人間がするような表情だった。シグルズは己の緊張感は解かず、彼女に向けていた槍を引く。
「俺に何の用だ」
荒々しく問う。
「竜神ヨルムントがシグルズくんと話したいみたいで、迎えに来たの。ついてきてくれる?」
「竜神ヨルムントが?」
シグルズが聞き返すとフェンルは頷いた。
つまりは竜神ヨルムントが自分に会いたがっているという事実に、シグルズは会って一体何を話すのかと彼女の誘いを訝しんだ。今更、ヨルムントが何を言おうというのか。
しかし、バロックやラウラサーの頼みもある以上、ここで断ることはもしかしたら〈人神大戦〉を引き延ばす行為だ。全てをここで終わらせることができるならば、今ここでヨルムントに会ってしまい、神を討ってしまった方がいい。今目の前でニコニコとしている地神フェンルも、隙を見て討ち滅ぼそう。
「……分かった。案内してくれ」
承諾すると、フェンルの顔はまるで大輪が咲いたかのように明るくなる。
「ありがと! それじゃあこっち! ついてきて!」
フェンルがシグルズの腕を掴む。彼女に引っ張られるようにしてシグルズは〈竜域〉の奥へと歩を進める。




