47.愛に溺れる
「ねえ、エルマちゃんの好きな人のこと、教えてもらってもいい?」
ベッドの上、横に腰を掛けて微笑みかける地神フェンルに、「どうしてですか?」とエルマは問いを返す。
「あたしね、女の子と恋のお話をしてみたかったんだ」
恥ずかしそうに新緑色の髪を指にくるくると巻き付けながら言う。
「あたしたち三神はね、それぞれ命が生きる上で大切なものを司っているの。竜神ヨルムントは強さと志、空神ヘイルは自由と安らぎ、そしてあたしは愛と希望」
エルマの横に座る彼女が、物憂げに天井を見上げる。再び口を開く。
「ヨルムントは強くて、それで今も大事な仕事をしてる。ヘイルは……怠け者だけど、自由に空を漂って、世界樹を見守っている。でもあたしは、ずっとこの〈神域〉でヨルムントのお仕事を眺めてるだけ。愛と希望の女神をできてないの。本物の愛を知らないから」
フェンルが自嘲気味に微笑む。
これまで彼女と会話して、神々と会話してエルマは一つの気付きを得た。彼女らは人間とよく似ているのだ。人間のように笑ったり安堵したり、怒ったり呆れたりする。感情を持っている。
現にフェンルがその胸の内をエルマに吐露している。まるで悩みを抱えた人間のように。
「神様でもそんなこと考えるんですね」
「あたしたちにも感情はあるからね。いや、多分逆かな。あたしたちがそうだから、人間も喜怒哀楽の心を抱いている。人間は神々に似せて作った生き物だから」
そうなのかと思いながら、頭の中でフェンルの頼みを復唱する。好きな人のことを教えてほしい。自分のことも、自分の交友関係も知らない相手にこれを話すのはさして難しいものではない。ないはずだ。しかし今のエルマにとっては少々話し難い話題でもあった。
「……彼は優しすぎる人でした」
だからエルマは、主観を捨て、自己の感情を捨てて自身の知り得るシグルズ・ブラッドのことをそう簡単に説明した。それで済ませるつもりだった。
横を見る。フェンルが膝を抱え、その上に頬を乗せて話の続きを待つようにエルマを見ていた。それに流されるように、エルマも次の言葉を探していた。
「先輩に出会ったのは騎士訓練校に通っているときでした。あのときの私は今よりもっと粗暴で、女の子らしくなくて、剣の振りも乱れに乱れていて、とても騎士になれるような人間じゃなかった。強くなれる人間じゃなかった。そんなときに声を掛けてくれたのが先輩でした。夕暮れどき、初めて会ったときは、あまりにもお粗末な剣の振り方に居ても立っても居られなくなって、声を掛けてくれたんだと思います。剣の振り方を、力の入れ方を、抜き方を、教えてもらいました。気がつけば先輩とご飯にも行くようになって、私は先輩に惹かれていました。
ある日、人生で初めてお洒落らしいお洒落をしたんです。髪を切って、可愛い服を着て、お化粧をして、先輩と二人で出掛けました。そのときの私に先輩は「似合っている」と言ってくれたんです。あのときは嬉しかったなぁ」
まるで思い出を確かめるようにそのときの声を頭の中で再生する。頬が緩む。あのあとどうしただろうか。記憶が随分と曖昧だ。どこか綺麗なお店で昼食を取ったような、そうではなかったような。
「エルマちゃんはそのままでも可愛いけど、笑うともっと可愛いんだね」
フェンルがエルマの方を見ながらにこやかに笑う。「そんなことないです」と、照れ隠しのようにエルマはそっぽを向いた。
「やっぱり、誰かを好きになる気持ちは人を幸せにするんだね」
耳に届いたフェンルの言葉が、エルマの心に引っかかる。果たして本当にそうだろうか。誰かを好きになる気持ちは、本当に人を幸せにするのか。
「そんなことないですよ」
答えは否だった。
「好きな人が振り向いてくれないのは辛いです。ずっとずっと、心が苦しいです。痛いんです。そうやって先輩に想われている〈竜の守り人〉に嫉妬して、私の心はどんどん醜くなっていく。挙句、どこの馬の骨とも分からない怪しい占い師に唆されて、今ここにいます。愛に生きようとした人は、愛に溺れるんです。それで息ができなくなって、水面に手を伸ばして、足掻いて、もがいて、それでもどんどん沈んでいって。最後には人ですらいられなくなってしまう」
少しずつエルマの声音が小さくなっていく。こぶしを握る。その手の中にはどうしようもなくなってしまったがゆえに生まれた後悔が握りしめられていた。
「……唆したのはヨルムントが悪いよ。だって彼は、エルマちゃんの気持ちを利用しようと――」
「でも選んだのは私です。私がこの状況を選んだんです。だから私は――」
言いかけたとき、部屋の扉が三度叩かれる。「開けても大丈夫かい?」と竜神ヨルムントの声がする。エルマが「どうぞ」と返事をすると、ゆっくりと扉が開く。白髪白眼の男が姿を現す。
「僕は事実を伝えるだけだ。どうするかはエルマ、きみ次第だ」
そう前置きをして、一つ咳払いする。
「混血の騎士とリンファが世界樹第七階層〈竜域〉に訪れた」
ヨルムントは険しい表情を浮かべながらも、そのどこかに余裕を抱えていた。まるでそうなることを知っていたかのように。
事実を受け、フェンルはヨルムントからエルマに視線を移す。そこに居たのは、先ほど朗らかに笑っていたエルマ・ライオットではなく、〈竜の守り人〉としてのエルマ・ライオットだった。その表情は険しく、瞳の奥には炎が燃えているかのようだった。
「もう一度言うが、どうするかはエルマが選ぶといい。事が終わるまでここで待つもよし、彼らの元に向かうもよし。僕もフェンルもきみの意見に反対も賛成もしない」
エルマは少しだけ考える。先ほど言いかけた言葉を頭の中で復唱し、そうするしかないと結論付ける。
愛に生きるものは愛に溺れ、やがて呼吸ができなくなり、人ですらなくなる。そう言ったのはエルマ自身だった。自分が自分に向けて放った言葉だった。だから今のエルマはきっとすでに、人としての心など持ち合わせてはいないのだろう。そうでも思わなければ、心が潰れてしまう。自己嫌悪と後悔と嫉妬で、おかしくなってしまう。
美味しいものを食べても、友の励ましを得ても、剣を振るうだけでも、その感情を処理できなかった。ならば最後の手段だ。これしか手がないのだ。きっとこれは、仕方のないことなのだ。
エルマは立ち上がる。小さく息を吸い、ヨルムントの瞳を真っ直ぐに捉える。
「私は行きます。シグルズ・ブラッドと、リンファを殺します」
それだけ言い残し、ベッドに立てかけられた真紅の剣、ニーズヘッグを右手に持つと、振り返ることなく部屋を後にした。
「あたしもいく」
エルマが出ていった扉を見つめながらそう申し出たフェンルに、ヨルムントは「ダメだ」と即座に否定した。
「フェンルには別の仕事を頼みたい」
「……仕事?」
フェンルが問い直す。ヨルムントは頷き、「シグルズ・ブラッドを世界樹第九階層〈神域〉に連れてきてほしいんだ」と淡々と答えた。
それはつまり、シグルズ・ブラッドを殺すと言ったエルマの感情を無下にする行為だ。それだけはフェンルは頷くわけにはいかなかった。
ヨルムントの胸倉を掴み、「ふざけないで」と静かな怒号を浴びせる。
「どこまでエルマちゃんの気持ちを踏みにじれば気が済むの」
「待て、そう慌てるな。ただの戦力の分散だ。エルマ一人じゃ混血の騎士とリンファを同時に相手するのは無理がある。僕は彼女をまだ死なせたくない」
「……死なせたくないんじゃなくて、死なれたら困るんでしょ?」
フェンルはため息とともに、ヨルムントの胸倉から手を放す。「分かったよ」と彼の頼みを渋々承諾する。
「私は、エルマちゃんに死んでほしくないだけ。ヨルムントのやり方には賛同していない。目的が一致してるから、手を貸すだけ」
それじゃああたしは行くからと部屋を出る。荒々しく扉を閉める。
それを見送ったヨルムントはまるで体に錘をつけたかのようにベッドに座り込んだ。
「……世界樹を守るためなんだ。分かってくれ、フェンル」
そう呟いて、長い長いため息を吐いた。




