46.地神の憤り
世界樹第九階層〈神域〉は、世界樹の最も上、陽光を一身に浴びる場所にある。そこに降り立ったエルマは目の前に広がる光景に息を呑んだ。〈神域〉は世界樹を作った神々の居住地だ。きっと豪勢な建物に住んでいるんだろうと思ってはいたが、その想像をはるかに超える光景がそこにはあった。
純白の神殿。大きさは、丸々アーガルズの首都が埋まってしまうぐらいに見える。門へ続く道の傍らには見たこともない綺麗な花が花道を作り上げ、舞う蝶がエルマを出迎えているかのようだった。
「こっちだよ」と言うヨルムントについて歩き、神殿に入ると左側に見える階段を上った先にある扉の方に案内された。扉も真っ白で特別な意匠はない。一見質素にも思えるが、逆に飾り気のない様が高級感を醸し出している。
「ひとまず、ここがきみの部屋だ。中でゆっくりするといい」
ヨルムントが扉を開ける。エルマが足を踏み入れる。
「今、着替えを用意させるから少し待っていてくれ」
分かりましたと答えて、ヨルムントが扉を閉めるのを見送る。静かに扉が閉められると振り返り、部屋の様子を確認する。扉があるのとは反対の壁は全面ガラス張りで、これでもかというほど日の光が入り込み、白くてただでさえ明るく見える室内をさらに眩くしていた。少し目が焼けてしまいそうだ。ガラス窓の向こう側にはバルコニーが設けられており、ガラス窓を開けてそこに出てみると〈神域〉の東側に噴水のある庭園があるのが窺えた。
再び部屋に戻り天蓋ベッドに腰を掛ける。傍らの小さな丸テーブルの上には籠いっぱいの果物が入れてあった。そのどれもがアーガルズで見たことのないものであり、赤や黄色に熟れたそれらはまるで食べられるために生まれているかのようにエルマには思えた。
ただ、今は食欲の湧くような気分ではなかった。
ベッドの上に足を持ち上げ、膝を抱える。
直後、扉が三度ノックされ、僅かに開く。
「エルマちゃん? いる?」
若い女性の声だった。その声と一緒に、僅かに開かれた扉の隙間から新緑のような明るい緑色の緩く波がかった髪が先に顔を覗かせる。それに続くように、その髪の持ち主が顔を覗かせる。若草色の瞳がエルマの姿を確認するや否や、花を咲かせたように笑顔になり、扉を開けて入ってくる。
その表情はまるで子どものようで、それでいて包み込むような包容力を持った笑顔だった。その笑顔にエルマは心なしか安堵していた。
「あたしは地神フェンル。お着替え持ってきたよ」
そう名乗った彼女が差し出した白い装束をエルマは受け取ると「ありがとうございます」と礼を言う。
そのまま去っていくのだろうと思っていたエルマは、フェンルが横に腰を下ろしたことに少し驚いた。
「あの、まだ何か……?」
問う。フェンルは「えーと」と息を漏らして、自分の頬に人差し指を当てて何かを悩むような素振りを見せた後、決心したように頷いてその豊満な胸にエルマを抱き寄せた。柔らかな感触がエルマの顔を包み込む。
「辛い思いをいっぱいさせてごめんね。巻き込んじゃってごめんね」
そう言いながら、フェンルはエルマの頭の後ろを優しく撫でた。
たったその二言が、エルマの心をまるで解かすように、言いたくても我慢していた言葉を嗚咽と共に吐き出させた。抱き寄せられたはずが、いつの間にかエルマの方からフェンルの背に手を回し、その柔らかな胸に顔を埋めて泣いていた。
「私、先輩に振り向いて、ほしかっただけなのに……なんで、こんなことになっちゃったんだろ。これで……よかったのかな。分からない。私はどうすればよかったんだろう? やっぱりもう、皆のところには帰れないのかな。もう、先輩の隣に立てないのかな。ソフィアと一緒に笑えないのかな。私、どうなっちゃうのかな」
色々な感情が込み上げてくる。するりするりと解れた糸が解けてしまうように言葉が口から零れ落ちる。気がつけばどうしてこんなことになったのか、自分が何を思って行動していたのか、エルマはフェンルに語っていた。嗚咽と後悔を交えながら。
フェンルはただただそれを聞いていた。聞いて、自分の胸で咽び泣くエルマの頭を撫でるだけだった。
少し落ち着いたところでエルマは埋めた顔を持ち上げる。詰まった鼻に無理矢理空気を通しながら「すみません」という。
「ううん、大丈夫。ちょっとでもエルマちゃんが落ち着けたならあたしも嬉しいよ」
よいしょとフェンルは立ち上がる。
「またすぐ戻ってくるから着替えておいてね」
それだけ言い残し、フェンルは部屋を後にした。彼女が出ていった扉の方を眺める。
「温かかったなぁ」
久々に感じたその感覚を、ぽろりと口から零した。
§
「あたし、ヨルムントのそういうやり方嫌い」
それが、エルマのために用意された部屋から出た地神フェンルが最初に竜神ヨルムントに放った言葉だった。
「あの子、泣いてたよ」
ヨルムントはフェンルの言葉を無視する。机に向き、いつも通り水晶玉を覗き込む。そこに映る〈方舟〉に乗る混血の騎士と空色の髪の少女を眺める。
エルマ・ライオットを連れて世界樹第九階層〈神域〉に帰ったヨルムントは、彼女のことを地神フェンルに任せた。大して働かない彼女を働かせてやろうというのと、予め用意していたエルマの着替えを手伝わせようと思ってのことだった。神々は思念体でしかないが、一応性別のようなものは在る。空神ヘイルは少年か少女かよく分からない中性的な声と容姿をしているが、地神フェンルは女性、竜神ヨルムントは男性だ。さすがに男が少女の着替えを手伝うのはマズいことぐらいは分かっている。だから任せたのだが、そんなフェンルはかなりご立腹のようだった。
「あの子、確かに〈竜の守り人〉になってるよ。でもその証明として魔法を使わせるのは良くないよ。人間である彼女が魔法を使えるのはあくまで〈目覚め〉たからであって、〈竜の守り人〉になったからじゃないでしょ。そういう嘘を平気で吐けるヨルムントのやり方がすごく嫌い。それに、エルマの恋心を利用したことも許せない」
つらつらと怒りをぶつけてくるフェンルにヨルムントは渋々「悪かった」と謝った。
「たしかに彼女の恋心を利用したことは謝ろう。少し強引過ぎた。けれど、〈竜の守り人〉になった後のことに関しては、どう伝えたって信じようとしないだろ。だからあれは嘘を吐くしかなかったんだ」
「それでも納得いかない」とエルマは頬を膨らませる。
「そもそも、前提がおかしいよ。なんでエルマちゃんなの。ファフニールを殺すのに人間が用意できればいいなら、他の人間でもいいじゃん。なんで彼女なの」
憤るフェンルにヨルムントは「ただの餌だよ」と淡々と答える。
「彼女は混血の騎士シグルズ・ブラッドをおびき寄せる餌だよ。混血を殺すのであれば、その交友関係を利用しない手はない」
「そういうやり方が嫌だって言ってるんだよ! ヨルムントの分からずや!!」
新緑色の髪を揺らしながら怒鳴る。珍しく、いつもは穏やかな彼女の目が怒りに吊り上がっていた。
ヨルムントは一度ため息を吐き、弁明の意を込めて口を開く。
「別に、餌だからって前の〈竜の守り人〉のように『人間に捕まったら殺されろ』みたいな惨い扱いをするつもりはない。むしろ彼女には生きてもらわなきゃ困るぐらいだ。ただ、僕は彼女の心を休めるに適した人材じゃない。だからフェンルに頼んだんだよ。彼女のことはフェンルに一任する。だから怒りを収めてくれ。これ以上彼女の心を傷つけるつもりは僕にはない。あとの行動は全て彼女に決めさせるといい」
こんな言葉でフェンルが納得するなど、ヨルムントは思っていない。しかしヨルムントはフェンルの性格をよく理解している。
「……分かったよ、ヨルムント。でも、今あたしが言ったこと、許すわけじゃないから」
言い残し、フェンルは再びエルマのいる部屋へと戻っていった。扉が閉まるのを確認したヨルムントは小さくため息を吐く。
地神フェンルは〈愛〉を司る神でもある。故に、自分が怒りに身を任せることを良しとしない。少し宥めれば、冷静さを取り戻す。彼女の扱いには慣れたものだ。
「まったく、神ってのはみんな自分勝手だね、僕も含めて」
扉の方を見ながら呆れたように言う。
フェンルの怒りはヨルムントにもよく分かる。つまるところヨルムントはエルマ・ライオットの持っている混血の騎士に対する〈愛〉を利用した。このことにフェンルは酷く怒っていたのだ。だが、その感情が、愛を優先するその考えが良くない結果を招くことを、ヨルムントは身をもって知っている。
「愛を貫く者は愛に溺れ、やがて呼吸ができなくなるぞ、フェンル。かつての僕のように」
言いながら水晶玉に視線を戻す。世界樹第七階層〈竜域〉に降り立つ混血の騎士と空色の髪の少女が映っている。
「そろそろか」と呟きながら、ヨルムントは立ち上がった。




