45.神の口づけ
死の淵に立っていたはずのエルマは、どういうわけかそこに突き落とされてはいなかった。恐る恐る目を開ける。
視界の正面に一つの背中が映った。
「先輩?」
大好きな先輩が、シグルズ・ブラッドが助けに来てくれたのだとそう思った。けれどそれは、エルマが彼を思うあまりに見た幻想だった。瞬きをする。そこに居た人物はエルマの知らない男だった。
いや、知らないわけじゃない。その白い髪をエルマは見たことがある。振り返る彼の白い瞳を、見たことがある。
「いやあ、本当に来てくれて嬉しいよ、エルマ・ライオット」
その声を、聴いたことがある。
「……あのときの占い師が、なんで」
そこにいたのは紛れもなく、エルマを唆した占い師の男だった。
何もかも、わけが分からなかった。この男がどうしてここにいるのかも、どうやってここに来たのかも、何者なのかも、そしてどのようにして、指一本で邪竜ファフニールの口が閉じるのを止めているのかも。
「あれ? 自己紹介してなかったっけ? これはとんだ無礼をしたね。僕は竜神ヨルムント。人間の敵であり、きみの味方だ」
「……え?」
世界樹の創世神話においては、空神ヘイルが空間を作り、地神フェンルが大地を作り世界樹の苗を植え、竜神ヨルムントが世界樹を育て上げたとされている。その竜神ヨルムントが今、目の前にいる。
その事実に唖然としながら、エルマは目の前の光景に放心していた。脳の処理が追いつかず、ただただ目の前の光景を像として瞳に映すことしかできなかった。
「……なんのつもりだ、と言いたげだね、ファフニール」
ヨルムントがファフニールを見上げ、口を開く。
「簡単なことだ。神々にとってファフニールという枷が邪魔になったんだ。お前がいるせいで、世界樹に〈混血〉という毒が蔓延り始めた。全部お前のせいだよ。昔生まれた〈混血〉を殺せなかったのも、最近生まれた〈混血〉を殺せなかったのも、お前との制約のせいでできなかった。お前は強い。僕と渡り合えてしまうぐらいに。だから僕たち神々は策を講じた。自分の手を汚さずにお前を殺せるように」
ヨルムントはファフニールの口を止めるのとは反対の手を、後ろにいるエルマの方に突き出す。その手に、光の粒子のようなものが集まり、伸びて、一つの物を形作っていく。
「……これは」
ヨルムントの手にしっかりと握られていたのは一振りの剣だった。緋色の刀身に、炎のようにうねった刃。
「さあ、エルマ。この剣を執れ。この剣をファフニールの喉に突き立てるんだ」
突き出されたそれを、訳も分からぬまま受け取る。ヨルムントの横に歩み出る。横を見る。「大丈夫だよ」とヨルムントが優しく言う。もう一度正面を向き直り、剣の柄を両手で握りしめながら開かれたファフニールの口の中に入る。
舌の上を歩く。思ったよりも固く、それが筋肉でできていることがありありと伝わってくる。生温い吐息が頬を撫でる。
剣を逆手に持ち、振りかぶる。
「彼女に自分は殺せないと思っているだろう? そんなことはないよ。なんせこれからは彼女が、エルマ・ライオットが〈竜の守り人〉となるんだから」
振りかぶったそれを、エルマは勢いよくファフニールの喉に突き立てた。
瞬間、雷鳴と聞き間違うほどの邪竜の悲鳴が、エルマの耳を劈いた。傷口から鮮血が溢れだし、その個所から徐々に、まるで植物が枯れるように黒ずんでいく。
「体の中を何かが這いずり回っているのが分かるかファフニール。それが新たな守護竜、彼女が持つ緋色の剣に眠っていたニーズヘッグだ。今日、この日を持って世界樹第七階層〈竜域〉の全てを入れ替える。死の淵で自分の愚かな行いをせいぜい悔いればいいさ」
ヨルムントが喋っている間にも、ファフニールの身体は少しずつ崩れ、消えていく。剣を突き立てた喉から広がったそれは既に下顎を消し去り、邪竜の腹を消し去り、残るは背と翼と、考えることのできる頭だけだった。
エルマは剣を持ちながら、ヨルムントの横まで後退しつつ眺めていた。
背が崩れる。翼が灰のようになって散る。頭が地に落ち、横たわる。尾が消え去る。この剣の力は、骨すら残さないようだった。最後に頭が消えていく。その目がエルマを見る。何かを言いたそうな目だった。
――哀れな子だ。
「えっ?」
そう、聞こえた気がしたのだ。確かに、誰かの声がした。「哀れな子だ」と。ヨルムントの声でも、ましてや自分で放った言葉でもない。
ファフニールが瞼を閉じる。最後に残っていたそれは、少しずつ塵となり風に舞う。そうして、そこにあったはずの山のように大きな存在は、跡形もなく消失した。僅かな静寂が間を繋いだ後、ヨルムントが一つ伸びをして口を開く。
「よぉし、一つ仕事が終わったぞ。さて、エルマ・ライオット。きみには僕と一緒に世界樹第九階層〈神域〉に来てもらわなきゃならない。一緒に――」
ヨルムントがエルマの方に向き直る。自分に向けられた緋色の剣の切先が、彼の瞳に映った。
「……穏やかじゃないね」
真っ直ぐな視線を向けるヨルムントにエルマは「当たり前です」と答える。なんせ、目の前にいるのは竜神ヨルムントだ。エルマとて、神が人間の敵であるということを忘れたわけではない。目の前に敵がいれば、刃を向けるのは至極当然なことだ。
「別に、その剣で僕を貫いたって構わないけど、きみに僕は殺せないよ」
やってごらんと言わんばかりに、ヨルムントが両手を広げる。エルマはその誘いを受けるように、緋色の剣をヨルムントの腹部に突き立てた。きっとこれで、また先ほどと同じように灰みたいになって崩れ落ちるのだと、エルマは思っていた。
「ほら、なんともないだろう?」
元気そうな顔をしているヨルムントを見上げながら、エルマは剣を引き抜く。血が出ていない。傷口が無いのだ。それどころか衣服に穴すらもできていない。
「その剣の力は命あるものにしか作用しない。思念体のようなものである僕たち神々には実体がないからその剣が効かないんだ」
そういうわけで、とヨルムントが続ける。
「今のきみは僕に従うほかないんだ。邪竜を倒した英雄は、翼を捥がれて自らの住んでいた大地へ帰ることができなくなった。もちろん、僕が帰してあげることもできるんだけど、神に見初められたきみは、新たな〈竜の守り人〉になるという選択肢しか持っていない」
「ちょっと待ってください」
会話を止める。先ほどから、エルマはヨルムントの話に追いつけていなかった。
「私が〈竜の守り人〉になるってどういうことですか? 私、人間ですよ? 〈竜の守り人〉になれるわけが……」
「ああ、まだやるべきことをやっていなかったね」
そう言って、ヨルムントがエルマの腕を引く。両の肩を持ち、ヨルムントは自身の唇を紅葉色の髪の少女の唇に重ね合わせた。
「……!?」
突然のことにエルマは後ずさり、身を引いて逃げようとする。しかしどういうわけか、ヨルムントの手が自分の肩から離れないのだ。そうしているうちに、頭の中がぼんやりとしてくる。意識が混濁し、記憶が溶ける。どれくらいそうしていただろうか、十秒かそこらだろうか。終わる頃にはヨルムントの口づけをどういうわけか拒むことなく受け入れていた。
ヨルムントが唇を離すと、エルマは我に返ったように「なにするんですか!」と叫ぶ。唇を拭う。感触は消えなかった。
「神の口づけだよ。僕の神性を少しだけ分けたんだ。もっと分け与えることも可能と言えば可能なんだけど、さすがにエルマも身体を差し出したくはないだろう? 僕だってその辺の線引きはできるつもりだ。ようやくこれできみは、神々の仲間入りをしたというわけさ、〈竜の守り人〉エルマ」
「仲間入りなんて、そんなこと急に言われても――」
自分の身体をあちこち触ってみる。腕、頭、頬、首、胸。どれもこれも、先ほどと何ら変わりないエルマ・ライオットだ。どこにも違和感はなく、〈竜の守り人〉になった実感もない。
「まあ、実感が湧かないのも無理はないね。けど、きみが〈竜の守り人〉になったことは紛れもない事実だ。ほら、手を真っ直ぐ前に出して。心の中に浮かんだ言葉を唱えるんだ」
言われた通りにしてみる。何をさせたいのかエルマには分からないが、何かが起きるはずがないのだ。だってただの人間なのだから。
心の中に浮かんだ言葉? そんなもの、いくら頭の中で探しても見当たらない。ため息とともに真っ直ぐ前に突き出していた腕を下ろそうとする。
その瞬間だった。頭の中に知らない情報が土足で踏み込んでくる。否応なく記憶に焼き付こうとする。その文字列が、エルマの喉を震わせる。
「炎よ」
立派に育った針葉樹たちが空を覆い隠す仄暗い〈竜域〉に、一つの暖かな明かりがともる。エルマの手のひらで踊るそれは、しばらくすると音もなく消えた。
エルマはその力を知っている。実際、目にしたのは初めてだったが、その力はこう呼ばれている。
「魔法……」
本来、魔法を扱うことができるのは世界樹第六階層〈妖精国アルヘーム〉に住む妖精と、世界樹第三階層〈魔族国サバト〉に住む魔族だけだ。人間であるエルマが使えるはずのない能力だ。
「これで分かっただろう? 〈竜の守り人〉は魔法を操ることができる。そしてきみは、魔法を使えるようになった。これはなによりもの証拠だ。きみが〈竜の守り人〉という、ね」
それを聞いたエルマは膝から崩れ落ちる。
「……じゃあ、私は本当に」
〈竜の守り人〉がどういう存在なのか、少し考える。〈竜域〉に住まう邪竜の守護者、世界樹第七階層の管理者、神々の末端。まるで不老とも思えるほどの寿命を持つ。
「きみはもう人間じゃない。みんなのいたところには戻れない」
ヨルムントのその言葉が、現実に打ちひしがれるエルマの心に追い打ちをかけた。
少しずつ、状況の理解に脳が追いつき始める。現実を現実として処理できるようになってくる。自分が人間ではなくなったことを理解し始める。元いた場所に帰れないことを悟り始める。
なぜ、こんなことになっているのか。どこで選択を誤ったのか、どこで何を間違えたのか。どうして自分なのか、どうして他の人ではないのか。どうして自分がこんな悲しい思いをしなければならないのか、辛い思いをしなければならないのか。
「――先、輩」
嗚咽を吐きながらも呼んだのはやはり思い慕った先輩騎士だった。きっとここで苦しんでる自分を助けに来てくれるはずだ。気にかけてくれているはずだ。このどうしようもない状況を何とかしてくれるはずだ。そしてそれらは全て、エルマの願望でしかなかった。
先輩は現れなかった。エルマがファフニールと対峙したときも、ヨルムントが現れたときも。もっと言えば、エルマが邪竜討伐作戦への参加を決意したときも、夜に占い師に扮した竜神ヨルムントに会ったときも、〈方舟〉を奪取してアーガルズを発ったときも、先輩は駆けつけてなどくれなかった。傍になどいてくれなかった。
もういいじゃないか。諦めよう。まるで自分に言い聞かせるようにそう思う。これだけ行動して、想いも伝えて、それでもなお振り向いてもらえなかった。手を取ってくれなかった。彼が自分に背を向けるのなら、自分も彼に背を向けよう。
一つ、深く呼吸をする。立ち上がる。涙を拭い、もう一度呼吸する。〈竜域〉の湿った空気が肺に入り込む。
「……もう、何もかもどうでもいいです。あなたが私を駒にしたいならすればいい。私はこれ以上、失うものを持っていないので」
だから、と続けてヨルムントの白い瞳を見る。
「私を――〈神域〉に連れて行ってください」




