43.エルマの決断②
激しく部屋の扉を叩く音に、バロック・ハーヴェストは苛立ちを感じながら体を起こした。寝ぼけ眼を擦り、時計に目を向ける。時刻は夜中も夜中、二時半を指していた。
深いため息とともにベッドを出ると、「時間を考えろ」と憤りのこもった声を出しながら扉を開けた。
扉の向こうにいたのは〈方舟〉の技師だった。急いで来たのか肩で呼吸をし、皺の依った額にはびっしりと汗を掻いていた。
「騎士団長、極秘任務を三等騎士に出しましたかね?」
何のことだかさっぱり分からないバロックは「いや」と首を横に振った。
「実はさっき、騎士団長から極秘任務を仰せつかったっていう三等騎士が格納庫に来て〈方舟〉に乗って飛んでっちまったんですよ」
技師の男がそう経緯を話す。
「……私はそんな極秘任務なんてものを三等騎士に出した覚えはない。その騎士の名は?」
「エルマ・ライオット三等騎士です。目的地も告げずに出て行きやした」
「エルマ・ライオット……」
バロックはその名前に覚えがあった。革命の前、彼女と二人で話す機会があった。早朝のアーガルズ兵団中央広場。そこで木剣を振るう彼女は邪竜討伐作戦に志願した。革命を起こしたシグルズ・ブラッドを慕っていた。
彼女が規律を破り、自分勝手に行動するとはバロックには思えなかった。何かしらの理由があるように思えた。その理由にもどことなく心当たりがあった。
「分かった。早急に対処しよう。それと、技師の全員に伝えてほしいが、あまり根を詰めて作業をするな。夜は休め。以上だ」
バロックの言葉を受けた技師は「承知しやした」と右掌を胸に当てて頭を下げた。「夜分に失礼しやした」と続けて扉を閉めた。
バロックはその扉をすぐに開けると、左右を確認する。去っていく技師の後姿が見えた。それとは反対の方向に踏み出すと、廊下を歩きながら会いに行く人物の顔を思い浮かべる。
彼は、彼女のことをもっと気にかけてやるべきだった。いや、この革命も彼女のことを気にかけての行動だったのかもしれない。死にに行くも同然である邪竜討伐作戦をなくすため、彼女の命を脅かす芽を摘むため、行動したのかもしれない。
だが彼は――シグルズ・ブラッドはエルマ・ライオットの本当の気持ちに気づけていなかった。彼女が彼を慕っていたことを、バロックは知っている。彼女が恋心を抱いていることも、僅かな会話でなんとなく察しがついていた。
だからシグルズは、エルマを追うべきだ。
部屋の前に着く。扉を叩く。返事はない。もう一度、今度は少し強く扉を叩く。「シグルズ」と呼びかける。
僅かな時を経て、ゆっくりと扉が開いた。中からは眠そうなシグルズが顔を覗かせる。
「誰かと思えばバロック閣下ですか。こんな夜更けに何の用で……」
リンファが寝ているんです、もう少し静かにと文句を垂れるシグルズにバロックは単刀直入に「エルマ・ライオット三等騎士が行方不明になった」と伝えた。
シグルズは先ほどまで半開きだった目を丸くし、ぽかりと口を変えて、さも先ほどの言葉が聞こえていなかったかのように「今、なんと?」と聞き返す。バロックはそれに丁寧に答える。
「エルマ・ライオット三等騎士が自身の〈方舟〉に乗って行方を晦ませた。〈方舟〉を使ったということは、アーガルズ以外の場所に向かっている可能性が高い。追うなら早い方がいいと思って、こんな夜更けに扉を叩いた」
バロックの言葉を受け、シグルズは歯を食いしばり下を向く。拳を握りしめ「俺は大馬鹿者だ」と呟いた。
「世界樹第七階層〈竜域〉への出立予定を前倒しにします。二人乗れる〈方舟〉を用意させてください」
それではまた後程、とシグルズは扉を閉める。閉ざされた扉の中からは「リンファ、起きろ」という声が聞こえてくる。
伝えるべきことを伝えたバロックは、その足を今度は〈方舟〉の格納庫へ向かわせる。その道すがら、技師に向けた自分の言葉を思い出した。
「休めと言ったのに仕事を増やしてしまったな」
§
リンファはその少女のことをよく知らない。だから、シグルズがそんな焦った表情を見せてからようやく、事態が大きなことだということに気づいた。
リンファとシグルズが宿泊している客室、身支度を終えたシグルズは「急ごう」とリンファの手を引く。それに尽き従うように、リンファはシグルズの一歩後ろを歩く。
「エルマって、牢屋に来た赤い髪の子?」
「ああ」
その問いを経て、ようやく騒ぎを起こした人物が誰であるのかを明確に把握する。リンファの知る彼女は、エルマという名の人間の少女は、シグルズのことを好きと言い、嫌いと言い、そんな自分に区切りをつけるために邪竜討伐作戦に参加しようとした愚か者だ。
はて、好きとはどういった感情だろうか。そう頭の中に疑問が浮かんだ瞬間、言葉が喉を滑り、既に口を動かしていた。
「好きよ、あなたのこと」
「……急にどうした」
シグルズがリンファの腕を握る力が少し弱まり、再び握りしめられる。驚いた様子も何もなく、彼はただリンファの腕を引いて廊下を歩いている。
「別に、なんでもないわ」
ふい、と彼の錆色の髪から目を逸らす。
そうかそういう気持ちなのかと、リンファは熱くなった胸に拳をあてる。言葉すら交わしたことのないはずの紅葉色の髪の少女の気持ちが、少しだけ分かった気がした。
§
突然リンファが「好きよ、あなたのこと」と言った。シグルズは動揺を隠すようにわざとらしく平静を装った。胸が鳴らないわけではなかった。顔が夕日に染められたように赤くならないわけでもなかった。ただそれ以上に、一人の少女の言葉がまるで脳に焼鏝で痕をつけたかのように焼き付いていた。
頭の片隅で、震えた声で感情をぶつける後輩の顔が浮かんだ。彼女もまた、自分のことを好きだと言ってくれた人物だった。しかし彼女は、嫌いだとも言った。そのときはこんな愚かな先輩を嫌いになったのだろうと、言葉のまま受け取った。
しかしあの言葉は、嘘だったのだ。
自分が行動を起こせば、邪竜討伐作戦そのものを失くしてしまえば、作戦に参加すると言った彼女も止められるだろうと甘い考えを持った。けれどそれはあまりにも自分勝手で、自己中心的で、他者の気持ちを考えていないものだった。
「やけっぱちになってるのね、その子」とリンファが言う。
「俺は大馬鹿者だ」
続けてシグルズの口から滑り出したのは言い訳のようなものだった。
「俺の考えが浅はかだった。エルマの気持ちを汲み切れなかった。俺の偽善を押し付けた」
「……過ぎたことをとやかく言ってもどうにもならないわ。急がないと彼女、ファフニールに殺されるわよ」
分かっていると言わんばかりにシグルズは歩く足を速める。
彼女がどこに向かっているのか、誰一人として答えを発していない。しかしそれは、リンファの直感とシグルズにとってのエルマとの最後の会話がある種の共通認識を作り上げていた。互いに確認する必要などなかった。
「急ごう、世界樹第七階層――〈竜域〉に」




