38.アーガルズ国王戦③
まるで何かが爆発するかのような衝撃音に、シグルズとアーガルズ国王は互いに交える刃を下ろした。
「なんじゃ、何が起きた」
困惑した声を上げるアーガルズ国王が音のした方に振り返る。その感想はシグルズも同じだった。つい先ほど視界の端にリンファの姿が映った。膝をつき、敵である人形の持つ曲剣が彼女の眉間に吸われるようにして繰り出された瞬間だった。シグルズはリンファの名を叫んだ。助けに向かおうとした。間に合わないと分かっていた。もう駄目だと、自分の弱さでまた大切なものを失ってしまうと、そう思った。思ったときには全てが終わっていたのだ。
散らばる赤黒い人形の破片、リンファの足元に力なく落ちている曲剣、既に立ち上がっている彼女、その背から生える――大きな竜の翼。
「……ファフニール?」
思い当たる存在の名を呟く。閉ざされた彼女の瞼が開かれ、そこから覗いた光ない瞳がシグルズを一瞥した。その目は間違いなく、世界樹第三階層〈魔族国サバト〉で見たファフニールと同じものだった。
「ファフニール? ファフニールじゃと!?」
「喚くな若造。貴様の声は癇に障る」
狼狽えるアーガルズ国王に苛立ちの声を顕わにする。それに気圧されるように国王はファフニールから一歩ほど距離を取った。
「竜狩り、貴様格下相手に何を手こずっている」
「か、格下……!?」
ファフニールは何を言っているのだと、シグルズは困惑した。アーガルズ国王が格下? そんなわけがないだろう。権能も、魔法も、武力でさえも積み重ねた時間が、経験が違う。これを格下と称することはシグルズにはできない。どこからどう見ても強敵だ。現にシグルズはアーガルズ国王に対して手も足も出ていない。
「わしが格下じゃと?」
これにはアーガルズ国王も同意見のようだった。それもそうだ。明らかに自分が圧倒しているというのに、格下だなどと罵られては声を荒げるのも無理はない。
よほど腹が立ったのだろう。「なめおって」と怒りを吐き出す。右手を床につけ、「集えよ、兵ども」と呼びかけるように叫んだ。それと同時にいたる所から血が溢れ返る。カーテンの影、天蓋ベッドの下、棚の裏側からテーブルの下。赤黒いカーペットにしみ込むことなく様々な場所から流れてきたそれらは天井に向かって伸びると、徐々に人の形を取り、リンファがつい先ほどまで刃を交えていたのと同じような人形へと変貌した。その数は――いくらだろうか。国王の居室は広い。ざっと流し見ただけでも二十体は下らないだろう。
「……なるほど、血を操る権能か。確かに、〈混血〉がそんな権能を持っていれば、神々が危険視するのも頷ける」
頷くファフニールに、赤黒い人形たちが一斉に襲い掛かる。襲い掛かったそのとき、既に勝負はついていた。
ファフニールを中心にして砂のように粉々に砕け散った人形たち。無数の破片が飛び散り、運よく砕けることを免れたらしい人形の頭部がアーガルズ国王の足元に転がった。
何事もなかった様子で佇んでいるファフニールの左手は竜を彷彿とさせる異形へと姿を変えていた。皮膚を覆う黒い鱗は黒光りして燭台に灯された橙色の炎の揺らめきを反射させ、指先から伸びる鋭い爪はまるで極限まで尖れた剣のようだった。
「自分が殺した人間の血を抜いて蓄えていたか。だが、人形ごときで私は倒せんぞ」
にやりと笑う口元から、僅かに尖った牙が覗く。
こんなもの、一体誰が勝てるというのか。邪竜ファフニール討伐のために組織された竜狩り騎士団だったが、これを見てしまってはその存在意義すらも疑わしくなる。
「安心しろ、人間を統べる王よ。〈混血〉である貴様を殺すのは私ではない。というのも、神と交わした制約で、私が私自身に課した制約で、〈混血〉を殺すことは許されないのだ。なぜ貴様という歪んだ存在が生まれるに至ったかは私には知りようがないし知ろうとも思わんが、その穢れた血は両親の身勝手な行動で生まれたものだ。その穢れた血を宿して生まれてしまった子どもに罪はない。私にそんな罪なき者は殺せない。
しかし、貴様はあろうことか私の最も大切なリンファに手を出そうという。穢そうという。これだけはリンファの母親に代わって見過ごすことはできない。貴様というリンファに仇なす存在を、放っておくことはできない。しかし貴様が〈混血〉であるがゆえに私にはどうすることもできんのだ。なんとももどかしい」
ファフニールの光のない虚ろな瞳がシグルズを見る。目が合う。その目は明らかに「お前が殺せ」と言っていた。どういうわけか邪竜ファフニールは〈混血〉を殺せないらしい。神々との制約が――と言っているが、これにはシグルズも心当たりがあった。
竜神ヨルムントが両親であるシアナ・ブラッドとハイエット・ブラッドを殺したあの日、ヨルムントは「厄介な守護竜との制約で混血の子どもは殺せない」と言っていた。守護竜というのがファフニールのことだというのは今なら容易に理解できる。だとすると、ファフニールと神々の間で〈混血〉に関する何らかの取り決めがあるのだろう。
「竜狩り、これを貸してやる」
そう言って、ファフニールは右手に握っていた聖剣フロティールを天井につくかつかないかぐらいの高さで弧を描くようにシグルズに向かって投げた。さすがにそれを掴むのは危ないと思い、一直線に自分のところに降ってくる剣を躱して、地面に突き刺さったそれを抜いた。
「私がリンファを守るのにその剣は必要ない。貴様が使え。そこの三下相手なら確実に力を引き出せる。その剣で僅かな傷をつけるだけでいい。それだけでそこの狂った混血は死に至る」
聖剣フロティールの力。〈保持者が自分より強い者を絶対に殺せない〉という武器として欠陥としか言いようがない能力。逆に言えば〈保持者が自分より弱い者を絶対に殺せる〉という能力でもある。その力を引き出せることができるというファフニールの言説はつまるところ、シグルズがアーガルズ国王よりも強いと確信しているということを意味している。一体何を判断材料にファフニールがそんなことを考えたのか、シグルズには全く分からないが。
そもそも、目的はアーガルズ国王を打ち倒すことだ。結局のところシグルズがやろうとしていることが変わるわけでもない。
アーガルズ国王の血を操るその権能は強力だ。魔法でも武力でも、到底かなう相手ではない。なになら敵う。自分のどこを切り取れば、アーガルズ国王を打ち倒せる。
世界樹第七階層〈竜域〉で、当時名前も知らなかったリンファと戦ったときのことを思い出す。とてもではないが、勝てる相手ではなかった。自分よりも強い騎士が、彼女の前では亀裂の入った木偶も同然だった。彼女を打ち倒すことができたその力は、自分が忌み嫌った〈貪汚の魔女〉としてのシアナ・ブラッドの力だった。
「凍てつけ」
アーガルズ国王に歩み寄りながら呪文を唱える。リンファから奪った魔力炉に刻まれていた魔法の一つ。国王の足元が凍てつき始め、分厚い氷に覆われる。いわゆる足止めのようなものだ。ただ、そんなものがアーガルズ国王に通用するはずがないのだ。
「小癪な……」
アーガルズ国王が呟く。すると冷気を発するほどだった氷は、今度は蒸気を発しながら解け始めた。アーガルズ国王が魔法を使ったのだ。炎魔法の一種だろう。理屈は分からないが、またしても呪文を発さなかった。
しかしそれは、想定の範囲内の出来事だった。シグルズが放つ未熟な魔法に対し、アーガルズ国王がいとも容易くそれを打ち破る。実力差が明らかなのだから、当然の結果だ。ただ、シグルズとアーガルズ国王では、明らかにシグルズが勝っているものがある。
「我慢比べをしよう。アーガルズ国王」
解けかけ、僅かに残った氷にありったけの魔力を注ぎ込む。再びアーガルズ国王の足元が、いや、腰に掛けてまでが分厚い氷で覆われ始める。それを解かそうと、アーガルズ国王もさらに魔力を注ぎ込むように力んだ。
完全なイタチごっこだ。だが、そうして時間を潰すだけでいい。
「こんな遊びをして何の意味がある?」
国王に歩を進めるシグルズにアーガルズ国王が右手に握る赤黒い大剣を真っ直ぐに向けた。切先から滴る血が形を変え、端部を尖らせてシグルズに伸びる。それをシグルズは聖剣フロティールで斬り落とす。
アーガルズ国王の下半身は未だに氷に覆われていた。氷が解ける勢いは身を引くように弱まり、徐々に国王を覆う氷は腰から上へと範囲を広げている。
シグルズ・ブラッドとアーガルズ国王の決定的な差は体内に内包する魔力量の差だった。魔法は魔力炉で生成される魔力を消費する。魔力の生成は一時的なもので、使い続ければ枯渇する。睡眠をとるなどの行動をしなければ回復はしない。
それが、ファフニールがアーガルズ国王よりシグルズが強いと判断した材料だった。シグルズの体内には魔力炉が二つある。それに対しアーガルズ国王は一つだ。我慢比べをすれば結果など分かりきっているではないか。
既に氷は国王の胸元まで覆っていた。権能で強化した肉体ですらその分厚い氷の膜を破ることは敵わなかったのだろう。体温も奪われ力も出せないはずだ。
シグルズの右手が真っ直ぐ国王の首に伸びる。鷲掴み、力を入れる。
「お前の魔力炉を頂こう」
腕を伝い、体内に何かが流れ込む感覚がした。熱く燃えるような、そんな感じだ。人生で二度目の、〈魔力炉を奪う〉という行為によって発生する感覚。
アーガルズ国王も自分の身体から残り僅かな魔力が、そして魔力炉そのものが吸い取られるのを感じたのだろう。何をしていると声を荒げ、必死に抵抗しようとする。
国王の体内の魔力はほとんど空だった。シグルズの水魔法に対抗して炎魔法を途切れることなく使い続け、さらには残った魔力を吸い取られ、魔法を使う事すら許されない状況にひどく焦っていた。首から上以外は既に氷漬けで、指先さえも動かすことが叶わない状況だった。国王の血でできた赤黒い大剣もいつの間にか消え去っている。
それでも必死に抵抗した。権能による肉体の強化はまだ続いていた。額から生えた角も、年齢にそぐわない筋肉も維持できていた。
ピシリと右腕を固める氷に一筋のヒビが入る。ヒビは広がり、軽い音を立てながら右腕を覆っていた氷は崩れ落ちた。腕を振り上げる。せめてもの抵抗、せめて、完全に魔力炉が奪われてしまう前にこの騎士を引き剥がさねばならないと、拳を握り締め殴りかかる。
「残念だが、もう全て奪い取った」
シグルズは手を国王の首から離し、自身に振り下ろされた拳をひらりと避けると、聖剣フロティールで国王の右腕を斬り落とした。
アーガルズ国王はその剣で一度貫かれていた。そのとき何も起こらなかったのを覚えていた。その剣が大した力を持たないと考えていた。その剣が持つ者によってその力を大きく変えることを知らなかった。
「なっ、なんじゃあ!?」
傷口が焼けるように熱い。いや、傷口だけじゃない。全身が焼けるように熱い。自分の魔法かと疑った。そんなわけがない。自分がもう魔法を使うことができないことぐらい分かっている。では、これは何なのか。腕を斬り落とされただけだというのに、まるで傷口から命が漏れ出るような、消えてなくなっていくこの感覚は。
「わしは……まだ死ねん。まだ死ねんぞ……!!」
僅かな命を燃やして叫ぶ。その叫び声と共に、世界樹第五階層〈アーガルズ〉の歴史が動いた。




