34.吸血鬼
アーガルズ国王の居室はこれでもかというほどに広々としていた。床には血を滲ませたかのような赤黒いカーペットが敷かれ、壁面には幾つもの絵画が飾られている。部屋の隅には天蓋ベッドが置かれ、暖炉の炎は消えかけていた。
シグルズたちはゆっくりと足音を立てないように部屋に侵入し、真っ先に天蓋ベッドに近づいた。
時刻は夜更け、アーガルズ国王も既に就寝しているだろうと踏んでの行動だった。
そしてその予想は見事に当たる。
「……」
アーガルズ国王は、ベッドに横たわり布団を被り、仰向けで苦しそうな鼾をかいていた。
あまりにも無防備なその姿に、リンファは「簡単に殺せそうね」と囁く。
彼女の言う通りだった。全くの警戒心を感じさせない寝顔。半開きの口からは涎を垂らし、その枕を汚く濡らしている。
シグルズは懐に忍ばせた〈忌殺しの剣〉を取り出すと、静寂の中で鞘から抜き払った。ベッドにゆっくりと乗り込み、アーガルズ国王に馬乗りになる。そしてそれを、横たわり寝息を立てる老人の胸へと真っ直ぐに突き立てた。突き立てた箇所から鮮血が溢れだす。彼の纏う衣服、彼の下に敷かれた値段の張りそうな布団が見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
国王の首元に手を当てる。脈は既に止まっていた。あまりにも、あまりにも呆気ない終わりだった。
――いや。
いや、あまりにも呆気なさすぎるのだ。
アーガルズ国王の胸を一突きした。口からは未だに血が溢れている。そう、溢れている、それだけなのだ。自らの血に咽返って起き上がる様子も、痛みに悶える様子も全くない。あまりにも、静かなのだ。
「……様子がおかしい」
国王の胸から剣を引き抜き、辺りを睨むように警戒する。
それに釣られるように、リンファも自らの握る白藍色の細剣――聖剣フロティールを構えた。異変が発生したのはその直後だった。
「……っ!? なんだ!?」
シグルズが馬乗りになっていたアーガルズ国王の肉体が消滅したのだ。いや、消滅したという表現は正確ではないだろう。液化した、という方が表現としては適切である。アーガルズ国王が固体としての形状から崩れ去り、赤黒い液体となり布団をさらに真っ赤に染め上げ、同様に赤黒い色をしているカーペットに滴り落ちた。
人形だ。今しがたシグルズが〈忌殺しの剣〉で胸を貫いたのはアーガルズ国王ではなく、国王の偽物。状況からそう推察するのは難しいことではなかった。
明らかに混血であるからこその力――魔法か権能を用いての欺き方だ。
シグルズは〈忌殺しの剣〉を鞘にしまって懐に収めると、急いで自らの得物――バルムンクを構えた。こういうときは使い慣れた槍の方が、突発的な事象に対しては対処しやすいのだ。
僅かな静寂。暖炉で命尽きかけていたその炎が、ふっと消える。
刹那、視界の端で赤い閃きが走る。それを合図に何かがシグルズめがけて一直線に向かってきた。自らに向かって突如飛んできた得体の知れない何かを、余裕のある動きで斬り落とす。
ゴトリと重く、鈍い音。斬り落としたそれが、床を転がり足に当たる感触がした。硬い。視線を僅かばかり足元に落とす。部屋が暗いからか、それの全容は分からない。先端が尖った細いものである、ということぐらいしか確認できなかった。
今はそれの正体などどうでもいいと思ったシグルズは、赤い閃きを放った方に体を向き直り、暗闇を睨む。横に視線を向けると、リンファも同様に同じ方向を向いていた。
「ああ、ああ。避けられてしまったか」
呻くような、しわがれた声が闇の中で空気を震わせ耳に届く。
「暗いであろう。今、火を点けてやるでな」
パチンと軽快な音が室内に響き渡り、暗闇が晴れる。周囲を見れば仕事を放棄していた燭台が、競い合うかのように先端に灯る炎で蝋燭の芯を燃やしていた。先ほどの液体の人形を権能によるものだとするならば、詠唱は聞こえなかったがおそらく炎を灯したのは魔法の力だ。
燭台の炎に照らされた室内に、声の主が姿を現す。
「……アーガルズ国王」
そこに居たのは紛れもなく、先ほどシグルズが胸を貫いた老体と同じ見た目のものだった。頭は頭皮が顕わになり、腕はか細く欠陥が浮き上がっている。長い顎鬚を蓄え、不敵な口から覗く歯は黄ばんでいた。シグルズのよく知るアーガルズ国王の姿だった。
「来てくれると――いや、連れてきてくれると思っていたぞ、混血の騎士よ」
アーガルズ国王はにたりと笑い、リンファの方に視線を向ける。そして、舐めるようにして彼女の全身を凝視した。その視線を追い払うかのように、リンファが国王を睨み返す。
「……ああ、何度見ても麗しい娘よのう。白い肌に透けるような青い髪、弱々しく華奢な身体――汚したくてたまらんわ」
「どこまで堕ちるつもりだ、アーガルズ国王」
獲物を前にした獣のように頬を吊り上げる国王に、シグルズは真っ直ぐに槍を向ける。
「これ以上愚行を犯すというのなら、俺がお前の首を斬り落とす。この国は変わらなければならない」
「愚行? わしの行為を、何をもってして愚行というのじゃ? 〈三国統一戦争〉で多くのものを失った。老い先短い老体が、若い女子の身体を貪るぐらいの褒美を享受するのは当然の権利じゃろうて」
その言葉から瞬く時間もしないうちに、鈍く、それでいて軽快な音が燭台の炎を揺らした。リンファが動いたのだ。彼女の握る聖剣フロティールが真っ直ぐにアーガルズ国王の腹部を貫いていたのだ。
「不思議な剣を使う。なんじゃ? その剣は。まるで痛みを感じん」
リンファが舌打ちをする。
聖剣フロティール――〈保持者が自分より強い者を絶対に殺せない剣〉などという、武器として欠陥としか言えない力を持つ剣だ。アーガルズ国王の発言からすると、リンファの先の一撃はアーガルズ国王に傷を負わせていない。シグルズが世界樹第七階層〈竜域〉で初めて彼女と対峙した時と同じだ。リンファはアーガルズ国王に敵わない。当然と言えば当然だろう。アーガルズ国王もシグルズ同様〈混血〉なのだから、神性を帯びた〈混血〉であるリンファに敵うはずもないのだ。
「……そもそも、あなたが事を起こさなければ〈人神大戦〉は起きなかった。あなたがその〈三国統一戦争〉とやらで何をどれだけ失ったのかは知らないけれど、それとは比にならないくらいの命が失われるのよ?」
剣を国王の腹から抜き、後方に飛び退るとリンファは言う。
「知ったような口を利く小娘じゃな。お灸をすえてやらねばならんかの」
アーガルズ国王は目を細め、リンファ、そしてシグルズの順に睨むと、真っ直ぐに右手を前に突き出した。
「鬼、という種を知っておるかの。世界樹第四階層〈巨人国リートニア〉に住まう巨人が突然変異を起こした種だそうな。普通の巨人とは違い、角を生やし、並外れた怪力を持ち、恐れられたという。そういう話が、世界樹第三階層〈魔族国サバト〉には伝わっておった。わしらアーガルズに住まう者にとっては当たり前ではなかったが、存外、あの国では他の階層への往来は当たり前の行為だったのやも知れぬ」
「それがどうした」
警戒を含む言葉をシグルズは槍と共にアーガルズ国王に向ける。
「なぁに、大した話ではないわい。わしの父はその権能から〈吸血鬼〉と呼ばれておった。ただそれだけの話じゃよ」
その言葉を皮切りに、アーガルズ国王の身体に異変が起きる。
アーガルズ国王が突き出した右手の指先、そこから一筋の赤黒い液体が下へと延びる。血液だ。彼の血液が線のように床まで伸び、床に触れる寸前でピタリと止まる。そしてその線を伝う血液が、肉付けしていくように彼の前に赤黒く長大な剣を一振り生み出したのだ。
それだけではない。細く欠陥の浮き上がった腕や足が、見違えるほどに太く、逞しくなっている。まるで――若返ったかのように。
「これが、国王の権能……」
その気迫に気圧されるシグルズとリンファをアーガルズ国王が再度睨む。彼の左目の上の額には、彼が右手に持つ剣と同様に赤黒い角が、禍々しく生えていた。
「覚悟はいいか、若造ども」
怯えるように揺らめく燭台の炎に照らされるアーガルズ国王に、シグルズは汗ばむ手に握る自分の槍――バルムンクを握り直した。




