33.聖剣フロティール
聖剣フロティール。それはリンファが自らの母親――フロティールから受け継いだ剣だった。鞘は存在せず、むき出しの白藍色の刀身が輝く、芸術品とも言える至極の逸品。
その剣の柄を、リンファはぎゅっ、と握りしめた。
場所はアーガルズ兵団危険物保管庫、その第四倉庫。燭台の揺らめく炎に照らされた白藍色の聖剣が光を反射して、黄金色に煌めいていた。
なんというか、呆気ないと称するのも馬鹿らしいぐらいに、件の危険物保管庫への侵入は完了した。第二倉庫のシグルズの得物バルムンク、第三倉庫の忌殺しの剣、そして第四倉庫に押収された聖剣フロティール。そのどれもがあまりにも容易に奪取でき、何か良からぬことが起きてしまうのではないかという焦りと、母から譲り受けた大切な聖剣を再びその手に握ることができたことによる安堵が、リンファの心の中に混在していた。
大切そうにその剣を握るリンファを見て、シグルズは言葉のまま「大切なものなんだな」と口にした。
「ええ。この剣はファフニールとの絆の証でもあるの。簡単には手放せないわ」
リンファは自分の手から伸びている聖剣に目を落とす。俯いたような自分の顔が、鏡面のごときその刀身に映っていた。
「さ、行きましょ。この場所にはもう用はないわ」
先に歩き出すリンファに、シグルズは「そうだな」と相槌を打ち、自身の槍――バルムンクを背負いなおした。
§
兵団内――もとい、アーガルズ城は異様なほどに静かだった。人っ子一人も見当たらず、物音さえも息を潜めている。人がいるのかさえも疑わしい。なんともわざとらしい静けさだった。とてもではないが、竜狩り騎士団団長のバロック・ハーヴェストがここまでやるとはシグルズには思えなかった。別の誰かが、なんてものは遠回りな言い方だが、おそらくアーガルズ国王が意図的にこの通路の――自分の居室への通路の人払いをしているかのように思えた。
「この剣は――」
シグルズの靴音しか響かぬその長い廊下に、リンファがついに静寂を破る。
「聖剣フロティールは〈保持者が自分より弱い者を必ず殺す剣〉よ」
そんな風に、淡々とした様子でか細い手がぶら下げる白藍色の細剣の力について打ち明ける。
「――いえ、正確に言うと逆かしら。〈保持者が自分より強い者を絶対に殺せない剣〉」
「不思議な剣だな」
シグルズはリンファの言葉にそんな感想を残した。〈保持者が自分より強いものを絶対に殺せない剣〉。なんとも違和感の残る能力だ。武器そのものだって、基本的には命を奪うための道具だ。それこそ、素手では太刀打ちできない自分より強い相手と渡り合うためのものである。
「そうね。でもこれは竜神ヨルムントが〈竜の守り人〉に課した枷なの。当然神々は〈竜の守り人〉よりも強い存在よ。精神力も技術も総合的に見て。そんな相手が仮にもし、〈自分より強い相手を殺せる剣〉を持っていたら、その存在は下手をすれば神々を脅かす存在になるわ。実際、聖剣フロティールの姉妹剣がそうだもの。今はその剣は竜神ヨルムントが管理しているでしょうけど。
だからこの剣は〈竜の守り人〉が神々に逆らえないようにするための枷。私があなたと初めて出会ったとき、私がフロティールであなたを貫いたのに、あなたがピンピンしているのにはそういう理由があった。私があなたに「人間じゃないわね」と聞いたのも、人間が〈竜の守り人〉に敵うはずがないからよ。おまけに私は〈混血〉だから先代の〈竜の守り人〉よりも力が弱い。魔族と人間の混血であるあなたに敵わないのも道理よ」
その説明に、シグルズは一つの疑問が頭の中に湧き上がった。視線を横に向ける。
「そもそもの話、リンファも〈混血〉なのだろう? お前は昔、『先代の〈竜の守り人〉の方が強かった』と言っていた。神々が〈混血〉のことを神を滅ぼす可能性を持つ存在とするならば、なぜ混血のお前は先代の〈竜の守り人〉より弱いんだ? そして逆に、なぜ人間と魔族の混血であるアーガルズ国王は強いんだ?」
「神性を帯びた者とそうでない者では、『血が混ざる』ということの意味が違うのよ。神――神性を帯びた存在は、基本的にただの偶像でしかないわ。地神フェンル、空神ヘイル、竜神ヨルムントの三柱の他にも、世界樹の各階層に一人ずつ管理者として神が配されているわ。そのどれもが実体を持たない、知性ある生命が『神がいる』と錯覚することで発生する偶像に過ぎない。私のように実体がある方が異例なの。それだけで、〈竜の守り人〉は他の神と比べて力が劣る。だから私の呼称は神ではなく守り人や、認めたくはないけど魔女になってしまう。そんな存在が実体として、他種族の血を混ぜることでより実体としての存在が強まる。つまり神性が薄まるの。だから神性を纏うものにとっての〈混血〉は弱体化に繋がるのよ。まあこれは、〈竜の守り人〉に限定されてしまうのだけれどね」
「神々はそんな〈混血〉のお前を忌み嫌ったと?」
「当たらずとも遠からずよ。実際、私が以前背負っていた使命は神々が私を処分する口実という側面があったのも事実だもの」
そう語るリンファの目はどこか悲しそうに見えた。
「神々が世界樹を育て、作りたいのは多様な種族が暮らす生命の樹。だから基本的に他の階層への行き来を禁じ、〈混血〉も忌むべき存在としている。それらは必ず、血を流す行為に繋がってしまうから」
「同じ種族同士でも争い、血は流れるだろう。実際、アーガルズが今の国王の手で統一される前は戦争ばかりだったらしい。神々はそこには目を瞑るのか」
世界樹第五階層が統一されたのは六十か七十年前、そのときに勃発していたのがいわゆる〈三国統一戦争〉と呼ばれるものだ。今のアーガルズは三つに分かれ、それぞれ争っていた。それを統べたのが――いや、終わらせて一人で屍の上に君臨したのが、今のアーガルズ国王だ。
三つの国の争いにたった一人で介入し、全てを終わらせた少年。誰よりも多くの命を奪ったが、それから先に失われるはずだった多くの命を救った人物ともされている。
今のアーガルズ国王から、そんな英雄じみた過去を想像するのは難しいとも言えるが、歴史に刻まれた紛れもない事実だ。
「それを神々は、その階層内で一つの種族が揉め事を起こした程度にしか捉えていないわ。同じ種族同士でさえ争うのだから、生命としての差があれば争いが起きてしまうのは自明の理でしょう? それだけは止めたかったの。
それに一つの種族で起きた出来事は、その種族の歩みよ。争いも、和解も、全ては模式的な実験。どのような力を与えれば、どのような行動を起こすか。小柄だけど翅と魔法の力を持つ妖精、魔法も翅もないけど頑強な体躯を持つ巨人、翅も巨躯も持たないけれど卓越した知性と魔法を持つ魔族、その全てを持たない人間という、四つの種族を一つの箱に入れてそれぞれの種族ごとに区切って様子を観察する神の箱庭――それが世界樹。世界を創り、観察して愉悦に浸っているの。人間はそんな世界樹の体裁を崩しかねない存在になってしまっているから、こうして〈人神大戦〉が起きてしまったのよ」
「その原因を、今から討ちに行くんだろう」
「討ったところでどうにもならないと思うけれどね」
リンファが呆れたように笑う。
そんな、無駄とも無駄ではなかったとも感じられる会話と共に、長かった廊下が終わりを告げる。目の前に現れたのは大きな観音開きの扉だった。アーガルズ国王の居室である。
扉は僅かばかり開いていた。中の明かりが零れ、シグルズに向かって一直線に伸びている。その光の筋はまるで、シグルズを掴んで引っ張ろうとしているかのようだった。
「……行こうか」
シグルズは槍を握る手に力を込め、僅かばかり開いていた扉の隙間を、ゆっくりと広げた。




