31.私はあなたのことが――
ケーキ屋でお腹と心を満たした後、エルマはソフィアと共に自分たちの居室に向かっていた。時刻はちょうど、時計の短い針が真左を向く頃だった。
基本的にアーガルズ兵団に所属するものは、全員が兵団所有の兵舎にて生活している。女子兵舎と男子兵舎に別れ、男子兵舎が七棟、女子兵舎が一棟ある。話によると女子兵舎は新しく建てられたばかりで男子兵舎よりも広くて綺麗だということだが、廊下は狭く壁は薄い。基本的に室内での話は隣の部屋に駄々洩れだ。もちろん廊下にだって遠慮なく声が漏れている。
つまるところ、この女子兵舎内の噂という噂は壁一枚すら無視して耳に飛び込んでくるのだ。
「例の〈竜の守り人〉を逃がした〈混血〉の一等騎士、捕まったらしいよ」
廊下を歩くエルマは、一枚の壁を挟んだ部屋の中で、聞き覚えのない女性兵士のする噂話を耳にした。
その声が聞こえていたのはエルマだけではなく、ソフィアの耳にも届いていた。だからソフィアは「どこに行くの」と険しい声でエルマの腕を掴み、引き留めた。
エルマはいつの間にか体ごと振り向き、今にも駆け出しそうなほど前のめりになっていた。
「離して」
「離さないよ。会いに行ってどうするの」
そんなこと、エルマにも分からなかった。ただそれでも、エルマの足は大好きな人の元へと向かおうとしていた。
「……お願い、離してソフィア」
振り返り、ソフィアの目を見つめる。
ソフィアは「恋する乙女になに言っても無駄かぁ」とぼやきながら、エルマの腕を掴んだまま自らに引き、そのまま抱き寄せた。
「今まで、自分の気持ちを真っ直ぐ伝えた事ってないんだよね?」
「うん」
「気持ちを伝えたらスッキリする?」
「すると思う」
「後悔しない?」
「……多分」
少しずつ、ソフィアの問いに対するエルマの答えは曖昧なものになっていた。それでもソフィアは「うん、分かった」とエルマを突き放し、背を押した。
「邪竜退治の英雄になっちゃう前に、しっかり恋する乙女やってきな。英雄になった後はきっと忙しいぞ~」
言って、微笑みをエルマに向けた。
エルマはそれをしっかりと受け取ると、同じように微笑み返す。
「行ってくる」
そう言い残して、狭い女子兵舎の廊下を駆け抜けた。
地下牢の場所は知っていた。あの日の夜、最後に見た大好きな先輩の背を追いかけるように、兵舎の廊下を走り抜ける。
地下牢へ通ずる石造りの階段を駆け下り、看守の兵士を見つけると、シグルズへの面会を求めた。「竜の守り人を逃がした反逆者と話をしたい」と。看守は訝しんだが、自分が見ている場所で話をするならいいとのことだった。
地下牢の場所は知っていたが、入るのは初めてのことだった。薄暗く、纏わりつくような湿気が肌を舐めまわしていた。
視線を左右に揺らしながら、目的の人物を探す。
彼は、思いのほかすぐに見つかった。暗い地下牢の中、温もりのない鉄格子の向こう側、特徴的な錆色の短髪が、闇の中で映えていた。
彼がエルマを見た。「エルマ……?」と呟いた。
その驚きの表情と視線がエルマに吐き出させた言葉は、会えた喜びに胸を躍らせる言葉でも、ましてや熱した恋心が溶かし出した言葉でもなかった。
「……嘘つき」
たったそれだけの、燻る感情だった。
自分でも気づかぬうちに瞳は濡れ、溢れるように頬を伝った。
「一緒にケーキ屋さんに行くって約束してくれたじゃないですか……。なんで、約束破ったんですか……」
「それは……」
シグルズが言葉を詰まらせる。
エルマの問いは、もはや問いですらなかった。理由なんて、自分が一番よく分かっていた。
エルマの大好きな先輩は、とても優しい人だった。優しすぎて、人間よりも人間であろうとした人だった。それ故に敵に情を抱き、悩みを抱えた。その悩みを解いたのは他ならぬエルマ自身。鉄格子の向こう側にいる彼は、エルマが彼の背を押した結果そのものだ。そんな彼に「なんで」と問うたところで、自分が知っている以上の答えは得られない。それでも、エルマはシグルズに対して「なんで」と繰り返した。
「なんで、捕まってるんですか。騎士の肩書も捨てて行動して、どうしてここに戻ってきたんですか。なんで私に黙って行っちゃったんですか。なんで、私を選んでくれなかったんですか」
答えは求めていなかった。ただひたすらに、言いたいことをぶつけていた。そうしてようやく、自分の本心を、今まで秘めていた想いを、シグルズに零した。
「私、先輩のこと好きだったんですよ。だから、訓練校のときから言葉遣いも変えて、お洒落も頑張って覚えて、それでもなかなか振り向いてもらえなくて、頑張ってデートに誘って、告白しようって心に決めて、決めて、いたのに……。先輩の他人を思う優しさに、私の想いは勝てなかった」
地下牢特有の湿った空気を肺の中に入れられなかった。途中で詰まり、そのまま浅い呼吸で吐き出す行為を繰り返す。視界に映るものは、いつの間にかシグルズから地下牢の土製の床に変わっていた。
「……私、邪竜討伐作戦に参加するんです。自分から志願しました。こんな中途半端な自分に、踏ん切りをつけたくて。私は、アーガルズ兵団、竜狩り騎士団所属の三等騎士、エルマ・ライオットです。先輩が自らの意思を選ぶなら、私は騎士としての意志を貫きます。私は騎士としての自分を選びます」
だからもう、さようならと、もう一度シグルズの顔に視線を向ける。大好きだった先輩の目を見た。そして一言。
「私はあなたが――大嫌いです」
その言葉を最後に、三等騎士エルマ・ライオットは地下牢を後にした。
§
エルマが自室に戻ると同居人に「気持ちは伝えられた?」と問われた。声に出さずに首を縦に振るだけで彼女の質問への答えとした。
俯かせた顔を持ち上げたエルマはベッドに座ると、短くため息を吐く。顔を上げ、まるで独り言のように同居人の顔を見てこう言った。
「嘘つきは私の方だったよ」




