22.ファフニール
「触レルナ、汚ラワシイ魔族ノ分際デ」
直後、アンテロの視界から少女の姿が遠ざかった。
否、逆だ。アンテロ自身が少女から遠ざかったのだ。初動は何もなかった。唐突に、何の前触れもなく吹き飛ばされ、背を壁に強く打ちつけられた。
「な、は……?」
あまりに突然のことに、アンテロは混乱した目で少女を見つめた。
何も変わっていないはずだ。彼女自身、何も変わっていないはずなのだ。髪はぐちゃぐちゃだし、目は虚ろだし、衣服もボロボロで汚れている。だというのに、彼女からは先ほどまではなかった覇気が、殺気が止めどなく溢れていた。
そんな少女の形をした何かが、アンテロにゆっくりとゆっくりと歩み寄る。
「分カラン。分カランナ。何故ニ、ソノヨウナ愚行ヲ犯ス?」
その口調は、明らかにアンテロの知っている少女のそれではなかった。もっともっとモノを知っていて、悟っていて、心の底から問いかけるでも責め立てるでもない、そんな口調だ。今喋っている相手が、少女ではないことは明らかだった。
「だっ、誰だ!?」
まるで動揺を隠すように、自分を大きく見せるように、アンテロは声を張り上げて問う。
「下賤ナ魔族ニ名乗ル名ハナイ。ガ、貴様ナラ分カルデアロウ? 魔族ノ王ヲ目指ス者ヨ」
その言葉に、アンテロは思い当たる存在が一つあった。目の前の青髪の少女は世界樹第七階層――〈竜域〉にいる邪竜ファフニールの守護者だ。唯一邪竜と意思疎通が図れる存在、それが〈竜の守り人〉――アンテロたち魔族の言う〈竜の魔女〉だ。
ともすれば、その〈竜の魔女〉の身体を借りて喋っている存在が何者なのか、深く考える必要もなかった。
「邪竜ファフニール……!!」
少女は、いや、ファフニールは虚ろなままの瞳をしながら、その口には不気味な笑みを浮かべた。
邪竜ファフニール。またの名を守護竜ファフニール。世界樹第七階層以上の〈神界〉の守護者。世界樹の中に存在する生命体の頂点。眼前のあまりにも強大すぎる存在に、アンテロは「なぜ」と零す。
「ありえない。ありえないぞ。ファフニールと意思の疎通ができるのは〈竜の魔女〉だけだ。お前がファフニールだというのなら、なぜ今僕と言葉を交わしている!? 僕の言っていることが理解できる!?」
「――言葉を交ワセるコとが意思疎通ノ本質ではナカロウ? 言葉は意志疎通の手段ニ過ぎナイ。言葉を交わせタとしテも、私はお前ヲ理解でキナイし、理解しようとも思ワナイ。それと同ジで、お前は私を理解できナいだろう。これのどこを、『意思の疎通ができる』と言うんだ?」
「……っ! そうじゃない! ただの竜のお前が、なぜ人語を理解できるのかを聞いているんだ!! 〈竜の魔女〉が邪竜ファフニールと意思疎通ができるのは、何も会話ができるという意味じゃないはずだ。思念的な繋がりを持ち、互いの意思を理解しているはずだ。お前が、邪竜ファフニールが吼えることしかできない非知的生命体だからだ!」
アンテロが叫ぶと、ファフニールの眉が少し下がる。
「非知的生命体とハ、心外だな。世界樹に住マう生命体で最も上位のこの私に、知性と理性が備わっていないとでも思ったか? 人の言葉は理解できる。しかし発声の方に問題があってな、お前の言う通り吼えることしカできん。今人語を話せるのは、リンファの身体を借りているからだ。こうして人の姿で声を出すのは幾百年ぶりだろうか。そろそろ声の出し方に慣れてきた。貴様も聞き取りやすくなっただろう?」
アンテロは未だに混乱していた。困惑していた。なぜという疑問詞ばかりが頭の中を埋め尽くし、ファフニールの存在を目の前で起きた事象として処理できないでいる。
アンテロは一度目を閉じ、俯き、深く深呼吸した。
おそらく、眼前にいるのは邪竜ファフニールで間違いない。問題なのは、奴がなぜこのタイミングで現れたかだ。
アンテロの頭の中には二つの可能性があった。一つ、〈竜の魔女〉を傷つけた自分を葬りに来た。二つ、自分の存在を認め、〈竜の魔女〉を受け渡しに来た。
状況からして、後者ではないことは明らかだった。明らかだったのに、アンテロはその可能性を捨てきれなかった。捨てられなかった。捨てることを恐れた。その可能性を捨てることが意味するのは、アンテロ自身の死だ。彼がどう足掻こうが、邪竜ファフニールには敵いっこない。だから最悪の未来に流されないために、アンテロはその可能性に必死にしがみついたのだ。
「さて」
ファフニールが話を切り出す。
「私が貴様の前に姿を現した理由は分かるな?」
アンテロは頷いた。首を横に振りたくなかった。
「なるほど、準備は出来ているというわけか」
ファフニールがにたりと笑う。
その笑顔に、アンテロは安堵した。
良くないことを企んでいる顔と言うのを、アンテロは嫌というほど知り尽くしている。というより、魔族そのものが種族絡みでそういう顔をするのだ。その顔で平然と人を殺し、嗤っている。今のファフニールが、そんな魔族と同じ顔をしていることにアンテロは気づいた。
「当然だ。全てこうなるためにやってきたことだ。ようやく悲願が叶う。さあ、襲ってくれ。僕自身がその肉体を組み伏せるつもりだったが、逆でも構わない。僕はその身体に、僕の子を――」
「何を寝言を抜かしている?」
直後、鈍い音と共に視点が床に落ちた。かと思えば、視界に広がるのは天井。そして回るようにして床の模様が見えたかと思えば、再び天井が見えた。また少し視界が動いて――自分自身の、首のない胴体が見えた。
「――へ?」
「何を間抜けな顔をしている? 私が来た理由を知っていたのだろう? 全てこうなるためにやって来たのだろう? ようやく悲願が叶うのだろう? ほぅら、願いを叶えてやったぞ?」
「ち、が――、ぼ……くは――」
そう口を動かし、かすれた声を出すアンテロの頭を、ファフニールは踏みつける。
「私の大切なものに手を出すな。穢すな。この子に罪はない。混血のこの子には、生まれてきた子どもには罪はないのだ。守ってほしいと彼女に言われた。だから私はこの子を守る。〈竜の守り人〉? いつの時代の話をしている。この子はただの、汚い血が混ざってしまった人間擬きだよ」
ファフニールは俯きがちにそう言うと、アンテロの頭を軽く足で転がした。
〈獣慾の魔人〉アンテロ・バストロヴィーナの息は、そのときには完全に途絶えていた。




