21.天は我にあり
大丈夫かい、と声が聞こえた。リンファはゆっくり、錘をつけられたかのような瞼を開く。ぼやけた視界に映ったのは、〈獣慾の魔人〉――アンテロ・バストロヴィーナだった。
「良かった、目が覚めたんだね」
頭が痛い。視界が霞む。口の中は未だに鉄の味がした。
「……私の、視界に、入らないで」
目の前のアンテロに、体力が許す限りの拒絶を示す。しかしアンテロはリンファの拒絶を意にも介さず、「もう大丈夫だよ」と囁く。
「あなたを痛めつけた魔人は殺したよ。痛い思いを、辛い思いをさせたね。もう大丈夫だ。この僕が、アンテロ・バストロヴィーナがついている」
「……近寄ら、ないで」
差し伸べられたアンテロの手を払い除けようと、震える腕を伸ばし――触れるだけだった。払い除けるほどの力も残っていない。瞼も腕も重い。
「随分憔悴しているね。いま、傷薬と、それから水や食事を用意しよう」
かつりかつりと床越しに鼓膜に響く靴音が煙に巻かれるように遠ざかっていく。
リンファの意識は既に薄れかけ、瞼は半ば落ちていた。
「少しだけ待っていてくれ」
アンテロの声が遠くから聞こえる。扉が開く音が聞こえる。そして重たい音を立てて扉が閉まった音が、眠りにつくリンファの意識の間際に響いた。
§
「調教が足りない」
扉を閉めたアンテロが一番に発した言葉はそれだった。
「もう少し痛めつけようか」
「よろしいのですか? 相手は竜の魔女なのでしょう? 罰が当たるのでは……」
アンテロの隣を歩く男が不安げに言う。先ほどリンファを足蹴にした、白い服を着た男だった。
「たしかに、彼女は僕たち魔族にとっては神にも等しい存在だ。だけどそこに居る彼女の命と、僕たちの命の重さに大差はないだろう? 神を神たらしめるのは僕たち生命の思い込みだ。なんなら、僕たちの住まうこの世界樹こそ神だと思うけどね。世界樹第九階層――〈神域〉に住むという地神フェンル、空神ヘイル、竜神ヨルムントの三柱は人間や妖精、巨人が神だというから神なのさ。実際、僕たちが神だと思っていたのがあの少女だ。お前はあれを神と仰ぐことができるか?」
男はアンテロの言葉に静かに首を横に振った。
「そうだろう。僕だってそうだ。彼女を目の前にして、神だと思えるはずがない。見ただろう、惨めに血を流し、地に顔を伏せて、やめてと懇願する彼女を。とてもじゃないが神とは思えない。しかし、生命そのものには神性を纏っている。神に相違ない。そんな彼女との間に子を成すことができれば僕は、バストロヴィーナ家は神の領域に一歩近づける」
「……しかし、神を神たらしめるのは思い込みなのでは?」
「そうだ、思い込みだよ。人間の、妖精の、巨人の、そして僕たち魔族の。ようは僕が僕自身を神だと思い込めばいいんだ。そうすれば僕は神になれる。けれどまだその資格が僕にはない。ただの魔族だからね。だから神に等しい竜の魔女を伴侶にするんだ。そうやってようやく、僕は自分自身を神だと思い込む資格を得る。自分は神だと名乗ることができる」
アンテロが立ち止まる。
少し先まで歩いた男が足を止め、アンテロに振り返る。
「大丈夫だ、お前には僕の子どもを娶らせる。そうしたら今度はお前も神の端くれだ。僕ほどではないがね。そうやって全員を巻き込んで、魔族そのものを神格化する。この世界樹第三階層という低層から、上の階層でふんぞり返っているクソみたいな神々との序列を入れ替える。階層も種族も関係ない。本当の意味で世界樹を統一する」
アンテロは真っ直ぐに人差し指を天井に向け、腕を振り下ろして床を指さした。
「天は我にあり。世界樹を――ひっくり返す」
§
〈不出の結界〉に閉じ込められてから二日が経った。ウィノラはというと、先に〈四肢の固着〉を解いて結界の解除に精力を注いでいた。
その間シグルズは自身の無力さを痛感しながら、ウィノラに言われるあれこれをやってのけていた。
「昼食ができたぞ」
「ありがとう、そこに置いておいてくれ。あとで食べる」
言葉だけを返したウィノラは振り返りもせず、視線を家の扉の取っ手に注いでいる。
「……二階で少し槍を振るってくる」
「家を壊すなよ」
シグルズはウィノラのその言葉を背中で受け、重たい足取りで二階の屋根裏部屋へ上がった。槍を振るうとは言ったが、思い切り振るには部屋は狭い。本当に軽く穂先を動かすぐらいのものだ。
そうやって、自分に出来ることをして、無力さを紛らわしていた。
自分はもっと、できる人間だと思っていた。誰よりも強くあろうと、優しくあろうとした。人間らしくあろうとした。人間らしくあろうとしたせいで、守れないものが出てきてしまった。もし自分が魔族として生きていたのならば、もっと力を持っていて、守りたいものも守れたのだろうかと、そんな考えを頭の片隅に抱いてしまう。
実際、どちらが正しい選択なのかは分からない。過去は変えられないし、その積み重ねが現在の結果を作り出している。こんな結果が来るなんて、だれが想像したか。
人間らしくあるために人間の側に付き、〈人神大戦〉に一人の騎士として参加した。その中で、神々の側に付く〈竜の守り人〉の少女と出会った。人間の、アーガルズ国王の穢れた心を知った。人間だと思い込んでいた自分の心は、人間なのか魔族なのかよく分からなくなっていた。
随分と中途半端な存在になったものだと、シグルズは槍を床に置き、自身に嘲笑を向けた。
「……弱いな」
己の嘲笑は、そうして指をさしながら、シグルズを再び嗤った。
§
思ったよりも早く事が進みそうだと、アンテロ・バストロヴィーナは不敵に頬を吊り上げた。目下には、生気を失くし、項垂れた様子の青い髪の少女がいた。綺麗だったはずの髪は激しく乱れ、纏っていた服も血が滲み、端々は解れて糸が飛び出している。
「大丈夫かい?」
優しく声を掛ける。反応はない。
調教は二日間だっただろうか。神を相手にするのだからと、長期的な躾を想定していたのだが、ものの一週間もかからなかった。中身は年相応の少女なのだろう。いや、年相応というのは正しくはないかもしれない。見た目からすれば十六、十七そこらの年齢だが、実際は三百を軽く超えているだろう。ともすれば、中身は見た目相応の少女、と評するべきか。
そんなことを考えながら、アンテロは少女に手を差し伸べる。
「あなたを虐める人はもう何処にも居ないよ。さあ、僕の手を取って」
反応はない。
「あなたには僕がついている。怖い思いも苦しい思いもさせない。だから、ほら。僕の手を取るんだ」
少女の身体がピクリと動く。乱れた青髪の隙間から、虚ろでくすんだ蒼い瞳がアンテロを覗いた。いや、その視線がどこに注がれているのか、アンテロにも読み取れなかった。
あまりに生気がなくて、死体のような目をしていた。それだけで、彼女の心が壊れていることが分かった。
ゆっくりと、少女の手がアンテロに伸びる。本当にゆっくりと、ゆっくりと。挙げられたその手を、アンテロは自分から掴みに行った。完全に彼女は自分のものだという占有感が、彼を支配した。
誰にも渡すまいと、そのか細い腕を強く強く握りしめる。胸の高揚に、高鳴りに、釣り針に掛けられているかのように、頬が吊り上がった。
少女の口が僅かに開く。
何かを伝えようと小さく動く。
アンテロは心に余裕を持っていた。彼女の心を支配できた。自分のものだ。神に近しい竜の魔女の腕を、今握っている。ここでその細腕をへし折るのも、押し倒して抱いてしまうのも、自分の裁量次第だ。
全てすべて、自分の思うがままだ。
「どうした? 僕に何か伝えたいことがあるのかい?」
アンテロは少女の出自や事情を忘れていたわけではない。ただ、聖剣を持たず魔力炉も奪われた状態の彼女が、自分に敵うはずがないと油断していた。油断しきっていた。彼女の傍にあの混血の男がいなくとも、彼女は一人ではないということを、忘れていた。
「……レル……ナ」
「なんだい?」
「触レルナ。汚ラワシイ魔族ノ童ノ分際デ」




