20.嫌悪
リンファが目を覚ましてから数時間が経った。時計が室内にないため、実際にどれほど時間が経ったかは分からないが、体感ではそんな感じだ。部屋には窓もなく、あの赤紫色の空の様子も窺えない。
今はただ、待つしかないのだ。
「リンファさん、いるかい?」
扉の向こうからアンテロの声が聞こえる。扉が三度、軽く叩かれる。もちろん、リンファはその呼びかけに反応を見せなかった。
「まあ、いないわけがないんだけどね」
反応を見せる必要はなかった。反応せずとも、この男は勝手に入ってくる。
「何の用?」
部屋に入ってきたアンテロを、見上げるように睨む。
「君が目覚めた時間、朝八時からそろそろ三時間経つ。食事を振舞っていないことに気づいてね。遅めの朝ご飯、ちょっと早めの昼ご飯でもいかがかと思って」
アンテロが指を鳴らす。すると再び扉が開き、ワゴンを押した白い服の男が一人入ってくる。ワゴンのバットの上には、湯気が立ち上る肉料理らしきものが窺えた。
「我がバストロヴィーナ家お抱えの料理人に作らせたものだ。きっと口に合う」
白い服の男――料理人がバットを持ち、リンファの方に歩み寄ってくる。見つめるそれから視線を外し、アンテロの方に向けると語気を強めて「要らないわ」と訴えた。
「魔族が作った料理なんて食べられないわ。ましてやあなたの差し金なら尚更」
リンファのその言葉にアンテロは悲しげな表情を見せた。
「そう言うのなら無理強いはしないさ。ただ、あなたには健康的でいてほしい。お腹がすいたら食べるんだよ。生き物は食事をしなければ死ぬ。〈竜の守り人〉は低位の神と等しいが、本物の神と違って思念体じゃない。肉体があるからね。用件はそれだけだ。ここらでお暇するよ」
言い残し、アンテロは部屋を出て行った。静かに扉が閉まる。
「あなたも出て行きなさいよ。目障りだわ」
未だに部屋に残っている料理人の男に言う。しかし男は微動だにせず、真っ直ぐ視線をリンファの方に落としていた。
「……なによ、その目は」
ナイフを突き立てるかのような睥睨の視線を向けてくる。直後、男は何の前触れもなく突然リンファの腹部を蹴りつけた。
鳩尾に響く鈍い痛み。酸が喉を上ってくる感覚に、口元を押さえる。呻く。
明らかな嫌悪感を含んだ一撃だった。横倒れになり、片手を口元に、もう片手を鈍痛が残る腹部に当てる。そんなリンファの顔を、男が踏みつける。
男は何一つ言葉を発さなかった。頭を踏みつけ、腹を蹴った。何度も。何度も何度も何度も。終いには髪を掴んで持ち上げて、顔面に重たい一撃を見舞わせ――。
「や、やめ――」
言葉を言い終わる前にもう一撃。
髪を鷲掴みにする男が手を放す。リンファの身体は崩れるように床に倒れ伏した。
意識が朦朧とする。口の中は鉄の味がした。床には赤い斑点が幾つも散らばっていた。視界が涙なのかなんなのか分からないもので霞む。
男の後姿が、リンファの元を離れていく。意識が遠のく。ぼんやりする頭の中に最後に聞こえたのは扉の開く音。そして扉の閉まる音は、リンファの耳には既に届いていなかった。
§
「アンテロの奴め、抜かりないな」
そう言うウィノラの頬は吊り上がっていた。依然として彼女は身動きを取らない。いや、取れないのだ。仮面の端から、彼女の頬を伝う冷や汗をシグルズの目が捕らえる。
ウィノラの行った〈四肢の固着〉。読んで字の如くの魔法だろう。脚も、腕も動かさない彼女自身が、その証拠だ。そしてもうひとつ――。
「〈不出の結界〉というのは?」
シグルズが問うと、ウィノラは首だけをこちらに向ける。
「簡単に言うと閉じ込める結界、陽魔法の一種だ。〈四肢の固着〉は陰魔法、アンテロは陰魔法の使い手だ。結界の方は別の奴の魔法だ。屋敷の誰かが陽魔法使い、そいつの力を借りたのだろう」
「出られるか?」
「時間を掛ければな。ただ――」
そこでウィノラは言葉を止める。その様子に不穏な空気を感じたシグルズはウィノラに付けより「何か問題があるのか」と問う。
「――アンテロは自分の獲物を今すぐに我が物にする男じゃない。必ず時間をかけて服従させる。だがその手法が汚くてな。従者にわざと獲物を痛めつけさせ、それを分かりやすい形でアンテロが咎める。獲物に手を差し伸べる。それを繰り返して、繰り返して――最後に獲物はアンテロを心の拠り所にする。そういうやり方をする男、いや、そういう悪知恵が働く男だ。今まではそれを自身の弟に教え、実行させていたが、今回は自分でやるだろう」
「……つまり、どういうことだ」
ウィノラがシグルズから顔を背け、俯くように下を向く。
「リンファの心がどれほど保つか、それが心配だ。長引けば長引くほど、彼女の心はすり減る。来ない助けに諦めの心を持つ。アンテロの差し伸べる手を取らないとは言い切れない」
それを聞いて、シグルズは歯を食いしばった。
窓を割って無理にでも出てやろうかと考えた。ウィノラを置いていく羽目になるが、構いはしない。
「やめておけ、無駄だ」
窓ガラスに殴りかかろうとするシグルズをウィノラが言葉で止める。
「やってみなければ分からんだろう」
「よさんか。そんなことでどうにかなる結界ならば、結界が発動したときにお前にそう言っている」
「……っ」
シグルズは挙げていた拳を静かに下ろす。
「結界の開放は、具体的にどれぐらい掛かる」
「〈四肢の固着〉は半日、〈不出の結界〉は不休でやって三日だ。〈不出の結界〉は本来、そこまでややこしい魔法じゃない。だがこれはかなり複雑に魔法が編み込んである。解けることは確実だが、時間は掛かる。本当に足止めのつもりでやったのだろう」
「その間に、俺に出来ることはないか」
「魔法という観点で言えばない。まあ、不休で結界の開放をするとなると、私の身の回りの世話くらいだ。可能な限り早く終わらせる」
「……分かった」
返事をした後、ウィノラの手元が淡く輝き始める。
「結界を解放しろ」
ウィノラが呪文を唱えると、輝きがより強まる。その眩さに、シグルズは目を細める。
「……任せる」
何もできない自分に悔しさを滲ませながら、シグルズはその言葉を噛みしめる口から零した。




