19.罠
目が覚めたシグルズは、隣にリンファがいないことにひどく動揺した。寝覚めは良くない方だが、この日は珍しく飛び起き、階段を駆け下りてウィノラに事情を説明した。「寝ている間にリンファが姿を消した」と。
話に、ウィノラは難しい表情を浮かべた。
「アンテロの奴め、私が昨日結界の準備をしていると踏んで、昨晩の内に行動を起こしたか。本当だったら今日のうちにこの家に結界を張るつもりだったが。先手を打たれたか」
「リンファはどこにいる」
詰めるようにシグルズは問う。
「焦るな。場所は恐らくバストロヴィーナ家の第三屋敷だ。ここからそう遠くはない」
答えを聞き、シグルズは急いで部屋に戻ろうとする。自身の相棒である槍――バルムンクは二階の屋根裏部屋に置かれている。自意識過剰だが、自分はそれほど弱い人間ではないと、シグルズは自己評価している。アンテロの権能は〈獣慾の権能〉。簡単に言ってしまえば性欲が強いだけだ。戦闘向きじゃない。魔法戦となると分からないが、肉弾戦ではこちらに分があると踏んだのだ。そう判断したシグルズを、ウィノラが「待て」と止める。
「どこに行く」
「決まっている。準備をしてその屋敷とやらに攻め入るんだ。リンファを救い出す」
「待て、そう急くな」
「では、このままリンファを放っておけと?」
「そうは言っていない。この後助けに行くつもりだ。ただ、落ち着け、と言っているんだ。状況の整理と、下準備がしたい」
その発言にシグルズは押し黙る。
確かにその通りだ。戦う前の下準備は大事である。傍に居たはずの少女がいなくなって、少し焦ってしまっていたようだ。
「そうだな……」
少し冷静になった頭で答える。一度深呼吸をしたシグルズに、ウィノラは頷き「まず初めに言いたいことがある」と切り出した。
「シグルズ、きみ一人ではアンテロには勝てん」
きっぱりと、言い切った。その言い草に、異を唱えると言わんばかりに「理由は?」と問い返す。
「シグルズ、きみは寝込みを襲われたときに目を覚まして対処できるか?」
「ああ。アーガルズ騎士団に所属する騎士は皆、訓練している。出来ないやつはいない」
「では昨晩、なぜきみはアンテロがリンファを誘拐したことに気づかなかった?」
「……それほど俺よりも上手ということか」
「そうだ。アンテロの権能――〈獣慾の権能〉はきみの母君のように戦闘向きじゃない。だが、それを補って余りある魔法の技術を持っている。おまけに奴は貴族の出だ。剣も多少なりと嗜んでいる。屋敷にはボディーガード替わりの手練れの魔人だっている。正面から突っ込んでどうこうできるものじゃない」
確かに、一筋縄では行かなそうだ。単騎で突っ込むのは無謀に等しい。
「ではどうするんだ?」
「私の権能を使う」
ウィノラは間髪入れずにシグルズの問いに答えた。
「私の権能は実に隠密向きでね。この力で何度か死線を抜けてきた」
「どんな権能だ?」
「見た方が早い」
ウィノラは口元に人差し指をあてがい、不敵に笑った。程なくして、シグルズの目の前から溶けるように姿を消した。
確かに、説明を聞くよりも分かりやすいだろう。隠密向きと彼女が豪語したのも頷ける。
「〈溶影の権能〉というらしい。見ての通り、姿が消える。それだけだ」
ウィノラの説明に、シグルズは然したる感想を持たなかった。同じような魔法を知っているし、なんなら使った経験だってある。それならできるぞと言い、呪文を唱える。
「隠れろ」
恐らく、これで互いに互いの姿が見えない、なんともおかしな状況になっただろう。ウィノラの様子は窺えないが、「ふむ」と言葉を漏らしたあたり、シグルズの変化は見えているのだろう。彼女の続きの言葉を待つ。
「……きみがなぜ陰魔法を使えるのか分からなかったが、そうか、〈貪汚の魔女〉シアナか。色々な人間から魔力炉を奪っていて分からなくなっていたが、彼女はもともと陰魔法を使う魔女だったな。先に言っておくが、魔法では私を欺くことはできんぞ」
声と共にかつりかつりとヒールが床を踏み鳴らす音がする。ウィノラが近づいてきているのだろう。かつり、かつりと。そしていきなり、軽い衝撃音と共に額にかゆみを伴う痛みが走った。悲鳴を上げるほどではないが、詰めの感触が残る額を押さえる。
「見えているのか」
「もちろんだ。陰魔法は他者の精神に作用する魔法だ。別に、きみの姿が消えているわけじゃない。周りの者にとって消えているように見えるだけだ。精神力が強い者、特に魔族にはその手の魔法は効かんよ」
「権能は違うのか?」
「ああ、私の権能は他人の精神に作用しているわけじゃない。私自身を透明にしているんだ。だから精神の強さ云々に関わらず、私の姿は他人には見えない」
なるほど確かに、どこかに忍び込むには使い勝手のいい権能だ。これであれば、アンテロの屋敷に囚われたリンファを救い出すことも容易だ。
「これで私自身の説明は終わりだ。乗り込む際はこの権能を使う。もちろん、これはきみに適用することも私の裁量で可能だ。あとは、そうだな。シグルズ、君が使える魔法を教えてほしい。恐らく陰魔法と水魔法だけだろうが。何ができるのかを把握しておきたい。アンテロとの戦闘に陥ったときには私が指示を出す」
言われ、シグルズは思い当たる節を全てウィノラに伝えた。陰魔法が「隠れろ」含めて三つ、水魔法が十数種類。
聞くだけ聞いて、ウィノラは特別何かを伝える素振りは見せなかった。
「作戦など、突発的な実践では無意味だ。その時々の状況で戦術は切り替える。それぐらい柔軟に行かねばアンテロには勝てん。もちろん、戦わないに越したことはないがね」
作戦について尋ねたシグルズに、ウィノラはそう言った。
「さて、準備も整った。アンテロの屋敷まではそう遠くない。今から行こうと思うが、心の準備はいいかね?」
仮面越しに視線を向けるウィノラに、これまた仮面を着けたシグルズは頷き返す。
「それでは行こうか。我らが神を救いに」
ウィノラがドアノブに触れる。
そのときだった。ウィノラの動きがぴたりと止まる。まるで氷像になったかのように動かないウィノラに、「どうした」とシグルズは手を伸ばす。
「触れるな」
彼女がドアノブを掴む手に触れようとした瞬間、静止の声が入る。そしてウィノラは上を向き、乾いた笑い声をあげた。
「……アンテロの奴め、姑息な真似をしおって。これは一枚喰わされたな。私が先にこの家を出ると踏んで、こんなものを……」
シグルズは腕を引っ込め、眼差しを仮面越しにウィノラに向けて、「何が起きた」と問う。
ウィノラは顔をこちらに向け、そしてドアノブを握った手に落とした。
「罠だよ。私がドアノブを握ることが発動条件の。罠の内容は、私の四肢の固着と、この家の壁を這うように仕掛けられた〈不出の結界〉だ」




