16.拠り所
濡れた器を食器棚に戻しながら、丸窓の外に目を向ける。
外は既に暗い。空の色は、世界樹第三階層〈魔族国サバト〉特有の赤紫の空に黒を足したような、不気味な空だ。あまりにものんびりとしているが、ここが今まで自分が生きてきた〈アーガルズ〉とは別の場所なのだと、シグルズは再認識する。
後ろを振り向いてみる。
魔女ウィノラは、洗いものを居候であるシグルズたちに任せ、揺り椅子に揺られながら分厚い本を読んでいた。
ふと、横を見る。
自分よりも一回りほど小さな、(アーガルズにおける)空色の長髪の少女が、手を泡だらけにして食器を洗っている。
「……なによ」
見つめていると、睨まれた。
「いや、今まで食事はどうしていたのかと思って」
などと、聞こうとも思っていなかった疑問が不意に零れる。彼女が料理できないことは、先ほどの食事をもってして証明された。砂糖と塩を間違える奴が本当にいると、シグルズは思っていなかった。こうして目の当たりにすると、もはや何も言えなくなってしまう。
「ファフニールが狩ってきてくれたのよ。世界樹第七階層〈竜域〉は木々が生い茂る森よ。動物もいれば食べられる植物だってあるわ。食べることには困らない」
「とんだ野生児だな」
「失礼ね、自然に順応していたと言いなさい。これが本来、生命のあるべき姿よ。人間は知恵をつけすぎた」
「より生きやすい、文化的な行動を起こした結果だ」
「その結果、人間は他の種族を侵略するような蛮族に成り下がったのよ。野生の獣は一体どちらの方かしらね」
「……獣は、一人だけだよ。本当は誰も争いなんて望んじゃいない」
シグルズが〈獣〉と称した人物、それは紛れもないアーガルズ国王だ。妖精や巨人に対する侵略戦争も彼が始めたことだし、〈竜域〉に攻め入ったのも彼の命令だ。
〈混血〉である国王は、とんでもなく強く、そして恐ろしい。誰もが彼の前で膝をつき、首を垂れるしかできない。そうしなければ、死ぬのが自分だと誰もが理解している。だからたった一人の意思が、まるで人間すべての意思かのように扱われ、神々の反感を買ったのだ。
「全ての元凶は国王だ。彼さえいなくなれば〈人神大戦〉も終わる」
「そういって命乞いをしても、神々は止まらないわ。本質的に神々は人間と同じだもの。正確に言うと逆だけど。狡猾で強欲。人間が大勢殺したように、神々も大勢殺すわ」
リンファは洗った皿の、最後の一枚を食器棚に戻す。泡だらけの手を流し、布巾で水気を拭う。
「まあ、私たちがこんな場所で話したところで、どうこうなることじゃないわ。あなたも言っていたけど、人間はそろそろファフニールを殺しにまた〈竜域〉に向かうのでしょう? 私たちが何か手を出すには時間が足りない。今は結果を待つしかできない」
「待つ、か。性に合わんな」
「そうでしょうね。けれどこればっかりは、あなたの独善ではどうしようもないの」
本当にそうだろうかと、シグルズは思う。
自分の力はそんなものなのか、と。
なにか特別な目的があって行動を起こしたわけではない。感情的に、リンファを救い出した。国を変えたいだとかそういう御大層な理想は掲げていない。だが、本当にそれでいいのか。どうせ明確な目的もなく動いているなら、何かを変えるために自分の命を燃やした方がいいのではないか。
その方が、世界は今より緩やかになるのではないか。
「……俺は〈混血〉だ」
突然そんなことを言う。
「そうね、それがどうかしたの? まさか、同じ〈混血〉であるアーガルズ国王に太刀打ちできるのは自分だけだとでも思っているの?」
「そうは思っていない。だが、誰かが彼を止めなければならないのならば、それはきっと、力を持つ者の役目だ」
「自分が力を持ってるって考える辺り、本当に傲慢ね。別にあなたがやらなくたって、神々が殺すわよ」
その通りかもしれないとシグルズは思った。だが――。
「これは、人間がやらなくちゃいけない事だ」
人間が、世界を狂わせた。それぞれが別々の階層で過ごしていた。妖精も、巨人も、魔族も、人間も。しかしそれを、人間が崩したのだ。ならばその人間の一人として、それを矯正する必要があるのではないか。
シグルズは〈混血〉だ。正確なところ、人間とは違う。かといって魔族でもない。だが、心は常に人間であろうとした。堕ちた国王とは違い、他者を思う人間であろうとした。
国王を討つには、十分な役者ではないかと、シグルズは自分で思っていた。
「あなた、アーガルズ国王を殺す気?」
「殺すとか殺さないとか、そういう問題じゃない。誰かが止めなければならない。今の体制に、人間の在り方に異を唱える人間はなにも俺だけじゃない。国王に対して不信感を抱く者は大勢いた。だが、誰も行動しなかった。誰も行動できなかった。行動を起こしたところで、国王に命を奪われて終わりだ。大切な人を取り残してこの世を去るだけだ。だったら、何も失うものがない俺が適任だろう?」
「その考えを傲慢だと言っているのよ。まあ、あなたが行くというなら私は止めないけど」
リンファは諦めたようにため息を吐く。
もし、もし自分が行動に移すのならば、アーガルズ国王を討つのなら、リンファは〈魔族国サバト〉に置いて行かなければならない。
アーガルズ国王から遠ざけるように、隠すように逃がした彼女を、再び国王に近づけるのはよろしくない。あの国王は、常軌を逸した行動をとる。正直な話、シグルズは〈魔族国サバト〉への亡命さえ安全策ではないとさえ考えている。アーガルズ国王も人間と魔族の〈混血〉だ。ファナケルの泉にある階層渡りの魔法。その門扉に気づいていてもおかしくはないし、それを使って追いかけてくることも考えられる。
「ともかく、私もあなたももう少しここでゆっくりしてもいいんじゃないかしら。まだここに逃げて来たばかりなのよ。心の整理が必要。お互いにね。急いては事を仕損じるわ」
ごもっともである。
シグルズ自身、アーガルズを裏切りこうして逃げていることに対して、とてつもなく大きな出来事を起こしてしまったと思っている。だから少し、緊迫したような焦燥感に駆られていたことは否定できない。急いているというのもリンファの言う通りだ。
せいぜい、滞在できるのは一週間と言ったところだろうか。
アーガルズ国王は決断力がある。ファフニールを討伐するとなったら、二週間以内に準備を整えて行動に移すだろう。それ自体をどうこうするつもりはシグルズにはないが、可能であれば国王が行動を起こす前に彼を止めたいという気持ちは、少なからずある。
それに、二週間も三週間もここで世話になるわけにはいかない。
「とりあえず、俺は一週間後にここを発つ」
「……分かったわ」
シグルズの出した結論に、リンファは小さく頷いた。
§
その夜のことである。
リンファとシグルズに分け与えられた部屋は一部屋。ベッドも机も何もない、一言でいえば屋根裏部屋である。かろうじて、布団が二組あるのが救いだが、異性と同じ部屋で寝るというのは思ったよりも落ち着かないのだなと、リンファは布団の中で思った。
少しだけ、胸が痛い。
別に、心臓の病気だとかそういう物理的なことを言っているわけではない。ただ少し、吐き出すため息に胸が苦しくなっただけだ。
理由は、後ろで死んだように寝ている男。男の言葉が、リンファの胸に刺さって抜けないままでいた。
シグルズはまるで死に急ぐかのように、次に行動を移そうとしていた。どうやら彼は一週間後にここを発ち、アーガルズの国王を殺しに行くという。
なにも失うものがない自分が適任だと、人間が落とし前をつけることだと、人間であろうとした、自分がやるべきことなのだと。一週間後に世界樹第三階層〈魔族国サバト〉を俺は発つ、と。
彼が一人で旅立とうとしていることはリンファも汲み取れた。
彼がそう判断するのは当然のことだ。逃がした女をわざわざ捕まっていた場所に近づけるわけがないのだ。
それが、リンファの心に纏わりつくような靄を掛けた。
シグルズは「自分は失うものはない」と言った。彼はきっと、彼にとってはきっと、そうなのだろう。だが、だが――。
「私はあるのよ。バカ」
寄る辺を失った少女にとっては、彼が唯一の拠り所だった。




