14.エルマの選択
世界樹第五階層――〈アーガルズ〉。
アーガルズ兵団中央広場。主に騎士や兵士が鍛錬をする際に使用するこの広場で、東の空が白み始めた早朝に、人影が一つあった。彼女の握る木剣が空気を掻くたびに、癖のある紅葉色の髪が揺れる。
騎士シグルズが〈竜の守り人〉を連れて逃げ出してから一週間が経った。その翌日から、少女はその紅葉色を揺らしながら、ひたすらに木剣を振るっていた。
「精が出るな、エルマ・ライオット三等騎士」
木剣を振るう手を止め、振り返る。目に入った人物に向け、右掌を胸元に当てて小さく頭を下げる。
「おはようございます、バロック閣下」
「おはよう、ここ最近は毎朝鍛錬しているそうだな。実に立派なことだ」
「お褒めに預かり光栄です。ところで、なにか私に御用でしょうか」
顔を上げる。
竜狩り騎士団、団長――バロック・ハーヴェスト。階級は高等騎士。エルマにとっては雲の上のような存在だ。こうして声を掛けられたことに対して驚いたが、それ以上に名前を憶えられていることに驚愕した。
「一つ相談事があってな」
「相談ですか?」
バロックが頷く。
「例の〈反逆の騎士シグルズ〉について。それともう一つ、邪竜ファフニール討伐についてだ」
エルマは目を見開く。
反逆の騎士シグルズ。それはエルマにとっての大切な、とても大切な先輩が被った汚名。いや、汚名と割り切ってしまうのは、行動を起こした彼に対して失礼なのかもしれないが。
邪竜ファフニール。それは〈竜狩り騎士団〉が組織された目的そのもの。神々との争い――〈人神大戦〉における障害の一つだ。ファフニールを倒すために多くの騎士たちはその腕を磨いているし、エルマも例外ではない。
「ついにファフニール討伐を行うのですか?」
「ああ、会議で決定した。国王陛下も無茶が過ぎると思うがね」
「……失言ですよ、バロック閣下」
「なに、誰も聞いちゃいないさ。それで、シグルズの追跡とファフニールの討伐を同時に行うとのご意向だ。シグルズ追跡には兵団長ラウラサーの部下、スヴィーナ率いる第一師団とアウィスト率いる第三師団、それと騎士団から四等騎士三名、三等騎士二名、二等騎士を一名出す。現状、足取りはファナケルの泉付近で途絶えている。それを追う。
ファフニール討伐には〈竜狩り騎士団〉総勢七千五百名の内、三分の二を動員する。明日の昼にでもなれば、公式で告知する。そこで、きみに相談だよエルマ・ライオット三等騎士」
一体何の相談なのだろうかと少しだけ眉を顰める。ファフニール討伐に騎士団の三分の二を動員するとなると五千人程度かそこらだ。四等騎士が騎士団の四割を占めているとなると、確実にどちらかに配されるだろう。鍛錬を大して積んでいない四等騎士を邪竜討伐に向かわせるとも思えない。
「きみはシグルズの後輩だったな? 随分と仲が良かったと聞くが」
エルマは頷き「そうですが」と答える。
「本来、誰をどの任につかせるかは私を含む高等騎士、準高等騎士が決めることだが、多少は他の騎士の意も組んでやらねば、騎士団長が聞いて呆れる。それできみだ。きみは鍛錬の成果を邪竜にぶつけるか、それとも逃げ出した上司を追いかけるか、どちらに使いたい。私はきみの意思を汲みたいと思う。本当はこんなふうに個人を贔屓するようなことは良くないのだがね」
どちらだろうかとエルマは考える。
こうして、自分が騎士になったのはなぜだったか。自分が朝早くから木剣を振るようになったのはなぜだったか。
騎士になったのは、単純な理想と強い自分が欲しかったためだった。きっとこの戦いの先に平和があるのだと、人々が平和に暮らすことのできる未来があるのだと。神々が人間を殺すために引き起こした〈人神大戦〉。その勝利の先に誰もが享受できる幸せがあるならばと、エルマは剣を手に執った。
そして何より、大切なものを守るために。
エルマは幼い頃、両親を亡くしていた。強盗殺人だった。エルマがお遣いから帰ってきたときには、家の金品は盗まれ、代わりに床が赤く染まっていた。
その時から、もし自分が強ければという思いを抱くようになった。自分が強ければ、大切なものは取りこぼさないだろうと、そう思ったのだ。
ここしばらく、朝早くから鍛錬に打ち込んでいるのはそれが理由だろうか。否、そうではなかった。ただの憂さ晴らしと言ってしまえるほど単純なものでもない。行き場を失くしたシグルズに対する自分の想いを、剣に乗せて振るっていた。悲しさや怒りですらない、ただただ空虚なその想いを。それは騎士として、正しくないことだと思っている。思っているが、このやり方でしかエルマは自分の感情を処理できなかった。
恋する一人の少女としての自分と、騎士としての自分がエルマの中には混在していた。不安定なそんな自分に、踏ん切りをつける必要があった。
「ファフニール討伐に参加します」
エルマが出したのは、その答えだった。
「いいのか? 慕った上司を追わなくても」
「私は、邪竜討伐を目指す一人の騎士です。反逆者の相手は、彼に縁のない者であるほうが適しているでしょう?」
「……分かった。そうであればあとはこちらで処理しよう。半月中にファフニール討伐作戦の詳細を出す。それまで精一杯鍛錬に励め。一部を除く三等騎士以下は初の実戦経験だ。大切なものへの別れを済ませておけ」
「はい。それでは私はこれで」
右掌を胸に当て、頭を下げると、木剣を持ったままその場を立ち去った。
小さく下唇を噛む。そして――。
「……先輩より大切な人なんて、この世にいないですよ」
誰にも聞こえないように、そう呟いた。




