10.各々の思い
あんな諭し方でよかったのだろうかと、シグルズは自分の言葉を振り返っていた。自らの背負う責任と、自らが抱く心情に挟まれた彼女に掛ける言葉は、あれが正解だったのだろうか。
「……ありがとう」
隣からそんな鈴のような声が聞こえた。
目を横に移すと、シグルズの手を握る一人の少女が、真っ直ぐに前を見据えて一緒に歩いていた。空色の長髪は、月明かりで銀色に見えた。
「あなたのおかげで吹っ切れたわ」
「それなら、よかった」
シグルズも責任と心情に板挟みになったことがある。騎士としての自分を選ぶか、全てを捨てて〈竜の守り人〉を救う自分を選ぶか。
どちらの判断が正しいということはないのだろう。人によって正しさの基準も誤りの基準も大きく異なる。
シグルズは人間でありたかった。だから自身の抱いた心情を、〈竜の守り人〉を助ける道を選んだ。ここで心情を捨ててしまえば、それはきっと人間であることを捨てるのと、同じような気がした。そうして人間でなくなっている人物を、一人知っている。アーガルズ国王。彼はシグルズと同じ〈混血〉でありながら、人間としての理性も感性も捨て去った男だ。あんな風にはなりたくなかった。今、シグルズの手を握る少女を「飼う」などと言うような者にはなりたくはなかった。
だから、今の結果を選んだ。
「兵士の人たち、追ってこないわよね」
少女がシグルズに問う。
「ああ、しばらくは眠ってくれているはずだ」
気絶させた兵士たちが目を覚ますのは朝が来る頃だろうか。もしかしたら夜が明ける前に目を覚ますかもしれないが、そのときにはシグルズたちはとうにその場所を離れている。簡単に追いつける距離ではないだろう。
「それなら、いいわ」
随分としおらしくなったものだと思う。つい先ほどの「穢せ」だの「殺せ」だのと喚いていた面影は今はどこにもない。ただの子どものように思えた。
「目的地」
「え?」
少女の声に視線をそちらに向ける。
「目的地、ファナケルの泉って言っていたけど、そこになにがあるの?」
少女の問いに、シグルズは何から話そうかと考え込む。
「……〈神の禁忌〉を知っているか?」
「当たり前じゃない。〈異種族同士での交配を禁ずる〉、〈翼をもつことを禁ずる〉、〈世界樹を枯らす行為を禁ずる〉の三つよね。それがどうかしたの?」
「本来、俺たちが今いる世界樹第五階層〈アーガルズ〉から別の階層に行くには、一度世界樹の外に出て、空を飛んで行かねばならない。人間は禁忌を犯し、〈方舟〉を作った」
「〈方舟〉?」
「アーガルズ兵団が所有する、翼のある船だ。それを使って第四階層〈巨人国リートニア〉、第六階層〈妖精国アルヘーム〉、そしてお前がいた第七階層〈竜域〉に侵攻した」
「本当に人間は愚かね。その話が目的地と何の関係があるの?」
シグルズは一呼吸置いてから、話を続ける。
「昔、俺の母親――第三階層〈魔族国サバト〉の魔女が、空を飛ばずに別の階層に移動する術を編み出した。そうして俺の母親は、第三階層から第五階層に来て俺の父親と出会った、らしい」
「それじゃあ、その空を飛ばずに別の階層に移動する術、とやらがファナケルの泉にあるということなのね」
「そういうことだ。仕組みそのものは知らないが、その術で〈アーガルズ〉と〈魔族国サバト〉は繋がっているらしい」
「つまり、逃げる先は世界樹第三階層〈魔族国サバト〉ね」
シグルズは「ああ」と言って頷いた。
「大丈夫なの?」
少女が不安そうな顔でシグルズを見上げる。当然の反応だ。
世界樹第三階層〈魔族国サバト〉。魔人や魔女が住まう魔境。理性が外れ、魔法という力を得た人間のようなものだ。国とは言うが、国主がいるわけでもない殺伐とした世界。隣にいた奴が次の日には死んでいるなんてことが当たり前の世界。文献上ではそう記されている。そしてシグルズにとっての母親の故郷。
「大丈夫だ、当てはある」
「知り合いでもいるの?」
「いや、会ったことはない。が、親の名前を出せば匿うぐらいはしてくれるだろう」
「そう」
こんな適当な答えで納得してくれるのか、と思う。本当にしおらしくなったというか、大人しくなったというか、子どもっぽくなったというか。
「……ねえ」
シグルズの手を握る少女の握力がほんの少しだけ強まる。
「なんだ?」
「……名前、聞いてなかったと思って」
はて、名乗っていなかっただろうか。いや、そんなことはない。確実に、出会ったときに、世界樹第七階層〈竜域〉で名乗ったはずだ。なんなら相手に名前を聞かれた。
「名乗ったはずだが」
「え、いつ?」
「出会ったときだ。〈竜域〉で、お前が気絶する前に名を聞かれて答えただろう」
すると少女はそっぽを向き「そんなの覚えてるわけないじゃない」と口を尖らせた。夜でも分かるぐらいには、彼女の頬が赤くなっているのが僅かに覗いて見えた。
「シグルズ、シグルズ・ブラッドだ。これ以上の自己紹介はいらんだろう」
名前を聞いた少女は、その名前を噛みしめるように「シグルズ、シグルズね」と何度か復唱し、
「リンファよ。よろしくね、反逆の騎士さん」
微笑んだ。
§
シグルズと〈竜の守り人〉を追わせた兵士たちが、その身だけで戻ってきたことをアーガルズ国王に伝えると、国王は「そうか」と小さく頷き、蓄えた髭を撫でた。
「追う必要はないぞ」
東の窓から朝日が差し込む。にっこりと笑う国王の顔が見えた。
あまりにも予想外なその言葉に、竜狩り騎士団長バロックはほんの少しだけ、返す言葉が詰まって遅れる。
「……追う必要はない、ですか」
「うむ。追う必要はない」
念を押すように、国王はもう一度言う。
「連れ出したのは、儂と同じ〈混血〉の騎士であったか。それであれば納得がいくものじゃ。あ奴も儂と同じで魔族の血が流れておる。儂と同じようにあの麗しい娘を使いたかったのであろう。一度目ぐらい許してやろうではないか」
「……左様でございますか」
「しかし……野放しにするのはいかんな。明日には捜索隊を出せ。とは言っても、既に行方を完全に晦ましておろうが。〈竜の守り人〉は生かして捕らえろ。反逆の騎士は殺しても構わん」
国王は「戻って良いぞ」と膝をつくバロックを払うように手を動かした。
「……仰せのままに」
それだけ言って、バロックは国王の居室を出た。
少しだけ、廊下を歩いた。長い廊下だ。まるで国王の居室のためだけに設けられたかのような、いや、実際そうであろう装飾が壁中に施されていた。
コツ、コツ、と、廊下を歩いた。大理石を踏みしめる足音が後ろで響き、追いかけてくるようだった。
廊下を曲がった。いつもの廊下だ。なんて事のない飾り気のない廊下。アーガルズ国王の住まうアーガルズ城は、兵団と併設される形で建設されている。というのも、これは国王の意向であるらしく、元々武人である国王自ら兵団の指揮を円滑に行うためだとか。
しかしバロックは、そんなアーガルズ城建築の歴史に否定的だった。
「……下衆め」
誰にも聞こえないぐらいの小さい声で言う。脳裏に浮かぶのは国王の薄気味悪い笑顔。
以前、一度だけ兵団内で反乱が起きたことがあった。第六階層〈妖精国アルヘーム〉や第四階層〈巨人国リートニア〉への侵略戦争の前だ。
他の階層への侵略、というよりは、移動そのものだ。ただ、移動する手段がこの世界樹を飛び出して、飛んで行くしかない。しかし〈神の禁忌〉には〈翼をもつことを禁ずる〉とある。あろうことか国王は侵略のために翼をもつ船――〈方舟〉を兵団に作らせた。それに異を唱えた者が起こした反乱だった。結論から言ってしまえば、失敗に終わった。反乱軍の人員が千に対し、残された当時のアーガルズ兵団は一歩も動かなかった。いや、動くなと命令された。誰に。アーガルズ国王に。
あの老体のどこにそれほどの力が眠っているのかは推し測ることができない。まさに一騎当千だった。魔族と人間の混血たる国王に敵う者など、一人もいなかった。
兵団がそんな恐怖の支配に怯えるようになったのは、その一件の後からだった。誰も国王には逆らえない。口答えできない。異を唱えられない。それをしてしまえば、殺されるからだ。
だから今のバロックも、自身の唇を噛み切ることしかできなかった。
一等騎士シグルズの判断は人間らしいそれだった。もし自分が同じ立場であるのなら、同じ行動をとっていたのかもしれない。バロックは〈竜の守り人〉の姿を実際に見たわけではない。報告書として読んだだけだ。青藍色の瞳に人界空色の長い髪、纏う衣服は布を適当に縫い上げた一枚だけ。十七歳程度の少女の姿。意思の疎通が可能。
優しいシグルズが、情を抱かない方が不思議なくらいだった。それに加えて国王の「飼う」という発言。ゾッとした。報告書に目を通し、意志の疎通ができる、外見が人間と同様の年端の行かない少女を、齢八十いくらの老人が「飼う」など。
「……お前は、間違っていない、シグルズ」
そう、彼は間違っていない。極めて人間的な行動をしただけだ。だがそれは、人間的であると同時に人間を裏切る行為だ。バロックはれっきとした騎士だ。アーガルズ兵団に組織された〈竜狩り騎士団〉。その指揮権を担う高等騎士。アーガルズに住まう人間の味方。その誇りを捨てることはできない。
シグルズの判断は間違っていない。彼にとっては正しいし、それ自体はバロックも認められる。だが、正しさは人の数ほど存在する。
「待っていろよ、反逆の騎士シグルズ」
こぶしを握り締め、大切だった部下の名前を確かな呼吸で吐き出した。
§
同刻、騒動から一夜明けた朝。
驚くような騒ぎがあった翌日だというのに、兵団内はいつも通りで、多少の噂話のような囁き声が聞こえるだけだった。
騒動――囚人の逃亡だ。誰が逃亡したのか、もちろん先日捕らえられた〈竜の守り人〉である。誰が逃亡を手助けしたのか、あろうことか〈竜狩り騎士団〉の騎士だった。それは誰だったのか。そんなこと、エルマは考えたくはなかった。
「なんか、大変なことになっちゃったねぇ」
「……そうだね」
自室のベッドに座り込み、同居人の言葉に頷いた。
朝食を済ませて部屋に戻ったところだった。本来であれば、着替えて鍛錬に励む時間のはずだが、そんな気分ではなかった。
「私も休もうか?」
「ううん、大丈夫。ソフィアは鍛錬してきなよ、私は一人で大丈夫だから」
同居人の、横で髪を留めた金髪の少女にそう伝える。同居人は「分かった」と言うと、そそくさと着替えて部屋を出た。まるで追い出したかのようで、エルマの心には少しの罪悪感が残った。
いや、実際追い出したようなものだ。一人になりたかった。きっと彼女は、そんなエルマの気持ちを少なからず汲んでくれたのだろう、優しい子だ。
「……先輩」
どこかへ行ってしまった、大好きな人を呼ぶ。返事はもちろん返ってこない。
自分のせいだと思った。エルマの大好きな人は、先輩は、〈竜の守り人〉のことで悩んでいた。彼は優しい人だ。優しい人であろうとした。きっと、〈竜の守り人〉の処遇を決める会議で、彼の望む結論は出なかったのだろう。だから行動を起こした。その決心をさせたのは、燻る迷いの火を消したのは、他ならぬエルマだった。
「私の、バカ……」
枕に埋めた顔を持ち上げる。壁に掛けられた暦が目に入った。明日の日付に、ぐるぐると主張の激しい赤丸が付けてあった。
「先輩の、バカ……」
涙を拭うように枕に顔を埋めて、そのままベッドに横たわる。抱える枕を抱きしめ、詰まる息を揺らしながらゆっくりと吐きだした。
「……嘘つき」




