01.竜の守り人
世界樹第七階層――〈竜域〉。
霧が立ち込める森の中、少女は目下で仰向けに倒れている、自分よりもひとまわり体躯の大きな竜狩りの男の首に、自らの握る細剣を突き立てた。
「あなたで百二十七人目。次の生は人間として生まれられるといいわね。まあ、神々に逆らおうとしているんだから無理でしょうけど」
浅いため息。その小さな口から僅かに白い息が漏れ出る。
「さすがは竜の魔女、といったところか」
声のした方に視線をずらす。今しがた殺した竜狩りの男よりも少し小柄な男が、槍の穂先を自分に向けて兜の欠損部から鋭い視線で睨みつけていた。
男はいたる所に傷を作り、少女に向けられた穂先はわずかに震えていた。
「あら、あんな下賤な存在と一緒にしないでくれるかしら? 私は魔女じゃないわ。ただの竜の守り人よ」
「同じことだろう。魔法を操り、人ならざるものと言の葉を交わす。これを魔女と言わずなんというのか」
「随分と私たち、天界に住まうものを目の敵にしているわね」
「当たり前だ。そちらは俺たち人界を滅ぼそうというのだろう?」
「人界を、というのは誤りね。正確には第六階層の〈妖精国アルヘーム〉、第四階層の〈巨人国リートニア〉を支配下に置いた人間を、よ」
刹那、少女の握る剣が閃き、竜狩りの男の腹部を突き穿った。
「これで百二十八人目。さよなら、愚かな人」
「愚かなのはお前の方だよ、竜の守り人」
男の両腕が、少女の背に回される。突然のことに少女は顔をあげた。欠けた兜から覗く男の目が真っ直ぐに少女を見下ろす。男の腕力は凄まじく、少女の膂力ではそれを振りほどくことも叶わなかった。魔法を使おうにも身体に穴でも空けられたかのように自分の魔力が男に流れて行っている。
ただの竜狩りだと、油断していた。身体から力が抜けていく。魔力が吸われていく。弱化魔法の一種だろう。握っていた白藍色の細剣がずるりと滑り落ち、地面に刺さる。
「満身創痍なフリも全部演技だったのね。それに、あなたのお腹を鎧ごと貫いたつもりだけれど、あなた……人間じゃないわね」
「いいや、人間だとも」
「嘘よ。人間は魔法が使えないし、そんなに頑丈じゃないでしょ」
「若作りと凝り固まった古い考えは程々にしておけ、竜の守り人。人間にもイレギュラーな存在が生まれることだってある」
問答の最中、少しずつ意識が遠のいていく。
「あなた、私をどうする気?」
「それは俺が決めることじゃない」
瞼が重い。思考が回らない。
「……名前を、聞いておくわ」
「俺はシグルズ。お前が殺した百二十八人目の人間で、お前を捕えたただの竜狩りだ」
§
ゆっくりと瞼が持ち上がり、現在の情景を瞳に映しだす。
どうやら冷たい石の床に横たわっているようで、自分の空色の長髪が床の上に流れている。髪が流れる先には行く手を阻むように幾本もの鉄格子。空気は冷たく湿っていて、それだけでここが地下であることが窺えた。
だんだんとはっきりしてきた意識の中、竜の守り人である少女――リンファは自分が人間に捕まったのだと認識した。
「気分はどうだ、竜の魔女」
「最悪よ。今の状況も、その呼び方も」
聞こえた声に反射的に答える。痛む身体を起こし、鉄格子の向こう側にいる男を睨む。
「ここは?」
「世界樹第五階層――お前たち天界のものが忌み嫌う、人間が住む〈アーガルズ〉だ」
「そうでしょうね」
ため息を吐く。
「それで、私を捕えた竜狩りが何の用かしら」
「自分が捕まえた者がどんな具合か見に来ただけだ。他意はない」
男のつまらない回答に「ふぅん」と鼻で返事をする。
「随分と私を警戒していないのね。仮にも天界の出入り口たる〈竜域〉の管理者のようなものなのだけれど」
リンファがそう思ったのは、男の出で立ちが争ったときのそれと比べて随分と貧相なものだったからだ。全身を覆う鎧もなければ物々しい槍も携えていない。軍服と思しき衣服に加えて腰に剣をぶら下げているだけの戦う意思を感じない格好。当然兜も被っていないのだから、錆色の短髪も丸見えである。
「別に、今のお前は俺にとって全くもって脅威じゃない」
男はどこかへらへらとした様子で言った。
リンファはそんな男の態度にむかっ腹が立ち、少々語気を強めて「気に食わないわね」と口を開いた。
「軽口を叩けるのも今のうちよ。こんな牢屋、今に壊して外に……」
魔法の一つでも撃てば吹き飛びそうな牢屋だと思っていた。
実際にリンファのその見立ては間違ってなどいない。魔法に耐え得るほど頑強な牢屋に出来ていない。逆に言ってしまえばそれは魔法さえ撃たれなければ何の問題もないということだ。
「……あれ、なんで」
力が出ない、というよりは魔力が出ないという方が正確だろう。
「魔法が撃てないだろう? それはお前が魔力の無い状態だからだ」
「……回復すればなんてことないわ」
「回復することはない」
男が床に座るリンファと同じ目線までしゃがみ込む。そして彼女に向かって真っすぐに人差し指を向けた。
「言っただろう。お前の魔力は今〝無い〟状態だと。だから魔法は使えん。普通の人間と変わりないようにな」
男が不敵な笑みを浮かべる。
魔力とは液体のようなものだ。体内を巡り、循環している。これは自然発生する代物ではなく、体内に魔力炉なるものが備わっていなければ魔力など生まれない。当然魔法も使えない。人間なんかは魔力炉を持たない良い例だ。
リンファは当然魔力炉を持っているし、世界樹第三階層――〈魔族国サバト〉に住まう魔人や魔女も同様に魔力炉を持ち、魔法を操る。
この男が言いたいのはそんな魔力炉がリンファの内から消失した、ということなのだ。にわかには信じがたいが、魔法が使えない以上認めるしかなかった。
「お前の魔力炉は今、俺の中にある。だからお前は魔法が使えない。ついでに言うとお前の持っていた神器の細剣――あれも俺たちが回収したから手元にはない。つまり、今のお前はなんて事のないどこにでもいる女の子と同じだ。何百年と生きていることを除いてな」
「返して」
「返せと言われて返すと思ったか? 残念だがそこまで舐めちゃいない。完全に無力化できていることが確認できたから、こうして軽装備でお前の目の前に姿を晒しているんだ。それにこれは、そう簡単に返したりできる代物じゃない」
リンファは下唇を噛んだ。
男の言い分は正しかった。魔法も使えず、神器たる聖剣フロティールがなければただの少女に過ぎない。彼女が竜の守り人たる所以は、彼女の護る守護竜ファフニールと唯一意思疎通のできる存在であることと、数多の魔法を操れることぐらいだ。こうして使える手札を奪われてしまっては、リンファは現状を打開する術を持たない。
「諦めろ、竜の守り人。その陳腐な牢屋で自分の処遇が下されるのを待つんだな」
吐き捨て、男は去っていった。
§
去っていく男の後姿を見る。
リンファは焦っていなかった。
人間に負けた、これは認めよう。人間に捕まった、これも認めよう。牢屋から出る術を持たない、悔しいがこれも認めよう。しかし、だから何だというのか。
傲慢にも妖精や巨人を支配下に置いた人間を神が滅ぼすために始まった〈人神大戦〉。どうやら人間はこの争いさえも利用して神々を取って喰うつもりらしいが、そんなこと――。
「できるわけないのにね」
自分から力を奪って勝った気になっているあの男を、人間を、嘲笑った。
人間は必ず負ける。世界樹第五階層〈アーガルズ〉の緑豊かな大地は必ず焦土と化す。自分の処遇が死刑だろうが何だろうが、神々が人間を敵対視している時点で結果は決まっているようなものだ。妖精や魔族のように魔法も使えず、巨人のように強靭な体躯も持ち合わせない、亜人のように爪や牙もない非力な生物が、世界樹を育てた神々に敵うはずがないのだ。
「せいぜい足掻くことね、人間」
自分がどうしようもない状況であるというのに、空色の髪の竜の守り人はもう一度小さく嘲笑った。