7、若林純一市議のブログに寄せられたコメントに対する天乃川の反論(nさん編)⑤
……続きです。
次に「③ワクチンによる死者を想定しつつ,他人に接種を強要することは,人道に対する罪になるか。〜他人への強要問題」に移ります。
n様は
>コロナが落ち着かなければ経済的に困窮し,自殺者が増えます。
>ワクチンなしにコロナが広がれば,先ほどの大数の法則に従って,少確率が牙をむいてきます。
このようにおっしゃっていますが、コロナが落ち着かなければ云々……については全く同感です。このコロナ禍によって失業者や自殺者も増えています(昨年の10月は女性の自殺者が前年同月より8割増しています)。うつ病や虐待も増えていますし、早急にコロナ禍を終わらせる必要があります。
しかし、このコロナ禍はコロナ自体の毒性によるものではありません(季節性インフルエンザによる例年の死者数を思い出して下さい)。マスコミが過剰に恐怖を煽り国民が大いに影響され、ポピュリズム全開の首長達が大いに便乗し、どうしようもなくなった政府がおずおずと追認していく。
政府は今年の初めには指定感染症の「2類」相当から季節性インフルエンザと同等の「5類」に落としたかったのだけれど、世の中の空気的にそれが出来なかった。GoToキャンペーンもマスコミと大衆に恐れをなしてやめてしまった。
これらの問題がコロナ禍を生み出し、そして加速させたのではないでしょうか?
緊急事態宣言や自粛、マスクの着用、ソーシャルディスタンス……このどれにも感染対策的な有効性がなかった事は既に証明されていると言えます。過剰な感染対策(ワクチン接種も含む)など関係なくデルタ株による陽性者数は激増し、別に人流が減ったワケでもないのに陽性者数が激減していく。あの事態だけを見ても過剰な感染対策に意味がなかった事を証明できます。
――私はコロナ禍というものをこのように捉えていますが、いかがでしょうか?
ワクチンの部分におけるご意見については、先ほど長々と申し上げた通りです。
また、n様はこうもおっしゃっています。
>コロナワクチン接種により一定の死人発生が想定される場合において,その死者数が,コロナ罹患等による直接的副次的死者数を有意に下回る場合に,事実上にせよ,制度上にせよ,コロナワクチンを接種することを強制しうるか。
つまりは少数の犠牲のもと,多数を救うことが許されるかという問題があります。
>でもこれは前提がおかしいです。ワクチン接種で不幸にして被害が現実化した「少数」は何らの利益を受けることもなくただ犠牲にされただけではないです。ことワクチン問題については,犠牲となってしまった「少数」も利益を受けています。
みんなで助かろうとして(この場合には感染拡大予防効果も含まれよう。),そのためのチャンスを得るためにワクチンを接種したけれども,不幸にして,死者が出てしまった。それは誰であってもおかしくなかった,ということであって,死んだ方々は,生き残った方々の踏み台になったわけではないのです。
私はどれも納得できません。
ワクチンによって亡くなった可能性のある人は今のところ「1,233人」、コロナによって亡くなったとされている人数よりも少ないのは確かです。単純に数字の上ではその通りです。
しかし、繰り返しになるかもしれませんが、そもそもコロナによって大して死者も重症者も発生していません。例年の季節性インフルエンザよりも格段に多いワケでもないです。亡くなっているのは基礎疾患のある高齢者ばかりで、子供のほとんどは無症状か軽症です。
それなのに、安全性に疑義のあるワクチンを国民全体レベルで打つ必要性を感じる事ができません。有効性や危険性に関しても先に述べた通りです。そもそも例年のインフルエンザ流行期にここまで国を挙げた大規模接種なんてしてこなかった筈です。なぜ、コロナだけは特別扱いするのでしょうか?
また、先ほども申し上げましたがインフルエンザワクチンの副反応死よりも、はるかにコロナワクチンの副反応死のほうが多い(副反応死の可能性ですね)。少なくとも言えるのは、子供にワクチンを打たせる必要は全くない。子供に「犠牲」というリスクを負わせる事はおかしいと感じています。子供はコロナに感染しても無症状か軽症。亡くなった子供だって一人も居ません。(インフルエンザでは子供も死に、「インフルエンザ脳症」による重い後遺症も多いです)。
「利益」に絡めて言わせていただくと、そもそもワクチンとは「社会防衛的観点」において接種するものではないと考えています。全体の利益の為に個人が貢献する――的なものではないと思っています(n様がワクチンを社会防衛の為に接種するなんて言っていない事は分かっています)。
ワクチンを接種する対象は前提として「健康な人」ですが(ですのでワクチンの安全性に対しては高いレベルを求められます)、ワクチンとは健康な人が自己の判断によって自己の為に接種すべきものだと考えています。
冷たい言い方ですが、他人の命なんて二の次です。高齢者達を守る為とか関係ありません。ワクチンというものは、自分自身の健康だけを考えて接種するものだと考えています。厚労省も「努力義務」という(曖昧な)言い方をしていますが、これは実質「任意」と捉えられますよね。
なんと言いますか、ワクチンとは少数の「犠牲」を前提にして「社会防衛的」に接種するものではないでしょう。完全に自分の為だけに接種して構わないものだと考えます。
特に子供に関してはコロナに感染したところでほとんどノーダメージです。ですので、子供が社会防衛的な観点でワクチンを接種するのは完全にナシだと思っています。子供が大きなリスクを抱えてまで社会を防衛する必要はありませんから。
とりあえず子供に関しては、もしワクチンによって死んでしまったとしたら、残念ながらこれは利益なき「犠牲」であると考えます。「殺人」と言っても良いです。
>死んだ方々は,生き残った方々の踏み台になったわけではないのです。
このようにおっしゃっていましたが、社会防衛的な観点からのワクチン接種という事に関して言えば、私は「犠牲」者はなんの「利益」も得ておらず、ただただ意味なく「踏み台」になったものと考えてしまいます。
先ほども申し上げましたが、「犠牲」者は「殺人」によって亡くなったのだとすら考えてしまいます。
というのは、ワクチンの副反応における「死」と、コロナに感染した事による「死」は、同じ「死」でもその内実が全く違います。
コロナウイルスというのは「自然」の産物です。ですので、もしコロナに感染して死んでしまったとしても、それは究極的には「自然現象」です。自然には抗えないものです。東日本大震災において我々は痛感した筈です。
一方、ワクチンというのは「人工物」です。人間の作りし人工の産物です。ですので、健康な人がワクチンの副反応によって亡くなってしまったとしたら、それは究極的には「殺人」になると私は考えています。
「死」の内実が違うのです。同じ「数」だとしても、ひとつひとつの数の意味がまるで異なっているのです。
「自然」による「死」であるか「殺人」による「死」であるか、この究極の選択を皆さんはしておかなければならないと思っています。「自然」による「死」と「殺人」による「死」と、どちらを選ぶか決めておかないとなりません。ワクチン接種に関しては「死生観」も絡んでいますね。
兎にも角にも、私はワクチンによって健康な人が亡くなってしまう事は、誰か他人に殺されたものと同じだと考えますので、そういう意味でもベネフィットがリスクを上回るか上回らないかを正しいデータや情報でもって理解する事が大切だと考えています(話しが脱線しましたね。すいません)
「④あなたは全体を俯瞰して眺める事のできる頭の良さを持っている人でしょう。別の出口戦略を」
については特に申し上げる事はございません。
最後にn様はこう予言していらっしゃいます。
>予言しますが,おそらく政府が行おうとする実証実験はよい結果をもたらすでしょう。重要な政治日程も駆け込みですぐ終わります。
そうなれば,(いきなりではないにしても)「終わり」でしょう。
n様のおっしゃる「よい結果」がどのようなものか分からないのですが、私もコロナ禍の終結は近いように思っています。
ここで、私も最後に予言をさせていただきたいと思います。
新型コロナウイルスのワクチンに関しては、先の「薬害エイズ事件」の繰り返しとなるでしょう。それも格段に酷いレベルで。
以上です。
●「n」氏のコメントに対する「天乃川シン」のコメント
n様は「確信できないもの」に関してこのようおっしゃっています。
>では確信を抱けない状況で何をもって信頼するのか。
いろいろありますが、構造に目を向けるのが方法の一つとしてありえます。
なるほど、それもそうかもしれませんね。
しかし、その「構造」を支えるのが公衆衛生当局の医系技官等の「専門家」だという事ですが、その連中が偏ったモノの見方をしている事に大きな問題を感じています。
厚労省の外郭団体に「医薬品医療機器総合機構(PMDA)」という独法があります。こちらの専門家がワクチンの副反応の評価をしていますが、どう考えてもおかしな評価だと思いませんか?
1,233人もの人が副反応によって亡くなったかもしれないとして現場から報告が上がっていますが、そのほとんどが「因果関係不明」です。とても不自然だと私は考えています。
また、権力の側が事実を隠して誤った対応をし続ける事があるというのは、ある意味で常識です。薬害エイズ問題で我々は学んでいる筈です。
「確信が抱けない状況で何をもって信頼するのか?」――n様はこのようにおっしゃっていますが、私は確信が抱けない状況で「指針」とするのは「常識」だと考えます。
「常識」とは「庶民の感覚」の事です。生活する現場を持った庶民の感覚です。これまでの歴史において醸成された知識や知恵を内包したものが庶民の感覚ですので、確信を抱けない状況においては「常識」を指針にした方が宜しいかと思います。「大衆」のポピュリズム的感覚からくる「人工的な常識」ではなくて、「庶民」の生活感からくる「歴史的常識(?)」とでもいったものです。
「庶民の常識」からすれば、今までにない技術でもって急ごしらえされたワクチンというものは怪しいですし、権力の側が須らく「安全です!」――なんて宣伝するワクチンは怪しいですし、接種した人の副反応事例が異常に多いワクチンは怪しいですし、子供はコロナに感染してもほとんどノーダメージであるにも関わらず、「いや、子供も重症化する事がある!」――なんていう理由でもって接種を迫られるワクチンは怪しいという事になるワケです。
私は何が正しいのか分からなくなった時は、自分の常識的感覚を信じます。
名著「大衆の反逆」においてオルテガも言っていました。
「専門家こそ、私が今までさまざまな側面と様相から明らかにしようとしてきた新しい奇妙な人間の見事な一例である」
「専門家は知者ではない。というのは、自分の専門以外のことをまったく何も知らないからである」
私はワクチンに批判的な言動は全て「デマ」だとする専門家よりも、自分の中の常識的感覚を信じたいと思います(もちろん、科学的根拠やデータもです)。
以上です。