無意識な意識
午後6時。右側のブレーキランプが切れた軽トラック。その後ろを会社の営業車で走行中。老夫婦だろうか。窓ガラスから後ろ頭が見える。仲睦まじい様子。
32歳、独身、男。
結婚していてもおかしくない年齢。
「別にいいけどさ」
誰に言う訳でもない。車の中で1人呟く。
4月に入り1週間。新年度になったからといって、自分の生活は今までとなんら変わりない。朝起きて、仕事に行き、夜に帰宅。その繰り返しだ。
「ただいま戻りました」
会社に着くと、定時を過ぎているのにまだ数人残っていた。
「お疲れ様です」
と返してくれる。その中に事務の女性が1人。珍しいなと思いつつ、自分の席に掛けた。パソコンをスリープ状態から起動し直し、データをまとめる作業にかかる。チラッと先ほどの女性のほうに目をやった。キーボードを叩きつつも、視線はパソコン画面に向けられている。うちにはもう1人事務の女性がいるが、その人は帰ったのだろうか。今仕事をしているのは若いほうの事務だ。もしかして、仕事を押し付けられたのか。そんなことを考えていると、
「藤川くん」
自分を呼ぶ声がした。振り返ると自分より1つ年上で、勤続年数は自分より3年長い立花先輩が立っていた。
「はい。どうしたんですか?」
ちょっと申し訳なさそうな顔をしている。
「悪いんだけど、今日娘の誕生日で…俺あがってもいいかな?」
なんで自分に許可を取るんだと思いつつ、いいんじゃないですかと答えた。
「それで、その…この資料なんだけど、まとめといてもらえないかな?明日の会議で使うんだよね。あ、もうほとんど出来てるからさ。画像を何枚かはめ込んで、校正して5部プリントアウトしてくれればいいから。データは共有サーバーに入れてる」
先輩の説明になるほどとなる。仕事が残ってたから、自分に声をかけたのかと。帰っていいかの許可をとった理由も頷ける。
「いいですよ。わかりました。やっときます」
そう言うと、先輩は嬉しそうだった。何度もお礼を言われる。
「お礼はいいですから、早く帰ってあげてください。娘さん待ってるんでしょう?」
「あぁ、うん。ほんとありがとう。今度なんか奢るよ」
先輩は残っている人たちにお疲れ様と声をかけて帰って行った。立花先輩と俺、歳は1つしか違わないのになぁ……と思った。娘さんの誕生日って、何歳になるんだろう。他人と比べても仕方のないことだ。資料作りやろう。共有サーバーのどのフォルダかなと思いながら、先程渡された作りかけの資料に視線を落とした。明日の会議は10時からのようだ。議題を確認して、ファイルを探す。見つけてからは、もくもくと作業をした。先輩の字は読みやすくて、指示も分かりやすい。
それから1時間ほどで、自分の仕事もキリがついた。ふと顔を上げると事務の女の子がまだ作業しているのが見える。びっくりして、
「雪野さん、なんか問題?終わりそうですか?」
と声をかけた。はっとした彼女は俺のほうを見て、目をパチパチさせた。驚いている様子。
「あっ。すみません。集中しすぎて時間を忘れてました。何か問題がある訳じゃないです。ご心配、ありがとうございます。帰らないとですよね。すみません」
謝罪?と感謝を交互に口にして、少し困ったように笑う。仕事を押し付けられた訳ではなかったらしい。それはよかったけど、集中しすぎるくらい、仕事に夢中だったのか……
「そんな謝らなくても大丈夫ですよ。集中してたって……仕事、大変じゃないの?まぁ、俺とは仕事内容、違いますけど」
素直に思ったことを口にする。
彼女は一瞬考えたが、すぐにさっきとは違う、心からの笑顔で、
「好きでやってる仕事ですから。大変ですけど、苦ではないです」
と言った。少しドキっとした。仕事が好きと言える彼女がキラキラして見える。
「それに、自分が苦しいことはしたくないですし、自分が好きじゃないことはできるだけ避けたいので……」
小さく笑いながら言う彼女は、俺より年下のはずなのに、大人に感じた。
「そっか……でも会社って組織だから、嫌なこと避けて通れないこともあるし、認めてもらえないと苦しくなりませんか?」
ちょっと悔しくて、そんな言葉が口から出てしまった。しまったと思ったけど、雪野さんはきょとんとしていて、
「あぁ。藤川さんの言う、認めてもらえないっていうのは、他人からですよね?わたしは自分の価値は自分しか正しく認識できないんじゃないかと思っているので。誰かに評価される世界でも、その評価は完全なものではないと思います。それに、自分の好きな自分でいたいです」
そう、言葉を連ねた。この人はちゃんと自分を持っている。頭をガンっと叩かれたような衝撃だった。
「……なんか、素敵ですね。尊敬します」
やっとの思いで発した言葉は小さくて少し震えていた。
「え?あ、ありがとうございます」
照れたように笑う。なぜかそれにつられて笑ってしまった。
「あ!いいじゃないですか!その笑顔!藤川さんも素敵ですよ」
そう言われて、びっくりした。お世辞かもしれない。でも雪野さんの話しを聞く限り、素直にそう思ったのかもしれない。
無意識に、笑っていた。その顔が素敵だと言われ、今度は俺が照れた。
「そんなことないよ。でも、ありがとうございます」
2人で笑い合った。
そして、帰らないとですよね?と彼女が言うので、戸締まりを確認してまわる。いつのまにかほぼ人がいない。
「では、お疲れ様でした。色々お話しできてよかったです」
雪野さんの言葉にこちらこそと答えて会社を後にする。
駐車場までの道のり、なんだか少し清々しい気分だった。
『自分の価値は自分しか正しく認識できない』
『自分の好きな自分でいたい』
この言葉をこれからは大事にしていこう。誰に何を言われようと、自分の価値は誰かに決めてもらうものじゃないんだと思う。意識して自分を変えていきたい。
雪野さんの言葉を思い出しながら、また、無意識に笑っていた。