第八話「健太郎の叫び」
11:40
さて、二人が来てしまう前に朝食となる昼飯を食ってしまおうか。
俺は二階の俺の部屋でパソコンを弄っている美紅に昼飯を作る手伝いをさせるため、美紅を呼ぶことにした。
ちょうどいい、今朝のあいつの大声の仕返しをしてやるか。
俺は今朝の美紅の暴挙を思い出しながら、胸一杯に空気を吸い込み…。
「美紅うううぅぅぅ! 降りてこおおおおおぉぉぉぉぉい!」
この瞬間の俺に、近所迷惑という概念があったかどうかは定かではない。
「近所迷惑を考えなよ、兄貴」
結局、適当にあしらわれたのでした。普段は使うことのない兄貴という呼称がなんか腹立たしい。
「それと仕返しの魂胆が見え見えすぎて醜いぞ、兄貴」
……そして今日の美紅はとても生意気なのでした。
11:55
(バカ女が来る前にさっさと飯食ってこの家からとんずらだ!)
俺は食卓の上の飯をやっとの思いで食い終わり、優斗の家に避難する準備を整えるため自室に駆け込んだ。
12:5
居間で美紅と作ったスパゲティナポリタンをモッシャモッシャと頬張りながら食っていると、来客を告げるインターホンが家に響いた。
意外に早かったな。どうやら向こうも昼飯をさっさと片付けてきたとみえる。
「私が出る」
食卓のテーブルの向かい側で、同じくスパゲティナポリタンを貪っていた美紅が立ち上がる。客の対応があいつでは心もとないが、目の前にある大好物を食うのを中断するのは俺の気分を少しばかり害するので、取りあえずここは美紅に任せよう。
俺は大好物のスパゲティナポリタンを更に口に放り込んだ。口の中に美味という名の荘厳なオーケストラが鳴り響く。
スパゲティナポリタン…万歳…! 俺シアワセ…。
12:3
俺はやっとこさ御厨家に行く準備を整えた。準備し終えた俺は正に稲妻の如くスピードで自室を飛び出し、気づいたら家の外にある自転車に乗りかかっていた。
ここからチャリを飛ばせば十分後には優斗の家に避難完了しているだろう。バカ女の魔の手が迫る前に、この危険な家を飛び出さなければ…。
俺は自転車を漕ぎに漕ぎまくった!
12:6
「そんじゃあ美紅と一緒に俺の部屋で待っててくれ」
居間に顔を出したそいつに俺はそう促した。
さてと…あと少しだけ残ったスパゲティナポリタンを頂くとしようか。…名残惜しいが俺は最後の一口となったスパゲティナポリタンをフォークに絡ませ……そして…食った…。
実に名残惜しい…。
12:12
も…もう少し…もう少しで優斗の家だッ……。
過去にこれほどの力で自転車を漕いだことなどあっただろうか?
俺の脚の筋肉は今にでも限界を超えそうだ。このまま脚が大爆発を起こしてしまいそうな錯覚にとらわれる。
…まあ、何にせよあの女の魔の手からは逃げ切った。ハッ! 残念だったな滝本よ。俺はもう家にはいないぜ!
俺は住宅街の道路をひた走る。途中、バカ女から逃げ切れた喜びが堪えきれないものとなり、俺は周りが住宅街だという事もお構いなしに……。
「フハハハハハハァァァ! バカ女め、ザマアミロォォォォォ!」
高らかに叫んだ。
この瞬間の俺に、近所迷惑という概念があったかどうかは定かではない。
12:12
「なんか今…叫び声がしなかったか?」
「かなりデカイ声だった」
美紅もどうやら聞こえたらしい。
そんな声が聞こえた気がしたのは、俺たち三人が俺の部屋で雑談に興じている時の事だった。
「さっきの兄ちゃんみたいな叫び声だったな」
「うるせぇ」
相変わらず一言多い美紅である。俺の大声の方が今の叫び声よりマシだっての。
それにしても誰だ今の叫び声は? 近所迷惑をものともしないようなこんな醜い大声をだすとは…頭に変な虫が湧いてるとしか思えん。
まったく、けしからん。近所迷惑を考えないような何処ぞの馬の骨の叫び声など忘れるに限るな。
12:14
…やっと…優斗の家に、たどり、着い、た……はぁ…はぁ…長かったぜ…。
俺は御厨家のインターホンを押した。
12:14
本日二度目のインターホンが鳴り響いた。
「やっと来たね」
美紅が立ち上がり、再び玄関へと向かう。
美紅が開け放ったであろう玄関の扉の開閉音が微かながら聞こえた。
そして、美紅と健太郎がなにやら喋っている声が聞こえる。しばらくして二人が階段をのぼる足音が聞こえる。
「ふふっ…」
ほくそ笑むとは正にこのことを言うのだな。
―――俺はこの時を待ちわびていた。
12:14
やっと御厨家への避難に成功した。
息も絶え絶えにミクミクと会話をし、優斗の部屋のある二階への階段をのぼる。ミクミクが後から階段をのぼってくる。
―――あと数歩で優斗の部屋だ。
12:14
悪魔のような笑顔の準備はできたぜ。
部屋の扉がやっと開いた。
今日は実に楽しいな…。
「よう健太郎!」
12:14
「よう健太郎!」
扉を開けた目の前には元気に俺にあいさつする優斗。
そして、俺はこの部屋にいるもう一人の女の姿を見て…………。
絶望ニ叩キ落トサレテシマイマシタ。
12:14
「客がもう一人来てるぜ」
健太郎の顔が凄いことになっている。とても愉快だ。
「お前のよく知ってる…」
俺はできる限り意地悪く、意地悪く言葉を放ってやった。
「滝本まおなだ」
健太郎の顔がもっと凄いことになった。
12:15
「滝本まおなだ」
はめられた…。
「いやぁ偶然彼女が家の近くを通りかかるのを見つけてさ〜…」
嘘だ。絶対はめられた…。
「久しぶりね、佐竹」
お前はどこかへ消えてくれ…。
「おい健太郎、元気出せよ」
そしてお前もどこかへ消えてくれ…。
完全に油断したときは既にもう遅いのだ。その一瞬の油断が自分の最も弱いところ、つまり弱点となる部分をえぐられてしまう。
今回の俺の油断はたった一つ、たった一つだけだ! だがそのたった一つに見事に、それはもう完膚無きまでに俺は叩きのめされた。
そのたった一つの油断とは…そう。
御厨優斗に心を許したことだ……。
「健太郎。お〜い。大丈夫か?」
「かなりショックだったみたいね」
憎き優斗と滝本の声が微かに聞こえる。俺はあまりの出来事に立ったまま完全に放心状態になってしまった。
「なあ滝本。今の健太郎みたいな顔の絵があったよな」
「?……ああ、あったわね。確かム……」
俺はそこからの二人の会話をほとんど覚えてない。覚えていることといったら、何やら携帯電話で写真を撮った時のようなあの音が聞こえてきたような気がすることと…。
「大丈夫? 健太郎」
俺の背後に立つミクミクの気遣いの言葉が聞こえてきたことぐらいだ。
この時、携帯電話で写真を撮った時のようなあの音が鳴ったのは実は気のせいではないらしく。これは滝本が持参していた携帯電話によるものだった。俺はその時間違いなく顔の写真を撮られていたようだ。
後で見せてもらった俺の顔写真だが、その俺の顔は間違いなくあの絵にそっくりだった。
確か…ムンクの『叫び』とかいう作品に出てくるあの顔に、写真の俺の顔はそっくりなのだ。
――凄い顔になっているのは間違いなかった。――