幕間
この俺、御厨優斗が今まで過ごしてきた十五年の歳月を振り返り、そしてその十五年に感想を抱くとしたら一体どんな一節が好ましいのだろうか? 考えてみたはいいが俺の冷たい感性の前には碌な言葉など浮かんでくるはずがない。
とりあえず小学校時代の俺を思い返してみる。思い出すのはいつも自分の中の冷めた感情だ。俺の児童期を短く表すなら、冷めた子供、という表現が正解だろう。そんな児童期を過ごした自分がただ空しい。
小学生の高学年という立場を受けた俺はその時期から他人の行動、言動、感性に幼稚なものを感じてならなかった。周りのクラスメート達から聞こえてくるそのおしゃべりは同じ内容の繰り返しだ。けれどそれはそれで良いのだ。漫画とかテレビゲームとか、その時期の少年少女らしい趣味を楽しむ会話は大いに結構ではある。しかしそうした趣味の方面で自己の精神を和らげているにもかかわらず、そいつらはこんなことまで言い出すのだ。
――あいつキモイから死んでくんないかな――
――マジメにやっててウザいんだけど――
――あいつ気持ちワルくねぇ〜?――
こういう類の言葉をよく覚えている。人が「しね」とか「きもい、ウザい」という言葉を使っている場面に嫌悪感を募らせるようになったのも、たぶん俺がちょうどこの年代の頃だろう。趣味だけでは飽き足らず、ついにそいつらは他人を見下すことによって憂さを晴らし始めたのだ。当時の俺はそんな奴らを精神的に子供だな、と冷たい眼差しで見つめていたのだ。
いつも嫌だった。思春期にはいって性格が悪くなっていく周りの人間たち。年を重ねるごとに人が人に対する悪口に毒気が多く含まれていくこの胸糞の悪さ。それらの毒は周りの連中にも影響を及ぼしていった。インフルエンザが学校中に蔓延した、といえば簡単な例えだろう。
小学校を卒業する頃になっても、その一種の病気のような毒は消滅することはなかった。寧ろ酷くなっていったようにも思う。中学に入ってもその毒の感染速度は手の付けられないものとなっているどころか、その毒の症状自体が重くなりやがった。やがて感染者は小学生の頃に見せ始めていたような黒さを更に濃くして、己をドス黒くしていったのだ。
そして、この周りの環境の変化に我慢するのも俺はもう疲れた。
中学に入学してから久しい時期になった頃には、俺はもう周りの人間の殆どを疎ましく感じるような、そんな冷たい人間になっていた。
それなりに仲の良くなった奴が俺の友人に対する陰口を放つような事を仕出かしたのが、もしかしたら原因なのかもしれない。そいつは俺と友人の仲の良いことを知っておきながらそんな口を叩いたのだ。俺の友達の友達が全く知らない奴だというのと同じように、そいつにとっての友達の友達など知った事ではないのだろう。俺はそんな薄情さが、何より人間関係を甘く見たような幼稚な発言が大嫌いだった。そして気付けば周りの人間殆どが俺にとっての大嫌いに該当するようになってしまっていたのだ。
俺はそんな自分をどこまでも冷たい奴だと思った。
今思えば、俺はある種の疑心暗鬼のようなものに陥ってしまっていたのかもしれない。気付けば俺は人を疑うような接し方を心のどこかでしていたし、大体それを疑心暗鬼と呼ばずして何だというのか。フラッシュバック現象の例に、周りの人間が刃物を持って襲ってくるとかいう疑心暗鬼を俺は聞いたことがあるが、俺はその気持ちが何となく分かるよな気がしないでもなかった。別に周りの人間が本気で襲ってくるとか勿論俺は思ってはいない。けれど俺としては、当時の俺の心境と、このフラッシュバック現象の例は根底がどこか似ているような気がしてならないのだ。他人を疑ってかかっているところが特に似ていると思ってしまう。
そんな根暗と言えそうな俺でも、周りの全てが敵であったわけでは決してない。健太郎のようなクラスメートや、その他の連中に気を許したことは一度や二度ではなかったと思う。そんな連中に不覚ながらも笑顔にさせられた過去があるからこそ、以前の俺よりかは気持ちが少しは楽になった気がする。そんな過去が訪れなかったら俺は今頃、根暗人間として生きる道のスタートラインを躊躇いなく踏み越えていたことだろう。それを思うとやっぱりゾッとするね。
色々と述べたが、要は俺は周りの変化に馴染めなかったってことだ。成長するにつれ腹黒くなっていった連中を、俺は「毒」の感染者とか何とか述べたが、俺だってそんな奴らと大して変わらない。俺は胸糞の悪さを、思っても言葉にすることこそしなかったが、俺に嫌悪感を与える原因達に対して心の中で罵詈雑言をしょっちゅう投げかけてやっていたのだから、俺だってある意味「毒」の感染者だ。俺だって立派に腹黒いさ。
何となく俺はそんな自分の事について考えてみた。
何故俺は人の黒い部分を嫌う節があるのか。その疑問に一つの仮説をたててみたが、すぐにそれは有り得ないことだろうと否定する。その否定の理由は、自分の性分には合わないだろう、というだけの実に適当な理由なのだが、この仮説に対する否定の理由はやはりそれしか思い浮かばない。それにこの仮説を健太郎の前でうっかり告白した日には、俺は一生あいつの都合のいいネタになる自信がある。
その仮説というのは、「俺は人の黒い部分ではなく、幸のある明るい姿が見たい」という仮説なのだが、少し考えれば健太郎が放っておかないような小っ恥ずかしい内容であることは火を見るよりも明らかだった。それに、仮に俺がこの仮説を受け容れたとしても、ユーフォリアに充ち満ちた世界は流石の俺でも拒絶しそうだ。それ以前の問題として、幸福感を感じている人間なんて見た目じゃそうそう分からないだろうに。俺は何て馬鹿な仮説をたててしまったのだろう…。
自分の馬鹿さ加減についつい溜息をついてしまった。何だか色々と述べた気がする。
疲れてしまったので、今日はもう寝るとしようかな…。