おやすみなさい。
目が覚めた時、僕はベッドの上にいた。
見慣れている風景、僕の部屋だ。ベッドから跳ね起きて部屋に明かりをつける。外はまだ暗い。時計はやっぱり2時30分を指していた。針は……動いている。
カーテンをあけて外の景色を確認する。外は相変わらず暗いままだったが、そこには人間の営みがあった。トラックが近くの道路を走り、パトカーが見回りをしている。酔っ払いが何かを唄いながら住宅街を歩き、交番の前で眠りにつく。
小山は満月の光をいっぱいに浴びながらも、影を作って薄暗かった。
長い長い夜がいつの間にか終わったのだ。僕は自分の恰好を確認した。敗れたジーンズもジャンパーも身に着けてはいない。すべては昨晩眠りについた格好で元通りになっていた。
僕は体を何度か動かしてみる。もう痛みは残っていない。何もかもが全て夢であったかのようにリセットされてしまっていた。
僕はもう一度あの山に戻ってみようかという衝動に駆られてたが、結局諦めることにした。もうこの時間はあの者たちの世界ではない。人間の世界ではこんな中学生が外を出歩いたらすぐに捕まってしまうのだ。
窓を開けてもう一度外の景色を確かめる。あの時と同じ冷たい空気が流れ込んでくる。肌に直接突き刺さる風は、それが確かに現実のものであるということを僕に教えてくれた。冷たさが体の芯にまで突き刺さり泣きそうになる。
秋の夜は長い、とても長い。部屋でじっとしているには申し訳ないくらいの長さなのだ。
山の奥をじっと眺める。あの時僕はいったい何を手に入れたのだろう。あの世界は夢なんかではない。僕はその世界をこの目で見て、耳で聞いて、痛みを感じて、確かに存在をしていたのだ。時間の止まった何者かの世界(おそらくあの赤いものの世界)の中で僕は必死にそれと向き合おうとしていたのだ。
秋の風が顔に吹き付ける。冷たい風にさらされて目から自然と涙がこぼれた。苦しむ女の子を救えなかったときにも流せなかった涙の塊が、どういう訳か止まらなくなる。僕の中で熱いなにかがこみあげてきてどうしようもない。熱くなっていく目頭を風が優しく冷やしてくれる。そのせいで僕はもうこの涙を止める必要がなくなってしまった。
これまでずっと吐き出すことができなかった思い、表に出すことができなかった感情そんなものが熱い塊となって外に飛び出していく。何か別の感情でずっとふたをしていたのだ。なにかから向き合うことなんてしないでいた。その思いは思考となり、行動となり、僕自身になっていた。
“もしあの時” なんて考えはしない方がいいのかもしれない。時間は止めることはできるとしても、逆戻りにすることは決してできないのだから。一度動き出してしまった時間は何があっても巻き戻せない。その空間が止まった時間に支配されていたとしても。もうあの不思議な世界に僕は二度と戻ることはできないのだ。
頭ではっきりとそれがわかっていた。戻る必要なんてないはずなのに、涙が止まらない。この気持ちは何なのかなんてわからない。それでも、泣くしかないのだ……
ひとしきり泣いた僕は、ようやく目を開けられるようになった。視界はまだぼやけている。夜は相変わらずうるさく、暗いままだ。僕はぼやけた視界の中で赤い光を見つけた。山の方ではない、僕のすぐ目の前だ。それはいくつかの塊になりながら、僕の目の前に浮かんでいる。純色の赤なのに、どこか温かい。
――あの時と一緒だ。
光は僕の周りを何度か浮かんだあと、空へと飛んで行った。視界がぼやけているせいで、他の景色は何も見えない。ただ赤いそれだけが僕の前から空へ向けて飛んで行った。
きっとあれは僕の中から出て行ったものだろう。今ならそう言い切れる。あの世界は僕を確かに誘っていたのだ。赤い塊がどこかへ飛んで行ってしまうと、なんだか体が軽くなった。それと同時に眠気が急に僕の中を襲ってくる。目頭は熱かったが、秋の風が冷やしてくれるから問題はないだろう。
僕は明かりを消して再びベッドにもぐりこんだ。時計はもうすぐ3時になる。時間は確かに動いている。もう二度とあの世界に戻ることはないだろう。でも、それでいい。僕はこの人間の世界を生きて行かなければならないのだ。
止まった時間の中に僕の残した足音はまだ残っているだろうか?
赤い光たちはあの世界に帰れただろうか?
あれは誰かの世界なんかじゃない、僕の世界なんだ。きっと。少しずつ意識が遠くなる。夜は寝る時間なのだ。
秋の夜は長い。だからこそ寝ないといけないのだ。
「おやすみなさい」
ようやく完結です。
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