山の麓
しばらくの間、僕は何もなく山に向かって歩き続けた。秋の夜は変わらずに静かに僕が歩く様子を見守っていた。
特に何か障害物が来るわけでもなく、異変もさっき何かの声を聴いたこと以外は何も起こらない。何も起こらない静けさに帰って不安になってしまう自分がいるくらいだ
そしてそのまま、ついに僕は目的地の山の麓にまでたどり着いた。山は月の光に当たって静かに光り、その頂上だけがやはり不自然な赤い光を煌々と輝かせていた。
山の入り口に立って中の様子を眺めてみる。普段はみんなの遊び場所となっているはずなのに、今日はその様子を完全に別の何かに飲み込まれてしまっている。昼間から夕焼けにかけて映える紅葉も、夜にはその色を失い、山に入り込もうとする月の光をさえぎっていた。
僕はただ静かな森の中を歩いていく。吸い込まれるように、ただ前だけを向いて歩いた。
一歩歩くたびに、枯れ葉の音がする。しかしそれらは時間の消えた空間の中で行く場所を失い、ずっと宙にさまよい続けていた。
消えない音と空間を共にしていくうちに、僕はほんとうにこの空間にいるのかわからなくなってきた。「僕」という存在がどこまでもこの世界に合っていない、不完全な存在に思えてくる。
ほんとうはこの世界こそが本当の世界で、人間はただ眠り続けて夢の世界の中に生きているだけなのではないのだろうか?
不安で胸がいっぱいになってしまう。だんだんと足が動かなくなる。
“この先を進んでしまったら、僕はこの世界に絶望をしてしまうのかもしれない”
知らないことがいいことの方があるのかもしれない。僕はたまたまこの世界に迷い込んできただけなのだ。それを自分の興味でこの山に隠されている世界の秘密を覗いてしまっていいのだろうか? 見ない方がいいことが無限とあるこの世界の中で、なぜこれだけを見ようと思ったのだろう?
きっと秋の夜中で変なテンションになっていただけだ。きっとそうだ。何度も自分に言い訳をしながら山を引き返す言い訳を考えた。
――そう、見てはいけないものがこの世界には必ずあるのだ。
僕はうつむきながら山を下ることにした。駆け足で山を駆け降りる。一刻も早くここから離れてしまいたかった。走って、走って駆け下りる。頭の中にはいろいろなことが浮かんできた。でも、それらを考えてどれだけ気を紛らわそうとしても、必ず最後はこの夜の出来事につながってしまう。
その思いから離れるためにまた別のことを思い浮かべる。そんなことをずっと繰り返している。
やがて、なにかにつまずいた。
小石か、木の枝か、何につまずいたのかはわからない。ただ、この山は駆け降りる僕を馬鹿にするかのように静かにずっと佇んでいる。そっと障害物を僕の前に差し出すだけでいい。それだけで弱い人間は簡単に転んでいくのだ。この世界はそのことがよくわかっているのだ。
山の道を転がり落ち、僕は途中の木の幹に体をぶつけた。ひどく体が傷む。枝の隙間から空を眺める。空は相変わらずよどんだ色をして、空に浮かぶ雲も動くことなくただ沈黙を保っている。
秋のひんやりとした空気が体を少しずつ芯から冷やしていく。
そのどれもが非現実的であるはずなのに、実感として僕のもとに入って来た。
この痛みも、冷たさも、視界も全部僕のものなんだ。夢であっていいはずがない。僕は生きている。なぜだか、生という感覚が恐ろしい位に僕の中に湧き上がってくる。
体が十分に冷えたところで、僕はもう一回立ち上がった。
ジーンズは膝の部分で破けてしまい、腰は痛いままだったが、それが逆に心地よかった。この感覚が僕を現実の世界に引き寄せているような気がした。
頂上を目指してもう一度山を登りはじめる。山の道は木の根や砂利で散らかっていて、どれが僕をころばしたのかはわからなかった。
下ってきてしまった分、山の頂上はまたと奥に感じてしまう。でも、それでもいい。
どうせ秋の夜は長いのだ。ゆっくりでも前へ足を進めれば、それでいいのだ。