満月の夜には
マンションを抜けて、ようやく外に出ることができた。
外にはマンションの中からは見ることができなかった景色が広がっていた。いや、見ている景色は一緒なのだ。でも、どこかが歪んでいる。
止まってしまった時間の中を漂う空気は、暗闇というよりかはうす紫の靄みたいなものだった。夜の闇の中に入るはずなのに、やはり何かが違う。
ここはいつもの世界ではないのだということを、空気を通して僕に直接語りかけてきた。なんだか自分がこの世界の中で歩いていることがすごいふわふわしたものに感じてしまった。夢か、幻か、とにかく精神がおかしくなって変なものを見ているのではないかとさえ感じてしまう。
それでも、スニーカーを通して足に伝わって来るアスファルトの感覚があまりにも現実的過ぎて、そんな甘い幻想すらも簡単に打ち砕かれてしまう。現実であって現実ではない場所、その間には何があるのか、僕は人類史上誰も知りえない事実を暴こうとしているのかもしれないのだ。
駐車場を抜けると広い交差点に出る。僕の立っている対の角には交番が立っている。しかし、交番もやはり、明かりは消えていてその機能を失ってしまっていることをあらわにしていた。僕は交番から誰も出てこないことをもう一度確認した後、堂々と交差点の真ん中を歩いていみた。普段は車の交通でうるさく、夜でもトラックの音で栄えているはずの交差点を生身の人間である僕が歩いている。
交差点の中心で夜空に向かって大きくを叫んでみた。僕の声は静かに夜のうねりの中に吸い込まれていく。なんだかとてもいい気持だ。世界の中心に立っているような気がした。
夜空の真ん中に満月が浮かんでいることに気が付いた。雲一つない黒紫の空の上に浮かぶ黄色い満月。満月の形があまりにも綺麗なまんまるだったので、その美しさが逆に恐ろしくも感じてしまった。
「満月か」
僕は独り言のようにつぶやく。満月の夜はあまり好きではないのだ。満月の夜にはいつも仲の良かった女の子のことを思い出してしまう。
****
「満月の夜には絶対にカーテンを開かないでね」
小学生の時、彼女は僕に向かってそう言った。
まだ僕たち家族が今のマンションに引っ越してくる前、隣町の貸家に住んでいた。その時隣に僕と同い年の女の子(どういう訳か名前が思い出せない)と僕は仲が良かった。一緒に小学校まで通い、帰るときもいつも一緒に帰っていた。
クラスメイト達からは「付き合っている」とかなんとかからかわれることもあったが、僕たちはそんなこと気にしなかった。
「言いたい子には言わせておけばいいのよ」
彼女はいつもそういって僕と一緒に行動していた。見た目は黒いおさげに、眼鏡と、いかにも真面目そうな女の子なのに(僕なんかよりも頭がよかった)、どこか男勝りで僕を巻き込んでいく不思議な力を持っていた。
そういう訳で、僕たちはいつも一緒に遊んでいた。遊ぶ場所はいつもバラバラで、お互いの家に入り浸ることもあったし、公園で遊んだり、知らない町まで探索をすることもあった。いつもどこで遊ぶのかを決めるのは彼女で、彼女の好奇心の赴くままに僕を連れ出した、今の僕の行動力が付いたのも彼女のおかげではないかと思うところが大きい。好奇心が強いからなのか、彼女はどんなことも拒まなかった。
だから僕は、ある日突然彼女が禁止事項を僕に設けてきたことに非常に驚いてしまった。僕の引っ越しが決まる一か月前の出来事だった(もちろんその時はまだ自分が彼女と離れるとは全く考えていなかった)
「カーテンを開けないでってなんで?」
「なんでもよ。私だって女の子なの。見られたくないことだってあるのよ」
「じゃあ、窓越しで話すこともできないんだね?」
僕は残念そうに彼女に訊ねた。僕たちの部屋は家の壁で向かい合っていて、家から出なくても、窓からお互いに交流することくらいはできたのだ。カーテンを開けないということはすなわち、その晩の彼女との交流が失われることを意味していた。彼女は難しい顔をしたが、すぐにさっぱりした顔に戻した。
「そうよ。別に満月の夜だけなんだから別に大丈夫でしょ?」
「でも、」
「なによ」
「……」
なにかを言いかけた僕はその後の言葉を続けることができなかった。それまでずっと一緒だと思っていた彼女に対して急に大きな壁ができてしまったような気がした。
「分かった」
僕は結局彼女の言うことを渋々受け入れた。その日も彼女と遊んだが、どこか上の空になってしまっていた。しかし、そんな気持ちも2.3日すれば消えてしまっていた。
満月の夜はそれから10日後にやって来た。
夜になるまで、彼女はいつもと変わった様子はなかった。今考えてみると、頑張っていつも通り振舞っていただけなのかもしれないが、とにかく僕の目にうつる彼女はいつも通りの元気な彼女だった。
「約束覚えているよね……?」
学校からの帰り道で彼女はためらいながらも僕に問いかけてきた。僕は約束聞いて今日が満月であるのだということを思い出した。僕は彼女に向かって黙ってうなずいた。どのように返せばいいのかよく分からなかったのだ。彼女は僕の無言のうなずきを受け取ると、その日はそのまま帰ってしまった。置いてけぼりにされた僕は再び彼女に壁を感じたようで寂しくなった。
満月の夜は異様なほど静かだった。家の中ではテレビの音や家族の笑い声は聞こえてくるのだが、それが僕の耳には音として入ってこなかった。僕の耳には彼女の「約束」だけがずっと残っていて、それ以外の音を受け付けようとしていなかったのである。カーテンを開けることを禁じられている僕は、家のドアを開けて空の様子を確かめた。
空は雲一つない快晴で、空に浮かぶ綺麗な円の満月だけが怖いほどの存在感を放って町を照らしていた。欠点がないものが姿を現すとき、いったいどこでその欠点を補うのだろうか? どこか外に多いやられてしまった欠点について考えた時、僕の脳裏に彼女の顔が映ってしまった。僕はあわてて首を振って彼女の姿を消し去り、満月を見ないように家の中にひきかえした。
その日はもう早く寝てしまうことにした。頭の中にはいろいろなことがごちゃ混ぜになってしまっていたが、朝になってすべてなかったことにしてしまいたかった。布団に潜り込み、ひたすら羊を数えて眠りにつくの待つ。僕は一度眠ったら朝まで起きない自信があるから、とにかく睡魔が僕を襲ってくれるのを待った。
でも、どれだけ羊を数えていても、途中から彼女が紛れ込んでしまって僕の睡眠を妨げた。彼女が出てきた瞬間、背景が満月の浮かぶ夜に変わる。その度に閉じかけた瞳が目を覚ます。最初は100匹に1回彼女が出てくるペースだったのが、次第に50匹に1回、30匹に1回と頻度が近くなり最後には彼女のことしか考えられなくなっていた。僕はどうしたらいいのかもうわからなくなっていた。
その時、部屋の外から何か物音が聞こえた。窓も空けていないのに、何者かの声が聞こえる。それは言葉にならない声で、しかし確かに大きな声で窓のすぐ近くでうなりを上げていた。僕は閉まっているカーテンの方を見つめる。カーテンは一切の外の情報を部屋の中に入れることなく、部屋の中に暗闇をもたらしていた。
僕はカーテンの方に近づいてみる。近づけば近づくほど、聞こえてくる唸り声は大きくなる。間違いない、声はこの外から鳴っている。僕は声の正体を確かめたい欲求に駆られてしまった。彼女と一緒にいることの反動が顔を出してしまう。
「カーテンを開けないでね」
彼女の約束を必死に思い出す。唸り声は鳴りやむことなく部屋の外から聞こえてくる。――たぶん彼女がうなっているのだ。さすがの僕でもそれくらいの予想はついていた。彼女は何かしらの秘密を抱えていて、それを僕には見られたくないと思っている。彼女との関係と僕の好奇心、天秤にかけたとき、まだ彼女との関係をとれるくらいには僕の理性はまだ働いていた。
「やめておこう」と僕は自分に言い聞かせる。
「た、す……け、て」
僕はうなり声の中からたった4文字の彼女の言葉を聞き取ってしまった。「たすけて」と彼女はそう言った。まだうなり声は続いている。彼女が助けを求めている。僕の中の天秤が一気に傾く。好奇心ではなく、彼女への友情がその片方に乗った瞬間、約束以上の大きな力として僕の心を動かす。僕は思い切りカーテンを開いた。
カーテンを開いた先に彼女はいた。何か恐ろしい姿になっていることすらも内心覚悟していたのだが、そこに映っているのはいつもの彼女だった。彼女は体をねじらせながら唸り声をあげていた。カーテンを閉めていた時に得体のしれないものと思っていた唸り声は、今ははっきりと彼女の声として認識できる。僕は何ができるのかわからなくて、彼女のことを見つめることしかできなかった。
彼女が顔を上げた瞬間、僕と目が合った。窓越しで見つめ合う二人。彼女はただ悲しい顔をしながら僕の瞳を見つめていた。
――見てはいけなかったんだ。それだけははっきりと分かった。僕と彼女の間にあった見えない壁が、はっきりと見える形で僕らの間に立ちふさがってしまった。
彼女はうなりながらカーテンを閉めた。カーテンを閉めるその最後の瞬間、彼女の口元に鋭い八重歯が見えたような気がした。普段の笑顔からは決して見えることはない、鋭い牙であった。しかし、それきり彼女はカーテンを開くことはなかった。壁の向こう側とこちら側、はっきりと僕らは分断されてしまったのだ。
****
結局僕と彼女の関係は修復されないまま僕はこの町に引っ越してきてしまった。
今でも満月を見ると彼女の言葉を思い出す。
「絶対にカーテンを開かないでね」
あの時、カーテンを開かずに我慢していたのなら、僕は彼女とっまだうまくやれていたのだろうか。名前も忘れずにいられたのだろうか。答えは今でも出ていない。
突然、背後から何かの鳴き声が聞こえてきた。満月に向かって叫ぶような獣の声である。その声は満月に向かって叫んでいるようでありながら、僕のことを呼んでいるような気がした。多分、僕のことを呼んでいるのだろう。今、この世界には僕しかいないのだし、僕には呼ばれる意味がある。
でも、僕はその声のもとには振り向かないことにした。そうすることが多分正しいことなのだ。どれだけ呼び止められようとも、人間は無理にでも前に進んでいくべき時があるのだ。
僕はもう一度満月を見上げ、手を振った。そうして誰もいない交差点を渡りきる。僕の目的地はこの先の山にあるのだ。まえに進まなくちゃ。
秋の夜は長い。
長い時間の中だからこそ癒すことができる過ちもあるのだ。