ゆがんだ廊下
ドアを出て、5階の廊下を歩いていた僕はとある異変に気が付いた。
「この廊下、長くないか?」
普段ならエレベーターで20秒もかからないような廊下を僕はずっと歩き続けていた。でも、歩いている感覚はいつもと同じだ。景色もいつもと変わらない。506の僕の部屋は廊下のちょうど真ん中にあり、その隣に504の田中さん、503の市橋さん……と続いていく。僕は通り過ぎたばかりのドアの名札を見る。
「503 市橋」
やっぱりおかしいところはない。しかし、市橋さんのドアは僕の家から数秒でたどり着く。何分も歩く距離ではない。
「おかしい……」
もう一度顔を前に向ける。そうすると、異変に気付いた僕をあざ笑うかのように、廊下はグネグネと長く曲がりくねっていた。まるで大きな蛇が獲物をひそかに狙っているかのように、目の前にいる僕を誘い込もうとしている。
引き返そうとしてみたが、もう後ろには、これまで来た道は残されていなかった。ゆがんだ廊下の中で一人置き去りにされてしまったようだ。
すくむ足を何とかふるいたてながら、足を一歩ずつ前に踏み出していく。右足を出し、左足を出す。そのことだけに意識を集中していると、案外周りの景色は気にならなくなった。どれだけ道が曲がりくねっていたとしても、足元だけを見ていれば前に進むことができる。少しだけ勇気を取り戻した。
しかし、そこで勘違いして顔を上げてしまったのが間違いだった。
もうすでに、目の前の景色はマンションのものではなくなっていた。赤・青・紫それぞれに黒が混じったようないびつな色が混ざり合い、空間を構成している。さっきまでマンションだったものはどこかへと溶け去り、一つの点を中心に飲み込まれていこうとしている。
後ろに逃げようとしてみるが、後ろも状況は一緒だった。僕の部屋は何かの点に飲み込まれ、混沌とした空間だけがそこにある。
今、自分がどこにいるのかが完全にわからなくなる。
「落ち着け、今僕はマンションの廊下にいる」
何度も自分に言い聞かせるが、目の前の景色が目に入ってきてしまい、感覚を麻痺させる。
焦る僕をお構いなしに廊下だったものはどんどん一つにまとまろうとしている。地面は確かにあるはずなのに、それが本当に地面なのかわからなくなる。
前が後ろに、後ろが前になり、上が下になる。感覚がどんどん歪んでいく。
――このままだと閉じ込められてしまう。
僕は眼をつむって駆けだした。前に走れば勝手に集束するその一点に飛び込むことになるかもしれない。それでも何もせずに飲み込まれてしまうよりかはましなような気がした。気持ち悪い感覚が胸の中を襲ってくる。息切れとかそういうものではない。もっとぬめりとした感覚のある、生きたなにかだ。
それでも足を止めずに走った。
「大丈夫、大丈夫」
頭の中で何度も語りかけ、見えないゴールを信じて走り続けた。やがて、僕は何かにつまずいた。足を踏み外した、という表現の方が正しい。
それまで確かに踏んでいた地面がなくなり、僕は真っ逆さまに落ちていく。肩に衝撃が加わり、そのまま転がっていく。ゆがんでいない、現実の感覚だ。
転がったままどこかに叩き落された。体に残る痛みにこらえながらゆっくりと目を開けてみる。僕は5階から4階へ降りる階段の踊り場にいた。エレベーターとは全くの逆方向にある階段である。
痛みの残る腕で手すりをつかみ、何とか起き上がって外の様子を確かめてみる。外は家を出た時と同じように、夜の世界が広がっていた。もちろん、まだ人の姿は見えない。
――解放されたんだ。
ほっとしてその場に座り込む。体全体の力が一気に抜けるような気がした。階段を転げ落ちた痛みが、自分が今安全を手に入れたことを教えてくれた。
上を眺めると、5階の廊下は再びまっすぐに戻っていた。
起き上がり、もう一度怖いもの見たさで廊下を歩いてみようかと思った。しかし、階段を何段か登ってみてから思い直してやめた。そのまま階段を下りて1階を目指していく。なるべく5階の廊下は見ないように心掛けた。
夜はまだまだ長い。長い夜は嫌いではないけれど、終わらなくなってしまうのは別の話なのだ。